「スタタリング・ナウ」2004.10.21 No.122  

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二

「・・・吃音をとりまく厳しい状況の中で、吃音問題の解決を図ろうとするためには、研究者、臨床家、吃音者がそれぞれの立場を尊重し、互いに情報交換をすることは不可欠である。互いの研究、臨床、体験に耳を傾けながらも、相互批判を繰り返すという共同の歩みが実現してこそ、真の吃音問題の解決に迫るものと思われる。・・・」

1986年8月11日

私が起草した第一回吃音問題研究国際大会大会宣言のようには、世界の吃る人のセルフヘルプグループと吃音研究者との関係は必ずしもうまくいっていない。その現実を、オーストラリアでの第7回大会で実感したばかりだった。一方的に情報提供や指導を受けるだけの関係であったり、吃音研究者に理解されないと吃る人が反発する関係がそこには見られ、対等ではなかった。

幸い、日本吃音臨床研究会には長く私たちに関わり、共に歩いて下さるふたりの吃音研究者がいた。日本吃音臨床研究会の顧問でもあり、30年以上一緒に歩いて下さっている内須川洸・筑波大学名誉教授と、「私は、『スタタリング・ナウ』の愛読者ではありません。熟読者です」といつも言っておられた水町俊郎・愛媛大学教授だ。

そのおひとり、水町俊郎教授がこの夏、お亡くなりになった。まだまだ、一緒に語り合いたいことがたくさんあった。一緒にしようと考えていた仕事がいっぱいあった。こんなに急に早くお亡くなりになるとは考えもしなかったので、あわてることなく、じっくり取り組もうと思っていた。先延ばしにしていたことが悔やまれる。それでも、3年前には、「臨床家のための吃音講習会」を始めたり、「吃音のテキスト」を出版する話を進めたり、共同の取り組みは動き始めていた。

ご病気のことは少し前から知っていた。治療の難しい病気で、確率のそんなに高くない治療に挑戦するというお手紙をいただいたときの私の返事が、少し感傷的になっていたのか、すぐに再度お手紙がきた。「私は限りない可能性を信じて治療の場に臨むのですから、病人扱いしないで下さい」というお手紙に、強い生きる意欲を感じた。

5月23日、次の治療への挑戦のために一時退院されている時に、私は愛媛大学の研究室を訪れた。この度出版することになっていた本の最終の打ち合わせのためだった。共著で書く予定だったある章を細かにつめるためだった。しかし、その章の話にはなかなか入らず、吃音についてのこれまでのいろんな思いを熱っぽく話されていた。同席していたご夫人の啓子さんも、こんなに元気なのは久しぶりですとびっくりされるくらいで、私は内心はらはらしながらも、共感し、うれしく楽しい吃音談義に、しあわせなひとときを過ごした。

私と会った翌日に再度入院された。私は、病室以外の場所でお会いして、あんなにたくさん話をした最後の人間だったのではないだろうか。

告別式の日、弔辞のことば、ご子息の挨拶で共通していたことがある。「誰に対しても誠実で、真面目で、努力の人」ということだった。まさに、この生き方を貫いた人だった。ご研究の中で、「吃る人たちは、マイナスのイメージだけでなく、誠実で、まじめで、ねばり強いと見られている。そして実際にそのような人に会ってきた」と、吃る人のプラスの面を強調しておられたが、ご自身が、十分に吃る人の資質を備えた人だった。

『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』(ナカニシヤ出版)のご自分の担当の章を一気に書き上げてから入院された。ご夫人の啓子さんから亡くなる数日前に、「残念ながら、生きる支えにしていた完成した本を見ることができないと思います」と電話があった。

吃音研究者と吃る当事者が初めてがっぷりと組んでつくる本。遺言とも言える本の表紙には、愛媛大学教授・水町俊郎、日本吃音臨床研究会会長・伊藤伸二として欲しいと強く要望された。吃音研究者と吃る人が対等の立場で吃音に取り組むことの必要性を、最後のメッセージとしてお残しになりたかったのかもしれない。

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