吃音にひとりで悩んできた私たちは、どもる人のセルフヘルプグループに参加し、吃音に悩んできたのは私ひとりではなかったのだと知って、まずほっとしました。自分の体験を話して、みんなに聞いてもらい、他の人の体験に耳を傾けました。それらの体験を通して、吃音について学び、少しずつ吃音とともに生きる覚悟ができていきました。

 私たちは、このセルフヘルプグループで経験した出会いや語り合いを通して、気持ちや情報、価値観を分かち合い、

「どもっていても大丈夫」

という価値観に出会ってほしい、そう願って、どもる子どもたちと保護者のための、吃音親子サマーキャンプを始めました。

 自分以外のどもる子どもと出会ったことがない子どもたちは、まず、参加している子どもの多さに、「私だけではなかった」とほっとします。吃音についての話し合いでは、同じような体験に耳を傾け、「私も同じだ」と自分も語り始めます。音読や発表が苦手だという子どもも、みんなの支えの中で、表現活動の演劇に取り組みます。どもっているそのままが受け止められる空間で、みんなでひとつの劇を上演し終えたとき、「私にもできる」という達成感、充実感を持つことができるのです。その体験を通して、吃音を肯定的に捉え、吃音と上手につきあうことを学んでいきます。

 吃音親子サマーキャンプは高校生で卒業です。毎年キャンプを卒業していく高校生は、自分のことばで、将来への明るい展望を語ります。卒業後、様々な仕事について活躍しています。その人たちがスタッフとして参加して、キャンプを支えてくれています。

 31回のキャンプに参加した総人数は、3300人ほどになります。

吃音親子サマーキャンプが大切にしていること

 スタッフは、大阪吃音教室の成人のどもる人、ことばの教室の教員、言語聴覚士、大学や専門学校の教員、吃音親子サマーキャンプの卒業生です。

 セルフヘルプグループの体験、ことばの教室や言語聴覚士の実践、大学での演劇教育の経験などがプログラムに生かされています。劇の稽古と上演のプログラムは、竹内敏晴さんの書き下ろしの脚本・演出を、に客吠え義気の得に得にで私たちが得てきたも。

 私たちは、同じようにどもる仲間と出会い、たくさん話をし、仲間の話をたくさん聞き、その中で新しい生き方をつかんできました。のを子どもたちに伝えたい、そして実感してほしいと願って、キャンプを企画してきました。大事にしていることばは、次の3つです。

  あなたはあなたのままでいい 

  あなたはひとりではない     

  あなたには力がある         

 子どもたちにとっては、自分の吃音と向き合うキャンプです。楽しいだけのキャンプではありません。自分をみつめ、自分の吃音をみつめる時間になればと思っています。ひとりでは難しいことでも、仲間の支えがあればできることも多いものです。

 私たちは親子で参加することをとても大切にしています。ライフステージによって、吃音の問題は変化していきます。学童期・思春期と成長する子どもたちの人生の、よりよい伴走者となっていただくためには、親の参加が不可欠なのです。高校生でも親子で参加していただきます。子どもだけの参加は認めていません。

 親自身も、子育てだけでなく、自分の人生を振り返り、生き方をもう一度考えてみるきっかけになればと思います。どもる子どもをもつ親同士が交流することで、親のセルフヘルプグループができることになります。親は、単なる付き添いではなく、一緒にプログラムに参加していただきます。親の話し合いや学習会だけでなく、子どもたちの芝居の上演の前に、表現のパフォーマンスもあります。親も自分の声やことばを大切にしてほしいと願うからです。

 このような願いのもと、吃音親子サマーキャンプの3つの柱は、次のとおりです。

☆吃音についての話し合い

 子どもは子どもで、年代ごとに集まって話し合い、親は親で話し合いをします。それぞれのグループに、ファシリテーターとして、ことばの教室などの教師や言語聴覚士などの専門家と、成人のどもる人が入ります。

☆ことばのレッスンと芝居の上演

 表現活動として演劇に挑戦します。自分のことばや表現に取り組み、練習をし、最終日に上演します。

☆親の学習会

 子育てで大事にしたいこと、物事をどうとらえるかの練習、などいろいろな心理療法を使いながら学習を深めます。

 

吃音親子サマーキャンプ プログラムのもつ意味

出会いの広場のもつ意味

キャンプには全国各地から集まってくる。どんな人が参加してくるのだろうか。何が起こるのだろうか。芝居をすると聞いているけれど、できるだろうか。知らない人ばかりの中で友だちができるだろうか。不安を挙げたらきりがない。行くと決心してからも迷いはあるらしい。

 特に、初めて参加する人は親も子もドキドキしながら会場に着く。最寄り駅で、親子サマーキャンプの、吃音親子体験文集『どもり親子旅』の表紙の見慣れた旗をみつけるとほっとするという。たくさんの親子の姿を見て、それだけでも安堵したという人もいる。不安な気持ちの参加者をできるだけ明るく、温かく迎えたいといつも思っている。

 広い集会室に全員が集合する。140名となると相当な数だ。

 最初のプログラムは、出会いの広場。昨年からの再会を喜ぶリピーター、不安なままの初めての参加者、それぞれの心が少しでも早くときほぐれるよう願いながら、出会いの広場が始まる。参加者が仲良くなり、気持ちがゆったりとするよう、声を出したり、からだを動かしたり、ゲームをしたり、工夫されている。だんだん笑い声も起こってくる。

 次のプログラムである話し合いの時間にすんなりと移行できたようだ。出会いの広場で、気分がほぐれたから、自分のことを語るのにつながった、話しやすかったと子どもたちが言う。子どもたちだけでなく、全員でするというところにも意味があるようだ。

話し合いのもつ意味

子どもたちは年代ごとに分かれて自分のどもりについて語る。

 キャンプに参加する前には、特に低学年の場合、どもりについて話したこと、話題にしてこなかった場合が多い。これは幼児吃音の指導法の中に、「吃音を意識させてはいけない」がかなり定着し、吃音を意識することが、吃音を悪化させる大きな要因になるという説を信じ過ぎているからだ。親も、これまでどもりについて説明も、話もしてこなかったので、《どもり》ということばもキャンプではじめて知ることになるが、大丈夫だろうか?とまず不安になると言う。

 小学校中高学年になると、嫌なことを経験したり、どもることへの不安もある。どもりとは何なのか、知らないことによる不安もある。

 一番関心があり、一番話したいであろう話題について普段の生活の中で子どもたちは話していない。そのため、この話し合いの時間をとても楽しみにしてくれる子がいる。ここではどれだけどもっても誰も笑わないし、からかわない。  どもってこんないやなことがあった、こんなに悲しかった、悔しかった、そんな話にみんなうなずきながら聞いてくれる。初めて参加した子どもは、初めのうちはみんなの話を聞いているだけだが、ぽつりぽつりと自分も話し始める。今まで閉ざしていた心を開かせてくれるのだろう。どもるのは自分ひとりだと思いこんでいた子どもたちにとってほかのどもる子どもの話は大いに共感できることが多いようだ。ほかの子どもの話を聞きながら、それまで話さなかった子が、そういえばと言いながら思い出した話を始める。どもりながら話しても聞いてもらえるというこの体験のもつ意味は大きい。自分だけじゃない、ひとりだけじゃないということを実感できる時間でもある。

 話し合いの中には、ファシリテイターとして、どもる大人と、ことばの教室の教師、言語聴覚士がコンビを組んで加わる。どもる大人を初めて見たという子どももいる。どもりながら自分を語る大人を間近に見て、大人になっても治らないのかとも思うようだが、治らなくても大丈夫だとも思える。高学年以上になると、大人たちへの質問もどんどん出てくる。高校生の年代になると、かなり深い話になり、人生論や生き方を語っている。それぞれが厳しい状況の中でもがんばっている話を聞くと、元気ももらうし、勇気ももらう。

芝居のもつ意味

大勢の人前で劇を演じる、これほどどもる子どもにとってプレッシャーを感じる場面はないだろう。日常生活で苦労している子どもたちに、キャンプに来てまで、プレッシャーを与えることはないだろう、とキャンプを始めた頃、反対の声もあった。あえて、キャンプに芝居を取り入れたのには大きな理由がある。

 一日目の夜、演出家の竹内敏晴さんに直接演出・指導を受けたスタッフがみんなの前で演じてみせる。どもるどもらないに関わらず、本当に楽しそうに演じている。その姿を見て、子どもたちはおもしろそうだと思う。その後、グループに分かれて、配役を決め、せりふの練習が始まる。

 《どもってもいい》は、このキャンプの大きな前提だ。その上で、自分で気持ちよく声を出そうとか、相手に声を届けようとか、大きな声を出そうとか、を目指している。どもる大人が竹内さんに指導を受けて感じた、声を出す喜びを子どもたちにも味わってもらいたい。芝居を取り入れた大きな理由のひとつである。

 それにしても舞台に立つということは、緊張感を伴う。後に引けないところに自分を立たせるということになる。その場で何をどう感じるか、だ。

 今年、長崎から参加した小学6年生の男子のひとりは、なかなかことばが出てこなかった。「芝居はしない」と明言してキャンプに参加した子どもだ。練習の場にはいるが、最初は練習に加わらなかった。スタッフは無理強いはしない。無理強いはしないが、ぽんと後押しはする。このタイミングが難しい。ケースバイケースだが、不登校の初期の子どもに、登校刺激を与えることが功を奏すこともあるという。それと同じように、無理強いはしないが、声かけはする。  彼と同じグループに、同じようにせりふが言いにくく、でもその場から逃げていない高校生がいた。必死でせりふを言っているお兄ちゃんの姿を食い入るように見つめていた彼の姿が印象的だった。ほかのどの子どもより真剣にみつめていた。その時、彼はどんなことを考えていたのだろう。何かが動いていたと信じたい。最終的に彼は、一言せりふを言って、芝居に参加した。

 みんなでみんなを支え、ひとつのものを作り上げる喜びを感じることができるのが芝居のもつ大きな意味だ。

親が参加することの意味

子どもと同じように、親もひとりで悩んできた。誰にも相談できなかったという人がいるし、相談しても分かってもらえなかったという人もいる。私のせいで子どもがどもるようになったと、自分を責めている人もいる。2回ある親同士の話し合いは、ひとりで悩んできた親のセルフヘルプ・グループの場ともいえる。そこでは、家族の中や社会の中での役割を捨て、ひとりの人間として存在することになる。辛かった話をし、他人の辛かった話を聞く。子どもたちと同じように、親のグループの中でもひとりじゃなかったという安心感がみんなを包みこむ。公式のプログラムが終わった後、深夜まで話しこんでいる親たちがいた。リピーターの親たちが、初めて参加した人の話を聞いてくれている。泣いたり、笑ったり、話は尽きることがないようだ。

 キャンプには各年代の子どもたちが参加する。大人もいる。親にとっては自分の子どもの将来像を目の前で見ることができるいい機会である。どもってはいても、あんな中学生に、あんな高校生に、あんな大人になってほしいなあと、生きている見本がたくさんいる。

 また、過保護で育ててきたから、キャンプ中ひとりで大丈夫かなあと心配していた親がいたが、子どもは一度も親のそばに来なかったとちょっと寂しげだった。こんなこともできるのか、と自分の子どもを見直したという親もいた。自分の子どもを客観的に見ることのできる場でもある。

 最終日に子どもたちが練習してきた芝居を上演するが、その前座として、親たちも表現活動をする。キャンプ中に偶然に生まれたプログラムだ。コミュニケーションの一方の担い手である親も何か表現の方法を身につけたいという親たちの声から生まれた。それが、いつの間にか定番のプログラムになった。子どもの側からは、普段見ることのできない親の顔を見ることができた。親の側からは、子どもたちの芝居のときのドキドキする気持ちを同じように味わうことができた。双方にとって意味があるようだ。この、親の表現活動を初めて見たことばの教室の担当者が、これがよかったと興奮気味に言った。ここまでできることがすばらしいと。私たちのサマーキャンプでは、親は単なる付き添いではない。親も子どもと同じように、しっかり参加する。父親の参加が多いが、会社でも家庭でも見せないひとりの人間としての顔を見せている。休憩なしに、汗を流しながら自主練習をしている。どきどきしたり、緊張したり、子どもと同じ思いを持つことができる。

作文を書くことの意味

話し合いと話し合いの間に設けた作文の時間。話すという表現方法が苦手な子どもにとっては別な表現方法を用いて自分を振り返ることになる。書くことで自分を表現できる子どももいる。

 また、2回目の話し合いは、作文を書いたことで、別の展開ができることもある。中には、作文を書いたことで、深く自分をみつめて、しんどくなる子どももいるが、それは決してマイナスには働かない。今まで閉じていたものを開けてしまった戸惑いはあるが、それは、出発点となる。

 作文は子どもだけでなく、親もどもる大人も書く。ひとりで自分のどもりと向き合う時間となる。

スタッフとは

サマーキャンプのスタッフは、どもる大人とことばの教室の担当者やスピーチセラピストなどの臨床家とで構成されている。その他、通常学級や支援学級、幼稚園の教師、学生など、さまざまな職種の人が集う。みんな手弁当での参加だ。参加費を払ってキャンプに参加するということは、それは仕事ではなく、自主的なものである。

 参加者が多いので、全体で動くことが難しく、生活グループごとに活動することが多くなった。キャンプ中の活動は、そのグループが基盤となる。スタッフは、目の前にいる子どもにしっかりと向き合う。その子との関係を大切にする。指示・命令をできるだけ減らし、温かいことばかけを心掛けている。

 キャンプの会場に来て、初めて顔を合わせるスタッフもいる。私たちの考え方を理解し、共感してくださっている方がほとんどだが、そのねらいとしているものをより理解してもらおうと、時間をやりくりして、スタッフ同士の交流の場も設けている。キャンプの目指しているものをなんとか伝えたいと思う。疑問に思っていることを出してもらって質問にも答えている。その中で、大切にしてきたことを理解してもらっている。スローガンとして、押し付けているわけではないが、共通する思いが、全体として大きな装置として働いているように思う。

 誰のためでもなく、自分のためだとして、キャンプを位置付けて、毎年参加してくださるスタッフもいる。