最初言友会は

言友会は、どもりを矯正する会として出発した。副称として『日本吃音矯正会』が使われ、呼吸・発声練習を中心に、講談・詩吟・街頭演説など吃音矯正に有効と思われていたものは積極的に例会に取り入れた。全員のほとんどが、民間のどもり矯正所で指導を受けた経験があり、各矯正所のいろいろな矯正法から学ぶことができたのである。

言友会の活動

言友会は、どもりを治すというこれまでの矯正所と同じ目標で出発したが、活動のスタイルでは大きな違いがあった。

次の5つが主な特徴である。

(1) 専門家がいなかったこと。

言友会の例会で指導をする人びとに、いわゆる吃音の専門家は1人もいなかった。そのために教える側と教わる側にはっきりとした区別はなかった。教わる立場にいた人が、2、3ヵ月後には教える立場に立つこともできた。新しく会に入った人には、例会での司会をできるだけまかせるようにした。50人程の前で挨拶をしたり、講談や詩吟などを通して人を指導する経験は、これまでほとんどの人が経験してこなかったことだけに、会員各自に大きな自信を植えつけることになった。

どもりながら司会をする人に、ヤジが飛び、笑いがあたえられた。会員たちは、そこにこれまでのどもって笑われた笑いとは違う笑いを感じ、どもることへの暗いイメージは少しずつ薄れていった。

(2) 例会の中心がクラブ活動であったこと。

言友会では、当初から呼吸・発声練習そのものよりクラブ活動が重視された。講談クラブ、詩吟クラブを通して、自分の生涯の趣味としてそれを本格的に続ける人もできてきた。演劇クラブは専門家の指導も受けながら、文化祭等で楽しい演劇を披露した。

これらのクラブの他に、社交ダンスクラブがあった。ダンス教習所の先生を例会に呼びステップの練習をした。その後はダンス会館がクラブの例会場となった。

どもってどもって申し込んでは断わられた人も、回を重ねるうちに堂々とフロアの中心で踊ることができるようになった。これまで女性と話をしたことがなかった人もダンスを通じて始めて女性と話ができた。創立記念祭や文化祭の時には、一流バンドを呼びダンスパーティが聞かれた。パーティ券を売りに歩く会員には、もう会に参加した当初の暗い雰囲気はなくなっていた。

(3) いろいろな行事を企画したこと。

創立記念祭、合宿、文化祭を私たちは東京言友会の三大行事と呼び重視した。

これらの行事の実行委員は、原則として会に入って日の浅い人が選ばれ、企画を立て、スケジュールを組み行動しなければならなかった。これまで自分の殼に閉じ込もっていた人が、自分のことより言友会全体のことを考えざるを得なくなり、新聞社に放送局へと交渉に出かけた。ひどくどもりながらも交渉が成立し、新聞やラジオに取り上げられた時の喜びは、新入会員にとって何にもまして大きかった。これまで全く電話をかけられなかった人が、実行委員を引き受けたために、電話をかけられるようになった。

一人、一人の行動がこれらの行動に取り組むことによって積極的になっていった。

(4) 全国に会が広がり井の中の蛙にならなかったこと。

東京で活動した会員が関西に言友会を広げ、昭和41年10月には言友会関西支部結成大会がもたれた。昭和43年には、東京で各地の言友会の連絡を密にしようと全国言友会連絡協議会(全言連)の第1回全国大会がもたれた。そして、「全国のどもりを解放しよう」と全国の仲間に呼びかけた。各地の言友会は、その地域に根ざした活動をし、全国大会では、活動を通して学び得たものを互いに交換し合った。京都言友会が自治体から助成金を得たという経験は、さっそく東京や大阪でも生かされた。東京の例会スタイルは各地の一つのモデルになった。各地が刺激し合うことによって、活動が自分たちだけの枠に閉じ込もっていくことを防ぐことができた。

(5) 他の団体との交流を深めたこと。

言友会が生まれたほぼ同じ時期に、全国の障害者運動が活発に進められるようになった。障害を持つ人びとが自分たちの要求を自分たちの手で獲得するのだと立ち上がったことは、私たちにも大きな勇気を与えた。京都、大阪、東京の各言友会がこの運動に加わっていく中で、障害者の要求事項の中に成人吃音者の要求も加えられていった。

一方、青年サークルとの交流も盛んに行なわれた。合同ハイキングがもたれ、文化祭などには他のサークルからの友情出演が花をそえた。昭和46年3月、「ひとりぼっちの若者をなくそう」のスローガンのもとに、東京で第1回若者フェスティバルが開かれ、言友会は事務局団体として活躍した。

障害者運動に携わる人びと、青年サークルに集まる人びととの交流の中で、社会に対する私たちの目はいっそう開かれ、どもりに対する考え方も大きく変化していった。

矯正から克服へ

このような言友会の活動の中から、自分の殼を打ち破り、行動に自信を持つ明るい吃音者が育っていった。吃音矯正とともに明るく生きる吃音者づくりが大きな柱となっていたことが、これまでの吃音矯正機関との大きな違いでもあった。

しかし、会創立の目的であった「吃音矯正」については何らの成果をあげることはできなかった。会員のどもりは治らなかったのである。

会を作って2年後、明るく前向きに生きる吃音者が活動の中で育っていった自信から、私たちは『日本吃音矯正会』という看板を降した。その看板を降しても、どもりが治っていかなくても活動を続けていく自信が持てたからである。

言友会は「吃音矯正」から「吃音克服」の立場をこれまで以上にとり始めた。

言友会の拡大と全言連大会

東京、京都、大阪と広がっていった言友会が全国に広がっていく過程には3つの型があった。

(1) 東京言友会で活動していた人たちが大学を卒業したり、職を変えたりして帰郷し、地元で言友会を組織する。

(2) マスコミ等で東京や大阪の言友会を知りその言友会の指導のもとで、地元に言友会を組織する。

(3) 独自の吃音者グループを作っていた人たちが言友会と名称を変え全言連に加入する。

このように言友会が全国に拡大されていくにつれ、言友会の全国大会では様々な論議が交されるようになっていく。

第3回大会(昭和44年、大阪市)では、京都言友会が自治体から助成金を得たことをきっかけとして、各地の言友会の国や地方自治体に対する働きかけが強まった。

第4回大会(昭和45年名古屋市)では、吃音克服の問題について話し合われ、京都言友会のどもりながらも明るく話す姿が注目を集めた。

第5回大会(昭和46年、東京都)では、言友会の運動を障害者運動として取り組もうという意見が出された。

第6回大会(昭和47年、京都市)は第1回吃音問題研究集会として開かれ、言語障害児教育の担当教師や、研究者が参加した。

第7回大会(昭和48年、長崎市)は、全国大会が、始めて地方の都市で開かれた。これは地方の言友会が大きく発展する契機となった。しかし、どもりについての考え方は、それぞれの言友会が独自なものを持ち、お互いの主張にはかなりの違いがあった。

全言連事務局

長崎大会後、これまで東京、京都言友会が担当していた全言連事務局が、新しく大阪市平野区に設置された。

新しいこの事務局は地域の言友会から独立し、どの言友会からも影響されず全国の動きを考えていくことができ、単に言友会をどうするかという問題だけでなく広く成人吃音者の問題を考えてゆこうとした。新事務局は言語障害児教育教員養成課程が置かれている大阪教育大学平野分校に近く、ことばの教室や研究者からの情報が入りやすく、子どものどもり、ことばの教室の問題、他の障害の問題などどもりを総合的に考えられる有利な立場にあった。

どもりは治らないかもしれないことを考えていこう

多くの吃音者の典型的な体験をもとに構成した「K・M氏の体験」をテーマに、昭和48年10月に全国言友会代表者会議(京都市)が開かれた。これまでの吃音者のあり方が反省され、次の事が論議された。

1.「どもりを治したい」、「努力すれば治る」という考えが根強い中で、治すための努力をすることは、治るかもしれないという期待を持ちつづけて、どもりながら行動していくということの妨げとなっているのではないか?

2.どもりが治ればなんでもできるという甘えを切りすて、どもりを受け入れて生きるには、「治らない」と考えることが大切ではないか、など、どもりから逃げ、人生を消極的に送っている吃音者に注目して、代表者会議の話し合いをもとに、言友会の機関誌『ことばのりずむ』7号(昭和48年)では、「どもりは治らないかもしれないことを考えていこう」という特集が組まれ、全国の言友会に問題提起された。これにより、全国各地の言友会は共通の問題について考えようとする方向がでてきた。

行動する吃音者へ

第8回全国大会(昭和49年、高野山)は、「どもりは治らないかもしれないことを考えていこう」を別の角度からとらえた。『これまでどもることを問題としてとらえ、どもりを治すことを考えてきたが、我々が積極的に行動しようと思ってもいつも第一歩が踏み出せなかったのは本当にどもりが行動の障害となっていた為だろうか。静かに、これまでの自分の体験をふり返り、一度、どもりという枠を取り払って、どもりに隠されてきた様々な問題を考えてみよう』と、問題提起された。

治す努力の否定

これ等の討論の中で、どもりを治そうとすることが吃音者の問題解決につながらないばかりか、どもりの悩みを深めていきやすいことが分ってきた。

これまでの言友会活動を振り返り、明るく前向きに生きている吃音者が育ってきたことは広く社会に出ることを目指した言友会活動の成果であると積極的に評価をした。幾多の話しあいを通して、言友会では全言連ニュース(昭和49年8月)で「治す努力の否定」が提起され、引きつづき『ことばのりずむ』8号(昭和49年11月)で「治す努力の否定」の特集が組まれた。

「治す努力の否定」は「どもりは治らぬものと考え、どもりを持ったままの生き方を確立していこう」という考えを一歩進めたものであった。治す努力を否定することにより、言友会も吃音者もどもりのとらわれからぬけ出し、これまで費やしてきた治す努力を、よりよい人生を送るための努力に向けようとした。「治す努力」というこれまで誰もが信じて疑わなかった吃音問題解決の一方向を私たちは否定した。「治す努力の否定」は、言葉の持つ強烈なイメージもあって、全国に議論を巻きおこした。言葉そのものへの抵抗もあり、多くの批判も受けたが、各地の言友会が積極的にこれを受けとめ討議のための合宿が何度ももたれていった。

吃音者宣言まで

第9回全国大会(昭和50年、兵庫県鉢伏高原)では、「治す努力の否定」を受けて、「よりよい人生を送るために我々はどんな努力をすればよいか」ということを話し合い、一人の人間としての生き方の確立を目指した。

昭和50年10月から、全国各地で聞かれた吃音相談会では、「治す努力の否定」の考え方を、言友会外部の吃音者に訴え、悩みの中にいる吃音者から批判を受けて今後の活動に生かそうとした。しかし、意外にも私たちが相談会で知り得たことは、「治す努力の否定」とわざわざ言わなくとも、言友会の活動を知らなくても、どもりを持ちながら明るく生きている人たちが多くいるという事実であった。

全国でどもりながらも明るくすばらしい人生を送る人が多く出、どもりながらの人生を主張していくとき、どもりのイメージは暗いものから明るいものへと変ることができる。私たちがこれまで犯してきた失敗(どもりを治すことにとらわれる)と同じ失敗を繰り返す人はなくなるであろう。どもっていることがそのままが受け入れられ、個性と能力を発揮して生きられる社会の実現を目指した『吃音者宣言』が昭和51年5月言友会発祥の地東京で開かれた言友会創立10周年記念大会で採択されたのである。

伊藤伸二編著 『吃音者宣言-言友会運動10年』(たいまつ社) 1976年