生き方は選ぶことができる―子どもたち、そして保護者の思い―
2016年、ちょうど10年前ですが、「吃音と発達障害」という、降って沸いたようなテーマに沿った特集を続けていました。1月号では、故水町俊郎・愛媛大学教授のどもる人の就労についての論文を紹介し、2月号では、大阪府立大学の松田博幸准教授に社会福祉から見た障害認定についてお書きいただきました。松田さんの文章は、「スタタリング・ナウ」用の書き下ろしでした。それらを受け、今月号では、現場で接するどもる子どもや保護者の生の声を、ことばの教室担当者の高木浩明さんが拾ってくれました。水町先生の細かい実態調査、松田さんの幅広い視野に基づく考察があったればこその実践報告です。また、かなりどもるひとりの当事者の体験も掲載しています。
まず、「スタタリング・ナウ」2016.3.21 NO.259 より、子どもたちや保護者の声を紹介します。
生き方は選ぶことができる
―子どもたち、そして保護者の思い―
宇都宮市立陽東小学校 ことばの教室 高木浩明
はじめに
2015年12月6日、日曜日の朝、毎日新聞の社会面の記事に、心がざわついた。「吃音 働きたいのに」の大見出しとともに、どもる成人男性が身体障害者手帳の交付を申請し、それが却下された記事が、写真入りで掲載されていた。彼は申請却下の処分取り消しを司法の場に求めるとともに、「吃音者が差別される現状を広く知らせたい」という。
翌日、最初にことばの教室に来たどもる子どもの保護者から「ネットのニュースで新聞記事を見た。いろいろ書かれているけど、どう受け止めたらいいのか、困惑している」という話を聞き、今回の毎日新聞の記事だけでなく、最近話題になっている「吃音と発達障害」についても、じっくり保護者と考えたいと思った。そこで、どもる子どもの保護者10人から疑問や感想を話してもらい、いろんな資料も紹介しながら話し合った。
1 保護者の思い
◆記事を読んで
保護者の半数が、新聞やネットニュースで、今回の記事を目にし、当惑していた。そして、ほとんどの保護者から、「この男性が小学生や中学生の頃、あるいは就職してからどんな困難にあって、どれくらい大変な思いをしているのか、今回の記事だけでは、分からない。ただ思うようにいかないことが、全てどもりのせいなのか、本当にこの男性自身が、そう思っているのか考えてしまう」と、戸惑いが語られた。
「子どもは、どもるからことばの教室に通っているけれど、吃音は身体障害なんですか?」
「どもる人の中には、身体障害者手帳が認められている人もいるんですか?」
「障害が認められると、どんな支援があるんですか?」など、様々な質問が出てきた。そこで、身体障害者障害程度等級表の「音声機能、言語機能の障害」部分やその解説、また吃音と障害についてこれまでに調べた資料などをもとに、こうした疑問について保護者とひとつひとつ確認していった。
◆障害とすることへの危惧
吃音を身体障害として認めてほしいという動きは、以前から幾度となくあったようだ。けれど、身体障害者手帳の音声、言語機能障害3級および4級は、「音声機能、言語機能の喪失あるいは著しい障害」とあり、どもる人は該当しないと考えられているため、実際に吃音だけで身体障害者手帳を取った人は、ほとんどいないという。
一方で身体障害の世界では、リハビリによって身体の可動域が拡がり、機能改善が図られれば、障害の状態も軽くなり、その人の生き易さや生活の質(QOL)が高まると、通常考えられている。しかし、吃音の場合、いわゆるどもる症状によって、その人の吃音の問題の大きさ、あるいはその人の悩みの深さを測ることはできない。ほとんど吃音が目立たない人が、深く悩んでいることが、大人だけでなく、子どもたちの世界にもある。
「この記事の男性は、障害を認定されることが生き易さに繋がると考えている。もしかしたら、自分の子どもも将来同じような立場になり、その時、吃音が障害と認められることがプラスに働くかもしれない。だけれども障害としてしまうことで、かえって子どもの将来の可能性を狭めてしまう、生き難くするのではという危惧がある。どう判断していいか分からない」
「子どもは今は特に問題なくやってるけど、将来どうなるかは分からない。もし手帳をもらうことが、就職する時にちょっと不足している部分を補ってくれる、そんな保険のようなものになってくれたらという思いもある」
このような思いが、保護者から繰り返し語られると、親であれば誰もがもつ不安感を、この新聞記事はいたずらに大きくしている印象を受けた。
その一方で、
「吃音がある=障害者はちょっと嫌だし、きっと子どももそんなことを願っていない」
「自分の子どもはどもるけれど、私は障害だと思ったことはないし、これからも思わない」
「障害かどうかは、自分が決めることだと思う。吃音を障害としない生き方があることを、子どもに知ってほしい」
このように話す保護者が何人もいた。そう思えるのは、これまでにいろいろな本や資料を読んで、保護者自身が吃音とともに豊かに生きる人の存在を知り、その生き方を学んできたからだろう。
◆記事の解説を読んで
新聞記事の後半部分は、吃音と障害に関する解説で、そこには「精神障害に分類」という見出しに続いて「WHO(世界保健機関)の分類を受けて、日本の発達障害者支援法も吃音を精神障害の一種の発達障害に含め、自治体から障害認定を受け、手帳を得る場合、精神障害での申請・交付が一般的だ」とあった。まるで、どもる人が日常的に精神障害の手帳を受けているかのような新聞の書き方であり、それが保護者の混乱をより大きくした。
吃音と発達障害についての話は、この一年ほどの間に度々耳にすることがあり、私たちも少しずつこのことについて勉強を始めていた。
また、昨年度の吃音ショートコースでは、障害福祉関係の専門家である北野誠一・前東洋大学教授から、これまでの障害福祉制度の流れやその背景について、直接話を伺うこともできた。こうした資料をもとに、どうして吃音が発達障害者支援法の支援対象となり、発達障害と定義されたのか。発達障害と精神障害保健福祉手帳との関係や、現在の発達障害の状況はどうかなど、保護者からの質問を受けて、一緒に考えていった。
「吃音はことばの問題だと思っていたのに、どうして発達障害になるの?」
「精神障害の手帳という話が出てきて、とにかくびっくりした」
ほとんどの保護者にとって、どれもこれまで思いもしなかったことで、困惑は増していった。
◆まわりからの理解は
ある保護者は、「発達障害」ということばに関しては、こんな話をしてくれた。
「どうして吃音が、発達障害者支援法で支援対象になったかという経緯は、ここまで聞いた話で何となく分かった。けれど、私自身もそうだし、学校の先生やまわりの保護者も、吃音が発達障害とは思っていないし、私たちが普段使っていることばと、あまりにも意味することが違いすぎる。だから、『吃音は発達障害です』ということばが広まった時に、果たしてどの程度の人が、きちんとこうした背景も理解できるのか疑問だ。子どもに関わる先生たち、さらには子ども自身成長する中で出会う友だちから正しく理解されるのか、とても心配になる」
同じような不安感をもった保護者が何人もいた。
書店で「発達障害」とタイトルにある本を手にしてみると、そこで取り上げられているのは自閉症スペクトラム(ASD)、注意欠陥多動性障害(ADHD)、学習障害(LD)ばかりである。それ以外のものが、発達障害に含まれているということを、教育関係者であっても、果たしてどのくらいの人が認識しているだろうか。発達障害はもともと欧米では、知的障害も運動機能障害も含むものとされている。また発達障害者支援法での発達障害の定義は、それよりは狭い捉え方だが、それでも60近くの医療コードが対象とされる。そのことを、私自身、今回いろいろ調べるまで、正直きちんと分かっていなかった。
また保護者にとって、発達障害ということばには、教室の中で上手く適応できていない、かなりの生きにくさや困難さが生じているイメージがある。それは、ちょっと集団から外れる子がいると、「○○さんは、発達障害だからしょうがない。できなくてもいい」とラベリングすることで、まるでその子の困難さが解決したかのようになる今の学校の姿に、影響されたものでもある。
◆保護者の疑問
保護者が強く疑問をもったことの一つが、誰が何のために、最近になって吃音と発達障害の関係を問いただし、また「吃音は発達障害者支援法の対象です」という話が、いろいろなところで言われるようになったかであった。その動きに対して、
「支援が必要な人がいると分かっているけれど、すべてのどもる子にも必要と決めつけられたら、母親として正直辛いし、嫌だと思ってしまう」
「吃音を認めてもらう、どもる自分を分かってもらうためには、障害認定ではない別のことがないのだろうか」
「一人一人のどもる状況も、求めていることも違うはずなのに、『発達障害である吃音』ということばは、それをすべて一緒にしてしまう気がする」
といった素直な意見が出された。
さらに、全国言友会連絡協議会のホームページに載った厚生労働省の発達障害対策専門官の日詰正文氏の講演録に関しては、こんな声が上がった。
「どうして国立リハビリテーションセンターの職員と厚労省の担当者の動きだけで、こんなふうに急に、吃音を発達障害とする話が広まっていくのか。何のためにそうするのか」
「吃音が発達障害だとするエビデンスがないって、どういうこと?」
「『発達障害に入っていると言って、そこで救われる人がいればよいかな』ということをやった程度と、厚労省の担当者の言うその『程度』のことに、私はこんなにショックを受けている。保護者に動揺が起こるという想像力は、この人たちにはないのだろうか」
「今は勢いのある『発達障害』の看板を使って、要らなくなったらまた違うところに乗り換えてという話があったが、そうだとしたら吃音と発達障害は、本当は関係がないことなの」
こうした疑念に加え、より具体的な話もあった。
「就労に関して、障害者手帳を取ることは、できないことが多いと認めたことになり、かえって将来の仕事の可能性を狭めてしまわないだろうか」
厚労省担当者の講演録は、なぜ吃音と発達障害が急にアナウンスされるようになったのか、一連の動きを理解する上で、貴重な資料である。ただ、それはあまりにも政治的で、子どもたちが描いている将来の世界との隔たりが大きいものだった。
さらに、そうした支援を求める人が、どもる人のセルフヘルプグループの中にもいることも明らかになった。そのことに対して、「新聞の記事の男性のように、一人で悩んでいるならともかく、どもる人のグループの中にいて、どうしてそういう考えになるのだろう。別の選択肢は、出てこないんだろうか」と、ショックを受けた保護者が何人もいた。
◆厚労省の認識
2005年1~3月に開かれた「発達障害支援に係わる検討会」の議事録を読んでいくと、この支援法での発達障害の定義に関しては、政令で定めるものとして、LD、ADHD、ASD以外にこれらに類する脳機能の障害があって、これまで障害福祉制度の谷間になっていたものを全部カバーする。さらに認知面に関する脳機能障害はないけれど、チックや吃音についても、生活上の困難さがあり、これも対象にするとされていた。
つまり吃音は、支援法が定義する発達障害の一つであると、厚労省は10年前の発達障害者支援法の制定時に既に認識していた。それがたまたまこの2年ほどの間に、オープンになったというわけである。
「何も気づかないうちに、それもずっと昔に吃音を発達障害とすると決まっていたという、この閉塞感が何だかきつい」と言った保護者もいた。
一方で、この会議で示された定義に関する別のポイントに注目した保護者もいる。それは「診断があったとしても、実際の生活場面で不適応がなければ、支援法の対象とはならない」という部分である。もしどもる人の多くが支援を必要とする状況にあったならば、きっともっと以前から吃音と発達障害について、発達障害者支援法での支援について、注目されただろう。
どもる人の中には困難な状況にあり、支援が必要な人もいるのだろうが、その一方で支援を必要としない人も多い。これはLDやADHD、ASDでも同様であり、それらの診断を受けた全ての人が支援を必要としているわけではない。あるいは、精神障害福祉手帳の対象とされる統合失調症や躁鬱病でも同じ状況が見られる。そのあたりのことを確認していくと、ちょっとほっとした表情が保護者に浮かんでいった。
◆発達障害の手帳
「ADHD 障害手帳」とネットで検索すると、新着情報として精神障害者保健福祉手帳を取得した人がいる。どうすれば取得できるのか。取得するとどんな支援が受けられるのか。経済的な援助や補助はどうかなどの情報があふれ出ている。
一方でLD、ADHD、ASDなどの発達障害の人すべてが精神障害の手帳に該当しないことは、『発達障害のある人の雇用管理マニュアル』(厚労省2006.3)に既に書かれている。その上で、障害手帳を取得した人と同じような支援を、特に就労に関する部分で受けられるようにすることが、この支援法のねらいであると明記している。
このADHDに関してと同じような状況がASDやLDにも見られ、更にそれと同じことが吃音にもあるのだろうか。生きづらさを感じ、支援を受けたいとする人たちが、ネット社会の中で、あっという間に情報を拡散させる。そして、「診断を受けたので、どこで障害手帳を取得できるか知りたい」といった質問がいくつも出てくるなど、「障害」「支援」に対してのハードルが下がっている。さらには、障害と主張せずに支援を受けないのは、損な生き方だといった雰囲気が見られたりもする。
もちろん本当に支援が必要な人にとって、支援が受けやすくなるのは、望ましいことである。ただ文科省の調査で、「通常学級の中で特別な支援が必要な児童・生徒は6%以上おり、その多くがLD、ADHD、ASDの状態を示すとされた。とすれば、精神障害者保健福祉手帳の交付者数から考えて、この人たちすべてが手帳等による支援を受けているとは考えられない。確かに、現在の支援体制は決して十分ではなく、発達障害の手帳を作ってほしいという動きは、発達障害者支援法が制定される以前から現在までずっと続いている。(※「発達障害者支援法」の見直しに関する要望書―日本自閉症協会2014.3)
だとしても、支援を受けていない人が多くいるというのは、発達障害のある人すべてが、支援を受けることを求めていないからだろう。支援なしでも生きようとする人たち、生きていける人たちが、きっといるということではないだろうか。
◆大切にしたいことは
発達障害の定義に関して、吃音が支援法の対象に含まれる状況は、変わらないかもしれない。けれども、どもる子どもが、どもる人がすべて障害者として生きなければならないわけではない。これは他の障害でも同じであり、「生き方を決めるのはその当事者自身である」という普遍的なテーマであろう。
それが「発達障害」ということばのインパクトや、吃音と発達障害に関する情報が、政府公報に急に載るなどのセンセーショナルな拡がり方によって、見えなくなっているように思う。障害かどうか、もしくは障害という生き方をするかどうかは、まわりが決めることではなく、あくまでその人が自己決定できるものだと、私たちは考えたい。
だからこそ、私たちは吃音と共に生きる人の存在を意識していきたい。市井の人として、どもりながら淡々と生きる。それが可能になるかは、いわゆるどもる症状や、まわりの人の理解度といったことよりも、どもる本人が、自分をどのように見るかによって決まってくる。それは、どう生きるかを自分が決める範囲がより大きい、吃音の特徴とも言える。
NPO法人・大阪スタタリングプロジェクトが発行した体験集『吃音を生きる』『吃音を生きるⅡ』を読んでいくと、どもる人は様々な困難に出会い、時に悩み、苦しい思いをもつ。それはどもらない私にとっては、想像を通して理解するしかできないものだが、同時に誰もが出会う生きることの様々な困難さの一つの表現であり、だからこそ、そこに書かれたことに強く心が動かされる。けれど、もっと大事なことは、困難な状況の中にあって、しなやかに生き抜く力をどもる人がもっている、確かにそう思えることにある。
「どもる大人の人がどんな生活をしているのか、生き方をしているか知りたいし、子どもに伝えたい。この毎日新聞の記事の人は、障害として認めて欲しいと言うけれど、そうじゃない生き方を選択している人もきっといる。それが子どもに同じように伝わってほしい」
とある保護者は最後にまとめてくれた。
保護者や私たちどもる子どもに関わる者にとって、「吃音をどう捉えるかは、その人自身が決められる」ということが、大きなより所になっている。吃音は発達障害だと考え、支援の必要性を訴える人がいたとしても、それはそれでいい。その上で、自分がどう生きるか、吃音を障害としない生き方を自分自身が決めればいいし、そうした生き方を既にしているたくさんの先駆者がいる。
そのことが、私たちにとって、そして子どもたちにとっての大きなメッセージである。しなやかに、そしてたくましく生きる支えになる。「自分も何とかなるかもしれない」そう思えることが、子どもたちの生きる力となると、強く感じている。(つづく)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2026/04/15

