対話を通して、生き方をみつける 2

 昨日のつづきです。

 笑いの多い、和やかな雰囲気で、参加者との対話は進んでいきます。そして、その中には、人が生きる上で大切にしたいことがたくさんつまっています。濃密な時間が過ぎていきました。話の中で、僕は、どもってはいけない場と、どもったら嫌だなと思う場を区別しようと言っています。どもってはいけない場だと思っている場は、実は、自分がどもりたくない場、どもったら嫌だなと思う場ではないでしょうか。「どもっていけない場など何ひとつない」と、僕は確信しています。

 《伊藤伸二・吃音ワークショップin東京》
   対話を通して、生き方をみつける 2
                       東京都北区北とぴあ  2013.1.13
どもっていけない場など何ひとつない
伊藤 今、言ったことを整理すると、皆さんは、どもってはいけない場があるはずだと思ってしまっている。家族としゃべっているときにはどもっても平気だけど、厳粛な儀式などの場面では人はどもってはいけないと思っている。しかし、それは思い込みで、僕たちが生きていく人生の中で、どもってはいけない場なんて何ひとつない。「英国王のスピーチ」の映画はご覧になりましたか。英国王のジョージ六世が、どもりながら開戦のスピーチをする。これこそ、卒業式で子どもの名前が言えないレベルの話じゃない。世界を支配していた大英帝国の国王の開戦スピーチが成功したのは、どもる覚悟ができたからなんですよ。僕は、大学や専門学校7校で講義をしているけれども、必ず講義が始まる前に、「英国王のスピーチ」を見て、2000字以上のレポートを書いてもらう。そして、90分の授業の2コマを使って、世界の吃音の治療の歴史を解説しながら、なぜジョージ六世が開戦のスピーチに成功したかの話をする。ジョージ六世は、5年間、ライオネル・ローグの訓練を受けるが、全く効果がなかった。スピーチ40分前に、一生懸命声を出そうとしていたけれども、全然だめだったことで分かるでしょう。でも、最後に彼が言ったことば、覚えてますか。
平野 最後のことばですか。
伊藤 これが、あの映画のポイントで、それをキャッチできなかったら、どもる人が、あの映画を観たことにはならない。
平野 心に残ってない。
伊藤 心に残ってないということは、あの「英国王のスピーチ」の大事なところを観てないということです。学生のみんながそうなんです。僕が英国王のスピーチはこういう映画だったんだよと解説すると、えーっ、そうだったんですか。じゃ、もう一度、DVDを借りてみますと言う。一番大事なポイントは、開戦スピーチが始まる8秒前に、ライオネル・ローグに言ったことばです。
 「結果がどうであれ。あなたが私にかかわってくれたことに感謝する」
 そう言って、スピーチに入る。結果がどうであれという、このせりふは、ものすごいせりふです。あの映画の脚本家は、自分自身が吃音で苦しんできた人間だから、吃音について理解して、ローグの孫からセラピー記録を見せてもらって書いた。吃音に悩んだ経験の無い人が脚本を書いたら、あのせりふは入ってこないと思う。
 あのことばは、「どもるときはどもればいいんだ。自分は英国王として話すべきことばがあり、それを語る義務と権利がある。国民はいかに私がどもろうと、国王のスピーチを聞く義務と権利がある」と、考えることができたからです。国王ですらそうなんだから、九州の教師が、(笑い)どもってはいけない場なんてあるわけない。どうですか、ありますか。
松原 そうですね。そう思います。
伊藤 結婚式の仲人でも、大きな式典でも、どもるときはどもればいい。すごくどもってやればいい。それでだめなら、それで困ったら、頼んだ相手が、「ちょっと、あなた、やめて下さい」と言ってくるだろう。式次第とか号令とか、そんなことはどもらない人間にとっては何の苦労もなくできること。そういうことは、苦労もなくできる人に任せればいい。自分は自分の職務をきちんとやればいい。苦手なことはパスすればいい。あえて何でも挑戦する必要はない。ただ、僕は挑戦した方がいいと思うのは、話すことの多い場に身を置くことです。それは、結局は得だからです。僕が、大学の教員になってよかったと思うのは、人前で話す機会が増えたこと。緊張の場に自分を置きながらしゃべっていくのは、どもりとの向き合い方を考える場をもらうことになる。平野さん、組合の副執行委員長という仕事を与えられのは、ラッキー、チャンスだと思ったらいい。引き受けて、どもるときはどもり、どもらないときはどもらないでやって、それで文句があるなら、執行委員を引きずり下ろしてくれればいいわけで、自ら引くことはない。そう、思えませんか。
平野 そこまでの決心が、つかないんですね。

なぜ決心がつかないのかの研究
伊藤 なんで決心がつかないかの研究しましょう。どういう条件があれば、決心ができますか。人生は、小さな選択から、大きな選択まで常に選択に迫られている。皆さん方は、どもりとこれからどう生きていくか選択肢を自らの決断でできる権利を持っている。その権利をどう使うかは、みなさんの自由です。見誤らないように選択をすることです。
 僕は、小学校2年生のときに、ひとつの選択をした。どもりに強い劣等感をもってしまったから、これから僕は学校やクラスの役割は全部逃げよう、音読も、手も挙げるのも、友だちの輪の中に入っていくのもやめようと選択した。自分でした選択だから、21歳のときに、これからは逃げるのはやめ、友だちになりたいと思ったら輪に入ろうと選択をし直した。選択をするとかどうかは、本人の決断で、何も難しいことはないはずです。でも、選択が難しいということは、僕もとても分かるので、その難しさのために、何の条件と何を練習して、どんな訓練をすれば、そういう選択ができるかということを、お昼から考えましょう。

再び、どもってはいけない場「クマが出た」
平野 午前中、どもってはいけない場などひとつもないと、伊藤さんは言われた。でも、私の中では、自治体の職員として、やっぱりどもってはいけない場面があると思っています。今、それで苦しいんだろうなと思う。私は、決まった原稿を読むのが苦手なんです。最近、私の近所でクマが出たので、「クマが出たので、気をつけて下さい」と、市役所の広報車に乗って言わなければならなかった。決まった原稿なので、やっぱりつっかえながら、それでもやった。それが、どもってはいけない場面だと思います。
伊藤 どうしてですか?
平野 街頭宣伝って、でっかい音で、それをどもりながら話すわけですよ。それはちょっとなあ…と思いながら、私は街宣したんです。
伊藤 どもってやったから、みんな、信用せずにクマに注意しなかったとか(笑い)
平野 それはないです。自分の中では嫌だなあと思いながら、街宣したんです。あともうひとつ、まだ私は経験ないんですけど、今、私の担当している仕事は広報課で、その中で、FM放送で1週間に5分間の番組をもってるんです。私は、担当じゃないんですが、同じ課の中でやっている者がいます。その番組は、1対1で、一人が聞き、一人が答えるということを順番にやる。幸い、まだ私の出番はないんです。私の出番になったとき、どうしようかなと思いながら、ずっと去年から今の仕事をやっている。
 もし、「あんた、出なさいよ」ということになって、FM放送の生放送で5分間、まあそれはいいとして、それを録音して、昼休みに庁舎全部に流すんです。考えただけでぞうっとします。決まった原稿をうまく読める訳はないんです。生放送は終わってしまうから、まあいいとして。でも、それを録音して、庁舎全部に流されるということを考えたときに、いやー、恥ずかしいなあと。それに耐えられるかなあと思うと、午前中の話で、どもってはいけない場面なんて、伊藤さんはないと言うけれど、私の中ではあるんだよなあと思ってしまうんですよね。

どもってはいけない場と、どもったら嫌だなと思う場
伊藤 どもってはいけない場面はないと思うんです。でも、区別してもらいたいのだけど、どもるのが、嫌な場面はあるんでしょうね。
平野 そうそう、嫌な場面ですよね。
伊藤 自分が困る場面であって、世間一般が困る場面ではない。それは分ける。全庁舎に、どもって出演した番組を流していいじゃないですか。
平野 いいんですか。
伊藤 僕は、それが県の職員としては、すごい社会的貢献になると思うんです。つまり、あれだけどもりながら、一生懸命な人がいる。
平野 そういう人間もいるんだと・・
伊藤 ああしてどもりながら、一生懸命、「ククククマが出ました。ににに逃げなさい」と広報したりすると、切実感が、(笑い)とは言わないけど、たとえば、老人や障害のある人や、生きることに困難をもっている人が、もしあなたの、どもりながら一所懸命話すFM放送放送を聞いていたら、その人たちがどう思うか。これだけどもりながらも、ちゃんと県のためにやってくれている人がいる。流暢にべらべらしゃべる広報係の人なんて普通のことで、当たり前でしょ。それに対して、人は何も心を動かされません。でも、どもりながら、仕事をしているあなたの誠実さは、僕たちが社会にできる大きな貢献だと思う。学校の教師の松原さんにも特に言いたいことです。子どもたちの中には、いろんなことで苦しかったり、劣等感をもつ子たちがいる。経済的な困難、人間関係の困難を抱えている子どもたちがいる。そんな子どもたちの中で、教師がどもりながら一生懸命精一杯生きている姿を見せることは、流暢にべらべら効率よくしゃべる教師よりは、はるかに教育的な効果としては大きなものがある。先生もがんばってるから、オレもがんばろうと共感する子どももいるかもしれない。
 どもる僕たちの社会貢献は、どもりながら誠実に自分の仕事をきちっとやること。心はざわつくし、決して心地よいことではないかもしれないけれど、心地よくないことをあえてやっていく。ここに人間としての生きようというものがあるのではないだろうか。
 何もしないで生きていければ、それは楽だけれど、それよりはちょっと負荷がかかったり、嫌な思いをしながらでも、そこで自分の仕事やしたいことをするという、これも人間の生き方としてかっこいいでしょう。
平野 かっこいいと感じますけど、やっぱり、庁舎で放送が流れるとき、弁当を食べながらそれを聞いていることを考えると、ざわざわするんです。
伊藤 ざわざわしてもいいけど、それに耐えている自分も立派だと思えるのも、
平野 そこまでいけるかなあ。
伊藤 いけると思いますよ。
平野 そこの折り合いがどうつけられるかですね。
伊藤 それはもうあなたの選択です。
平野 逃げるのも私ですし、向かうのも私だと思うんですけど。今のところ、逃げちゃうかな。その場面が来たら、逃げちゃうかな。
伊藤 逃げようと思ったときに、僕の写真をどこかに置いておくとか、「こら。逃げるな」(笑い)
平野 そうですね。そこですね。
伊藤 おまじないを作って、よし、逃げないでおこうって。

逃げたときに後悔しない
平野 松原さんの剣道の話も、代わってもらうこともできると思うんです。代わってもらったときには自分の中での後ろめたさも多分あると思う。逃げたくない、できればやりたいけど、逃げると、そこでまた傷つく。やったらやったで、うまくいかなかったときには、また落ち込んだりするし。
伊藤 僕は、逃げないでがんばれとは言うけれど、逃げるのも、立派な選択肢だと思う。僕はハンディだと思ってないけれども、吃音をハンディだと思う人は、何をやっても、しなやかに生き延びた方がいい。生き延びることを目的にすると、逃げることも選択肢です。逃げる選択をしたときに、オレはなんで逃げたんだろうという後悔や後ろめたさを感じないようになってほしい。僕も小さな逃げはいっぱいある。言わなければならないことは逃げないけれど、お寿司やさんで、「トトトトトトト」と言ってまでトロを食べなくてもいいかと思って、マグロで済ませる、というような小さな逃げはいっぱいある。
 FM放送で、全庁舎に自分の声が流れることは耐えられないから、悪いけど、代わりにやってくれ、僕は一生涯FM放送には出ないぞと、宣言する選択をしても、いいじゃないですか。
平野 そうですね。自分の中で折り合いがつけば。
伊藤 折り合いがつけば。何も言わないで逃げたのではなくて、自分の弱点だと感じている吃音をちゃんと公表して、説明して逃げれば、実績であり、そういう自分を評価していいと思うよ。
平野 黙って逃げたり、風邪ひいたとの言い訳するのとは全然違いますよね。
伊藤 風邪をひいてとか、お父ちゃんが死んだからとか、そういう逃げ方ではなくて、僕は、どもりで、残念ながらみんなのように強い人間じゃないから、耐えられないので、FM放送はやめさせてくれと言って逃げるのなら、逃げたことを正直に伝えたことは勇気ある行動だし、立派じゃないですか。逃げることに罪悪感を感じたり、引け目を感じないで、堂々と逃げればいい。そして、得意な人に代わってもらったらいい。
平野 堂々と話して、
伊藤 そう、堂々と話して、自分の弱さはちゃんと出して、これ、かっこいいでしょ。
平野 それはいいですね。(笑い)それができていなかったと思います。
伊藤 それができたときに、やっぱり人はお互いに弱さを見せながら、弱いところをカバーしながら生きていくのが社会全体が生きていくということだと思う。この人は正直に自分ができないことを言って逃げているんだ。それもいいなあ。じゃ、僕もできないことがあっても、自分の弱さを出してもいいんだと、他の県の職員が思ってくれたとしたら、その人がすごい辛さを持っている人であったら、あなたの弱さはその人に大きな共感と勇気を与えることになりませんか、ね。
平野 合点です、それは合点です。(笑い)
伊藤 合点ですか。それなら、県の職員ですらそうなんだから、教育の世界にいる人間が自分の弱さを出すということはものすごく大事ですよ。

弱さを出す、弱さを見せる 卒業式
松原 平野さん、もう、全く共感します。(笑い)
伊藤 共感だけしてたら、だめやで。(笑い)
松原 ざわざわ感も分かります。伊藤さんの言うことも分かります。覚悟ですね。自分のことをまだ語れないですね。妻とならできるけど、今は。
伊藤 教師は、自分の弱さ、弱点を含めて、きちっと自分のことばで語り、それを子どもにも話をし、同僚にも話をする。だけど、自分はこう生きるという、そういうものがないと、なんか自分を取り繕っていいところだけを見せる生き方を子どもたちに見せちゃだめですよ。それができないなら、教師をやめて、他の仕事を選ぶのも、僕は勇気ある選択だと思います。でも、本当に教師として生きたいと思うなら、今が正念場でしょう。ほんとは、7年前が正念場だった。あなたから電話で、何週間後の卒業式で生徒の名前が言えない、治したいと相談されたとき、同じような教師の仲間の体験の「スタタリング・ナウ」を送りましょうと言ったら、吃音研究会の封筒だと、妻に自分がどもりであることと、どもりに悩んでいることがバレるのが嫌だと言ったんです。
松原 思い出しました。
伊藤 小学校の教師として生きていくには、今ここで勝負しなかったらどうすると言ったら、しぶしぶ住所を教え、ニュースレターを送ったら、3日後に、電話で、「妻に初めて自分のどもりのことを話しました」と報告があった。このワークショップの初めの自己紹介の時、自分の意志で吃音の話をしようとして、30分も泣いたので、妻に何が起こったのかいぶかしく思われたと話していたけれど、その前がある。忘れたんですか。
松原 いやいや、思い出しました。(笑い)最初に、伊藤さんでした。妻にも言えなかったですものね。
伊藤 電話で、僕、彼女ともしゃべってるんだよ。妻にどもりの話をしたら、妻も分かってくれて、もっと早く言って欲しかったと言ってくれたと話して泣いていた。ここに妻もいるので、電話代わりますと、あなたは言っていたんですよ。
松原 全くそうだ。今、思い出しました。伊藤さんがきっかけということは覚えているんですけど、そのへんのやりとりは忘れてましたね。
伊藤 卒業式無事終わったとの報告を聞いて、彼は立派な教師になっていると思ったら、今だにこんなんだ。だから、覚悟を決めることは簡単で、それを持続することが難しい。だから、もう一度覚悟し直さないとあかんね。あのとき、何と言ったかな、あなたは。教師たるものは、自分の弱さを子どもにきっちりと伝えて、自分を語って生きるということが大切なんだとよく分かりました、と言っておきながら、全然分かってないじゃないですか。
松原 そうでした。卒業式の前に、子どもたちに自分のことをさらけ出して言ったときは、よかったんです。それも時間がかかったんですけど。子どもたちも、いつもは全然聞いていなかったり、ピアス開けてるような子も、私の方をしっかり見て、涙を流して聞いてくれていました。
伊藤 それが教育でしょう。いや、まいったなあ。僕はあなたのことを講演などで、話をしてるのに、こんなに忘れられてるとは、(笑い)いやいや、おもしろい。すばらしい。人間って、いいですね。もう一度、覚悟して下さい。

強くならなくていい、ヘルプを出すことの大切さ
松原 強くならないといけないですね。
伊藤 強くならなくていい。強くなるのではなくて、弱さを弱さとして認められる。弱い人は弱いままでいい。弱い人間が何も強くなる必要なんてない。弱いことの方が、却って強いですよ、結果としては。だって、弱さを知ってるということは、自分の分をわきまえているということ、できないことはできないと言えること。できないことは誰かに助けてもらう。今の世の中に欠けているのは、助けてもらうというヘルプ、ヘルプミーです。それを子どもたちも言えなくなってるし、教師も言えなくなっている。この、「助けて下さい」ということがすごく大事だと思う。お互いが弱さを認めながら、助けながら生きていく、これが人間が生きていくということじゃないですかね。
(いろんな話題が出されました。おもしろいときにはみんなで大笑いし、しんみりするときはしんみりした7時間のワークショップ。参加者のたくさんの声を紹介できないのがとても残念です)  (了)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/10/16

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