はじめに

数え切れないくらい多くなった吃音のサイトの中から、私のサイトにたどり着いたあなた。もし、私と同じような経験をしているとしたら、「吃音が治る」ことを願ってきたことでしょう。しかし、残念ながら私と同じようにその願いはかなわなかったのではないでしょうか。そして、どこかに相談に行ったり、どこかのグループにかかわった経験があるかもしれません。そして、このサイトをみていただくこと、とてもうれしく思います。

 私は、1944年生まれで、79歳になります。とんでもない年になったなあというのが実感です。吃音に深く悩んでいた頃、何の根拠もなく63歳で「野垂れ死」するとなんとなく思っていました。なのでよく生きてきたものだと実感しています。別のコーナーで何度も経歴を書い詳しくは省きますが、私の人生は明確にⅢ期に分かれます。

1期 (3歳~小学2年の秋)     明るく。元気で吃音を気にせず

Ⅱ期 (小学2年の秋~21歳の夏)    吃音に強い劣等感をもち、人生の課題から逃げる

Ⅲ期  (21歳の夏から現在)          吃音と共に豊かに、楽しく生きる

 この違いは、吃音を認めて生きるかどうかにつきます。どもる自分を認め、どもる覚悟をしてからは、ずっと充実した楽しい人生を生きています。私はどもる人の自助グループを創立したり、大学の教員になったり、たくさんの幸運に恵まれました。このような特別な幸運に恵まれなくても、自分の力で「幸せな人生」を摑む道はないかと、たくさんのことを学んできました。論理療法やアサーション、ナラティヴ・アプローチなどです。それらを紹介しながら、吃音と共に豊かな道を歩み始める道筋にたてるか、たくさんの人々の体験を紹介しながら提案します。

どもる人の体験を紹介 

世界は、変わる                            藤岡 千恵

「私、吃音のことは、もう誰にも言いたくない。誰にも言わないでお墓まで持っていくつもり。その方がラク。」

 これは、2005年11月18日に、私が日記に書いていた言葉である。

 日記には、当時の職場で何度かほんのちょっとどもり、内心とても焦っていたことや、当時の恋人にどもりだと気づかれたかどうかハラハラしていたことも綴られていた。その数ヵ月後に、私は大阪吃音教室を訪れることになる。

 私と大阪吃音教室の最初の出会いは、1998年だった。

 その時の私は保育士をしており、話す事の多い毎日で行き詰まっていた。吃音教室の存在は、かなり前から知っていた。伊藤さんの新聞記事を切り抜いて大切に持っていたからである。最初に吃音教室を訪れた時、これまでの(21年分の)思いがあふれ、自己紹介の時に号泣してしまった。そんな私を、伊藤さんをはじめ、参加していた仲間たちがあたたかく迎えてくれた。しかし、どもりを受け入れたくなかった私は次第に足が遠のき、7年ほどのブランクが空くことになる。

 大阪吃音教室に通わなかった7年間、私はどもりをごまかして、なんとか生きてきた。保育士を辞め、デザインの仕事に就き、電話や来客対応、取引先でのお客さんとの会話など、相変わらず話すことからは逃げられなかった。時々、私の不自然な喋り方を指摘されたこともあったが、そのつど必死にごまかしてきた。そして、「私はこの先も、自分の吃音のことを誰にも言わずに死んでいくのだろう」と思っていた。だけど、私はだんだんと苦しくなっていた。どもりと自分は切っても切り離せず、どもりの問題は自分の核心の部分なのだろうと、うすうす感じていた。それでも、心療内科で処方された薬を飲んでいれば気分は楽になるのだと自分に言い聞かせていた。しかし、楽になるどころか、しんどい気持ちは一向に晴れなかった。そして「自分の核心部分に向き合わないままだと、私はこの先もずっとしんどいままで生きていくことになるだろう」と気がついた。その時、7年前に私を迎えてくれた仲間たちを思い出した。

 7年のブランクを経て、再び大阪吃音教室を訪れた私は、その時も自己紹介で泣いた。どもりの苦しみを1人で抱えていたことは、やはりとてもつらかったのだと思う。仲間の前で、その思いを吐き出し、「あなたのこと覚えてるよ」「よく来たね」と迎えてもらい、私はどれほど心が救われたかわからない。

 そして、本当にゆっくりしたスピードで、行きつ戻りつを繰り返し、私は変わりはじめたのだと思う。

 どもる自分を認めたい。だけど人前でどもりたくない。教室にいる人たちのように私も、どもりながら明るく豊かに生きたい。でも、恐くてどもれない。

 そんなことを繰り返し、私はとても時間がかかった。今のように、日常生活でも仕事の場面でも、当たり前のようにどもり、仲間とともにどもりの話題で涙が出るほど笑えるようになるまでの道のりは決して簡単ではなかった。「自分はどもる人間なんだ」と認めることが必要なのだと、頭ではわかっていても、やはり恐かったのだ。教室を一歩出ると足がすくんでいた。そんな中で行きつ戻りつし、仲間の体験を聞き、吃音教室という温かい空間で、少しずつ私はどもりの症状が表に出るようになった。「どもっていても大丈夫」と頭ではわかっているだけの時は、いざ人前でどもる瞬間の恐さがどうしてもぬぐえなかった。だけど、恐いけれど、自分の世界を変えたくて、ほんの少し勇気を持ち、家族や友人の前、会社などで、どもる。「私のどもりがバレたら、関係が変わってしまうに違いない」と思っていた私は、少しずつ、どもりを小出しにしていく中で、「あれ? 私がどもっても、何にも変わらないんだ」と知り、さらにもう少し、どもる自分を出してみる。私が激しくどもろうが、相手はちゃんと話を聞いてくれる。私を見下すどころか、一生懸命聞いてくれ、むしろこれまで以上に心が通うということを知る。そういう道のりだったと記憶している。

 そして今、ふと過去を振り返ると、自分の世界がびっくりするくらい変わっていたことに気がついた。「あなたは、あなたのままでいい」の「あなたのまま」は「どもるあなたのまま」でもあるのだと思う。かつての私がそうであったように、人前でどもること恐さに、どもりを隠して生きている人が、たくさんいると思う。だけど、どもりをコントロールしたり、相手に気づかれたかハラハラし、一分一秒たりとも気が抜けなかった世界から、どもる私のままでのびのびと生きる世界を知った今、私は「どもりを隠して生きていた頃の私には、もう戻れない」と感じている。

 どもりを必死にごまかしていた頃の私は、それはそれで精一杯生きていたのだけど、ありのままの自分で生きる喜びを本当のところ知らなかった。ごまかし、取り繕い、そういう姿勢がしみついていたと思う。どもりと関わる姿が、私の生き方そのものだったのではないかと今は思う。

 長年かけて体にしみこんだものは、そう簡単に、すぐにはぬぐえない。そのことは、今でも感じている。だけど、私の価値観がゆっくりと大きく変わり始めている。劣等感を強く持ち、社会の中で生きることから逃げ腰だった世界から、困難はいろいろとあるけれど、それでもなんとか生きていけるという世界に変わった。もう、どもる自分をごまかさなくてもいい。自分のことばで、話したいことを話したいように話せることの喜びを、今感じている。

 この先も、おそらく平たんではないであろう自分の人生を生き抜いていくのは、正直言って少し恐い。それでも、私はなんとか生きていくのだと思う。どもりとの関わりを通して、私は仲間から”自分の人生を生きる”勇気をもらった。自分自身のどもりが変わるということは、生きる姿勢も少しずつ変わるということなのかもしれない。  私がこうして、どもりのことで仲間と笑ったり熱く語ったりしているなんて、2005年11月18日の私が知ったら驚くに違いない。

そんな私はなんて幸せなんだろうと、思う。

どもりは審査委員長                         赤坂多恵子                  

私の人生の第一次審査は“どもり”が担当する。仕事を探す時は、社名は言い易いか、住所や電話番号すら言い易いかどうか審査の対象となる。そして会社訪問すると電話の台数に目がいった。あんまり多いとパスもした。当時は就職口も今より豊富にあり、こんな事も出来たのかもしれない。言い易いと思って入社した会社も、いつの日か言いにくくなる時がある。そんな時は次の会社が私を呼んでいる、待っていると解釈し退職の方向に向かう。彼を選ぶ時も名前は何? がひとつのポイントとなる。言いにくい名前を超えるほどの男であればいいのだが・・・。これって、どもりに左右されているのか? 私はそうは思わない。どもりが原因で行動範囲が狭くなったらいけないかもしれないけれど、私は“どもり”で選択し判断し決断し行動する事が出来た。私がどもりになった意味はそれを“ものさし”にしろと神様が言っているように思えた。選択肢が多くても私は悩むばかりだ。どもりのお陰であまり迷わず生きて来られたように思う。風水も占いも私には関係ない。

 どもりの私が私らしく生きるとは、まずどもりから逃げる方法を考える。そして、逃げられないと思った時は覚悟を決める。何度かエイッと山を越えてきた。

 某生命保険会社に就職した時は学校を担当する事になった。まず、気になる学校名だ。自転車で行ける範囲の学校は・・・。高鷲南小学校、高鷲南中学校、河原城中学校・・・。えっ?! タ行カ行のオンパレード!! 愕然!! だが、言い易いとか、言いにくいとか言っていられなかった。毎日のように訪問するので、行きやすさを優先せねばならなかった。逃げる事が得意な私なのだが、この時ばかりは逃げられなかった。生活の為に仕事を辞める訳にはいかなかった。覚悟を決めた。上司に報告する時、学校名を言わねばならず、この時もあの手この手でサバイバル。何とか切り抜けた。“タカワシ”なんかタ行の中でもスペシャル級に言いにくい言葉だ。だが、半年もすると“高鷲南”は言い易くなっていた。“河原城”も。慣れる事はいい事だ。いろんな山はどうにかなるものだ。

 ある時、いつものようにお客様の家のチャイムを鳴らした。えっ?! あんなに言い易かった社名が出ない! 予期せぬ事だ。社名を言わずに自分の名前だけを言ったのか、「あのーあのー、すみません」と言ったのかよく覚えていない。その日を境に社名がしんどくなった。ふと、今の自分を見つめ直した。どもりに関係無く仕事も行き詰っていた。運よく、次の仕事も待っていたので退職した。その一年後、某生命保険会社は破綻した。

 もうひとつ、どもりのお告げは。私は長い間、いろんな事情と言い易さで、別れた夫の姓を名乗っていた。 非常に言い易い名前だったのに、不思議な事にだんだんと出なくなった。旧姓に戻す時期が来たんだと考えた。次、今の名前が言いにくくなったら? うん? 何がある?

 このように、私の人生の選択は最初に“どもり”がする事になる。どもりを信じ、前へと進む。どもりでなかったら、こんなに決断力、行動力があっただろうか。不安をいっぱいもらったどもりだけれど、人生の不安を軽くしてくれたのも事実だ。それと“ものさし”と表現していいかどうか分からないが、私がどもった時つまった時、相手の表情や態度でその人が少し分かるような気がする。優しく微笑んでゆっくり言葉を待ってくれる人が私は好きだ。これからも、どもりを信じ、どもりにゆだねて生きる。どもり人として、これからも私らしくありたい。             

新しい道を歩き始めて                   堤野瑛一  会社員 25歳

僕は、高校2年生頃からどもり始めました。何故だか言葉を発しようとすると息が詰まり、足で地面を叩かないと声が出なくなったりして、初めはこれが吃音だと分からず、「何だろう?」と思っていました。

 僕は吃音である以前にチック症で、その事もあり神経科の病院へ通ったところ、先生の前でどもると、「あー、どもりの症状も出ているのかあ」と言われ、そこで初めて自分の声の出ない症状が吃音である事を知りました。

 初めは家族の前でしか出なかった吃音の症状も、次第に学校でも友達の前でも出るようになり、悩み始めました。しかしその頃、僕が吃音で悩んでいる事を、学校の先生や友達は誰も知りませんでした。僕が「あ、どもる」と思うと、喋るのを止めたり、何とか言い換えをしたりと、どもりを隠し続けていたからです。授業中に当てられても、分かっている答えがどうしてもどもって言えなくて、渋々「分かりません」と答えた経験も、多々あります。

 僕はこの高校2年生の頃、吃音になった傍ら、ピアノで芸術大学を受験することを決心しました。それまでは殆ど趣味感覚でやっていたピアノを、受験に向けて真剣に勉強するようになりました。ピアノを練習している間は、吃音の事などは考えていませんでした。それよりも芸大に合格する事で頭がいっぱいでした。芸大に行ければ、どれだけ幸せだろうと思い、無我夢中で一日に何時間でも、ピアノを練習していました。結果、僕は芸大に合格しました。あの合格発表の時の喜び、感動はこの上ないもので、今でも忘れません。僕は早く高校を卒業したくてたまらなく、夢や希望を大きく膨らませながら、大学に入学する日を毎日ウキウキしながら待っていました。

 しかし大学は、僕の思っていた様な楽しい場所などではなく、自分にとっては辛く厳しい場所でした。大学入学後、どの授業に出ても、まず自己紹介をさせられます。高校の頃は、どもっては困る場面からは何とか逃げてごまかして来ましたが、この時ばかりは逃げようがありません。とうとう自分の自己紹介の番がやって来ました。すると、案の定、どもってどもって自分の名前の最初の音が出て来ません。必死に言おうとしますが、10秒、20秒たっても言葉が出て来ません。その間の僕のどもって力んでいる顔をチラチラ見ては、周りがクスクスと笑い出します。やっとの事で言えましたが、僕はその後授業に没頭出来る筈もなく、何とも言えない恥辱感、屈辱感にかられました。そしてどの授業でも、いつ自分が当てられるかと、いつもビクビクしていました。また、声楽の試験の時は、大勢の生徒や審査員の先生がいる前で、自分の生徒番号と名前、歌う曲目を言わなければなりませんでしたが、勿論これも失敗しました。それに、ピアノや声楽の試験の結果を、自分の門下の先生に電話報告しなければなりませんでした。その上大学は、中学や高校の様に担任の先生がいるわけでもないので、必要な書類などは自分で事務室に言って自分の口で説明し、貰わなくてはならないし、何かと吃音では不便な事だらけでした。高校生の時のように、何とか吃音を隠してごまかしながら、という風にはいきませんでした。

 そんなこんなで、僕の吃音に対する恐怖は、高校の頃よりも何倍にも膨れ上がり、結果、どもりを隠したままではまともに友達と会話も出来ないほど、症状は酷いものになりました。それに伴い、勉強やピアノの練習を続けていく気力も、だんだんと薄れてきました。入学前に描いていた大学生活のイメージと、入学後の現実は、雲泥の差でした。結局僕は、もうやっていけないと思い、大学を中退しました。あれだけ努力し、夢に見て、自分の力で入った大学を、今度は自分の意志で中退しました。「中退せざるを得なくなった」と言った方が適切かも知れません。あの受験の為の努力や、合格発表の時の喜びは一体何だったのだろうと、途方に暮れました。

この時

「どもっていては人生は開けない、お先真っ暗だ」とか、

「吃音が俺の人生を狂わせた」とか、

「何としてでもどもりを治さなくてはならない」とか、

「どもりさえ治れば、俺の人生は切り開かれる」とか、

そんな事ばかりを強く思っていました。

そんな思いで、それから数年間、「どもりが治るかも知れない」と聞けば、どこへでも行きました。はり、催眠、お灸、気孔、整体…と、色んな事を試しました。しかし結果、どれも全く効果がありませんでした。行く先々に、初めはどうしても大きな期待をもってしまうので、治らなかった時のショックも、大きなものでした。そして徐々に、「どもりは絶対治らないものだ」という意識も強くなっていき、治すことを諦めざるを得ない状況になって来ました。

 そして僕が最後に行こうと決心したのが、「大阪吃音教室」です。実は、大学在学中にも一度だけ、吃音教室に顔を出した事がありました。その時僕は、驚きました。教室のみんながどもりを隠しもせず、わきあいあいと喋っているのです。

そして、

「どもりながら生きていこう、どもりと仲良く付き合おう」

と言うのです。しかしその時の僕には、そんな考え方は絶対に受け入れられませんでした。「隠さずにどもろう」とか、「どもりと仲良く」なんて、絶対に考えられませんでした。むしろ、「どもりが治らなければ絶対に良い人生は送れない、絶対に治さなければ」と強く思っていました。そして僕はこの吃音教室の考え方がどうしても受け入れられず、それっきり通わなくなりました。

 しかし、大学中退後、さんざん何年間も吃音の治療を試みて、全く治らなかった現実と向き合った以上、「自分はどもりとして生きていくしかないのか」と思うしかありません。ようやくそう思い始める事が出来た時ふと、大阪吃音教室の事が頭によぎったのです。

「あそこには吃音を受け入れて生きていこうと言う仲間がたくさんいる。」そう思ったのです。僕は大阪吃音教室に通う事を決心しました。今年の7月以来、毎週欠かさず通っています。吃音は治るに越した事はありませんが、今僕は、吃音を治そうとは思いません。どうあがいたって治らない事を知っていますし、絶対に治らないものを治そうと努力すれば、決して幸せにはなれない事を、よく知っているからです。

 大阪吃音教室のみんなと、どもりながらでも上手に生き、吃音とうまく付き合えるようになればな、と思っています。

今は“ぞうさん”の気持ち              佐々木和子(43歳、ろう学校教員)

1年半前のある日、息子が突然どもり始めた。バスが大好きで、江津に行く途中、車窓から見えるバス停名をいつものように唱えていた時、「新敬川」のバス停の前で「新ううううやがわ」とどもったことに私は動揺した。

「まさかどもったのでは」、

襲ってくる不安を押さえて、今までとは何も変わらない、何事もなかったと信じようとした。しかし、この一言をきっかけに、息子は話すことば一言ひとことにどもるようになった。

「なぜ?今まで流暢に話していたのに」。

私は事態を受け入れることができなかった。

 私自身もどもる。今も、自分の意志に反してことばが出ない状態に陥る。その私が、自分のどもりは棚に上げて、息子のどもりは何とか治そうと、やっきになった。

自分ではどうすることもできないことを知り尽くしている私が、幼い息子に自分でコントロールして流暢に話すことを要求し続けた。息子の気持ちを一番分かってやれるはずの私が、息子のどもりにこだわり、息子のどもりを拒否し続けた。息子がどもり始めてからは、どんなに楽しいひとときを過ごしていても私の心が晴れることはなかった。いつも心の奥に重い気持ちを引きずっていた。

 夫からは、「どもったっていいじゃないか。なぜ、自分のどもりは認めることができるのに、息子のは認めることができないのか」と不思議がられた。

「どもることイコールマイナスではない」

「どもってもいい」

と頭では分かっていても、目の前でどもる息子を見ると、心にさざ波が立ち始め、それが大きな波のうねりとなり爆発する。

「どもらないで!」と。

 2001年、吃音ショートコースに参加し、私の心に重くのしかかっていたこの大きな問題を解決することができた。

キーワードは「諦める」ということばだった。話し合いの中で『諦めること』とは「明らかに見極めること、こだわらないこと、ほったらかすのではない、物の道理を明らかにすること」であることを学んだ。

 今、私は、自分のどもりで悩み苦しむことからは解放されている。幼い頃から、人一倍どもりに嫌悪感を持ち、しゃべることから徹底的に逃げていた私が、なぜ自分のどもりを受け入れることができるようになったのか、と考えていくと、「諦めた」からだということに気づいた。

ひょんなことから、しゃべる職業に就き、初めの何年かはうまくしゃべれないことに落ち込む日々を送っていたが、いつも落ち込んでいられないほどにどもる場面を経験すると、「まっ、いいか」という気持ちになってきた。私は自分のどもりと向かい合い、葛藤する中で「まっ、いいか」と自分のどもりを諦めていったのだった。

 流暢に話せない、ブロック症状が激しくて立ち往生し、緊張すると何を言っているか相手に伝わらないしゃべり方になる自分。様々な自分の姿を「まっ、いいか」と諦めることができるようになった。諦めるとは、今のままの自分でいいと自己肯定することだ。どもることが私のセールスポイントだと、どもることに価値を見出してくれていた夫のお陰で、私は自己肯定の道を歩き始めることができた。今度は私が、息子のどもりに価値を見出してやれば良いのだ。

 私は今まで『諦めること』は悪いこと、負けることだと思っていた。何事に対しても、最後まで諦めない、努力し続けることが良いことだと考えていた。だから、親である私は、息子のどもりを諦めてはいけない。流暢に話せるようになるまで諦めないで、どもりにこだわって、どもりを消さなくてはならないと考えていた。こだわり続けていると、息子がどもるその一言ひとことが無性に気になる。言い直しをさせることは良くないことだと十分知っているのに、どもるのが妙に癩にさわり、言い直しをさせ、どもりを消していくことにとらわれていた。まさに、母親である私が息子に自己否定の呪いをかけていたのだ。

 吃音ショートコースに参加されていたある女性のスピーチ・セラピストの方が、「自分は二十歳の時、親が諦めてくれたお陰で楽になった」と語っていた。この話を聞いて、私は親が子どもを「諦める」ことが「今のままのあなたでいい」という自己肯定のメッセージを送ることになるということに気づいたのだった。

 私は息子を自分の理想に近づけようとしていたのだ。だから絶えず今の息子の姿に満足できず、

「今のままのあなたではいけない」

「もつと素晴らしい子どもになりなさい」

と自己否定のメッセージを送り続けていたのだ。自分に自信が持てず、不安定な状態で暮らしていた息子がどもり始めたのは、その苦しい胸の内のSOS発信だったのかもしれない。私は息子を自分の理想像に近づけることを諦めてやらなくてはいけないことに気づいた。この気づきの後、目の前でどもる息子が急にいとおしく思えてきた。今のままの大ちゃんでいいの。どもってしゃべるのが大ちゃんなのだ。このように考えることができるようになって、私は楽になった。息子との関係も良くなった。

 今、私は息子がどもる人間としての人生を歩むことになっても、ならなくても、どちらでも良いと思っている。私自身、どもりを抱えて、それなりに生きてきた。私にできたことなのだから、息子にできない訳がない。

 話す時にどもる症状をどもりと思うか思わないかは、その人の感性によって決められるものなのだろう。そして、どもりを魅力的な武器にできるかどうかも、その人の気持ちの持ち方次第なのだ。

息子には潔く、しなやかに、そして楽しんで自分のどもりに向き合ってほしいと思う。彼のために私にできることは、ぞうさんの歌に歌われているような自慢できる魅力的などもりの母親になることなのだろう。

 ぞうさん、ぞうさん、お鼻が長いのね?

 そうよ、母さんも長いのよ