映画『英国王のスピーチ』~開戦スピーチが成功したのは~
村山正治先生から紹介していただいた、人が変わっていく要因のデータは、漠然と思っていたことが数字として証明されたような思いです。僕はよく、ことばの教室の担当者に、「大したことはできないんだよ」と言います。人が変わるのは、誰かひとりの専門家の力ではなく、何かよく分からないけれど変わったという方が正解だと思うからです。
映画の中でのワンシーン、ひとつのことばが大きな意味を持つことがあります。
I have a voice は、まさにそれでしょう。力強く、大きな覚悟が込められたことばです。
映画『英国王のスピーチ』
開戦スピーチが成功したのは
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二
人間が変わっていく要因
九州大学の村山正治先生に紹介していただいた、カウンセリング、精神療法、心理療法の効果要因の研究があります。ゲシュタルト・セラピー、交流分析、論理療法、来談者中心療法などいろんなセラピーに共通する効果要因の調査研究です。
それぞれの流派は自分たちの技法が一番効果的だと考えていましたが、流派による差はなく、その代わりに興味深い数字が出ました。人が変わっていく要因の全体を100%とした場合の数字です。
①特殊なスキル 15パーセント
②期待効果 15パーセント
③セラピストとの関係性 30パーセント
④セラピー以外の場 40パーセント
これは心理臨床の研究ですが、自然に変わっていくことの多い吃音臨床の場合、④は、この数字以上だろうと僕は考えています。
特殊なスキルとは、多くの臨床家が自分こそはと誇るその流派の特殊な治療技法で、15%。
治療に期待する効果は15%。
アメリカでは、偽薬の研究が盛んです。あまり信頼できない医者が処方する本物の薬より、信頼できる医者の小麦粉が効く場合があるくらい、セラピストとの関係性は大きく、30%。
一番大きい40%は、セラピーの技法などと関係ない、セラピー以外の場です。いい仲間や恋人ができた、仕事がうまくいった、楽しめる趣味のようなものが見つかった、思いがけず宝くじに当たったなど、生活の中のセラピー以外の場で起こっているさまざまな出会いやできごとです。いわゆる自然治癒といっていいかもしれません。自然治癒力、免疫力、私は自己変化力と言いますが、日常生活を送る中で、何かは特定できないけれど自然に変わったのが、40%です。
これはアメリカの長年の膨大なデータをもとにした、信用できる報告です。これが報告されたときに、村山先生の大学院の臨床心理士になろうとしている学生がショックを受けるから、紹介しないほうがいいよとの話が冗談まがいに出るくらい、治療技法を学ぼうとしている人にとっては衝撃的な調査結果だったようです。
私は言語聴覚士養成の専門学校で講義をしていますが、学生は吃音治療のスキルを求めます。ことばの教室の教師もそうです。治療技法を探し、研修する人がいい臨床家だと錯覚している人がいます。問題を抱えて、人が生きる中では、治療技法よりもセラピストとの関係性の方がずっと大きいのです。相手を対等と見て、尊敬し、信頼する。相互尊敬、相互信頼のないところにセラピーは成り立たないのですが、その重要なセラピストとの関係性でも30%です。何か分からないけれど、自然に変わったが一番多いのです。
ジョージ6世の場合も、開戦スピーチが成功した要因は、後で詳しく話しますが、ローグの吃音治療のスキルよりも、国王を支える妻のエリザベスを中心とした家族の愛、国王としての、スピーチを含めてのさまざまな公務の中での人やできごととの出会いが影響しています。セラピー以外の場の40パーセントだろうと思います。
ことばの教室でも、あれこれと教室で40分ほど言語指導して、指導に効果があったと考える人がいるかもしれませんが、それは疑問です。仮に変わったとしてもそれはその子どものもつ、自然変化力によるものでしょう。学校生活の中で、先生や同級生との関係がいい方向に変わった、何か喜びや楽しいことができたなどの可能性の方が、ずっと大きいのです。
このことに関係して、再び「対等」の話をします。映画での「対等」は、治療の場では、国王も国民も対等だということに矮小化されそうですが、そうではありません。セラピストとクライエントは対等で、セラピストがクライエントよりも優れていたり、吃音に関して何か特別の知識や技能があるわけではなく、対等とは、セラピストの、自分は大したことはできないとする、「無力宣言」に等しいのです。大したことはできないけれど、対等の人間として誠実に関われば人は変わっていくのです。
家族療法におけるナラティヴ・アプローチでは、「無知」と言います。自分を苦しめている問題が、どう自分の人生に影響しているかを一番知っているのは研究者や臨床家ではなく、本人です。当事者本人に教えてもらうしかない。無力で何も知らないから、本人に教えてもらうのです。ことばの教室だったら、吃音についてどんなことを考え、どんなことで困り、どんな将来へのイメージをもっているか、子どもに教えてもらわないと、取り組みは成り立たないのです。
なのに、あえて強い言葉で言えば、傲慢にも、吃音研究者や臨床家は、自分が吃音について一番知っているかのような錯覚を起こして、自分の数少ない臨床経験の中で、こうやればこうなるはずだと考えてしまう。これはとても危険なことです。
ローグは徹底して彼の側に寄り添い、真剣にジョージ6世の話を聴いています。まさに臨床です。
ローグが対等の立場で、よく話に耳を傾けることによってジョージ6世は心を開き、自分の苦しかった幼少期について話します。王室では、母が育てず、乳母が育てるようですが、乳母につねられたり、食事を与えられないなど3年間虐待を受けた苦しみや、兄との関係や、13歳で死んだ弟のことなどを話します。
その話は、一般国民のセラピスト、ローグには想像もつきません。言語障害の専門家ではあっても、その人がどう生きてきたかは、教えてもらうしかないのです。私は何も知らないから、あなたが物語って教えてほしい。無知であることに徹底します。対等は能力的にも上下関係ではないので、セラピストも当然のことながら失敗します。ローグもいっぱい失敗する。しくじった、しくじったと何度も言っています。
特に吃音は、確実な治療法がなく、ローグにしても、自信があったわけでも、こうなると見通しをもってジョージ6世に関わったわけでもなかったでしょう。治療法のない、吃音の取り組みは、失敗して当たり前、しくじって当たり前なのです。だからしくじったら、ごめんなさいと謝って、悩んで落ち込む。対等ということは、一緒に落ち込み、一緒に悩み、一緒に失敗し、一緒に成功する。その中で一緒に何かを探し出していく。その姿勢が、対等であるということです。
映画でも、ローグを専門家であるけれども、一人の劣等感をもつ人間として描いています。彼は、オーストラリア人であること、オーストラリア設りがあるために、シェイクスピアの劇のオーディションに失敗したことなどの劣等感をもっています。弱さや劣等感をもっている仲間として対等で、一緒に歩んでいく。これが僕が言う対等性です。
ローグは見事に対等性があったが、映画の冒頭に出てくるような、消毒してあるからと言ってビー玉を口に含ませて、「ビー玉に負けず、集中して」と、上から押しつけるような医者であれば、絶対に成功はしていません。
セラピストも、自分と同じ匂いがする、劣等感をもっている弱い存在なんだと思えたから、ジョージ6世はローグを信頼したのだと思います。ジョージ6世とローグの互いに信頼する対等な人間関係が30パーセントです。
治療場面以外の場が40パーセントとすると、いわゆる言語治療は大きな位置を占めていないことが分かるでしょう。実際に言語訓練はまったく効果がなかったことが、開戦スピーチの直前の様子をみても分かります。では、何がジョージ6世を変えたのか、さらに考えましょう。
吃音に悩む人が変わるには I have a voice
英国王のスピーチは、この一言のために作られた映画だといっていいくらいです。今後の吃音臨床でもっとも重要な意味をもつことです。「I have a voice」は、言葉を変えれば、「私は、国王としての責任を全うする」です。この責任感が、開戦スピーチ成功の一番の要因です。
戴冠式の準備の時、大司教から、ローグがスピーチセラピーの研修経験もセラピストの資格もないことを知らされたジョージ6世は、自分の吃音を治せなかったローグを責めます。
「お前は研修経験も資格もないが、度胸だけはある。戦争が迫る中、この国にことばなき王を押しつけた。私の家族の幸せを壊した上に、治る見込みのないスター患者を罠に陥れた。ジョージ3世のように狂気の王になる。狂った王、どもりのジョージ。危機の時代に国民を失望させる王」
このように責められている間に、ローグは戴冠式に使う王座に座ります。それを見たジョージ6世は怒ります。
「立て、王座に座ってはいかん」
「ただのイスだ。観光客の落書きもある」
「戴冠式用のイスだ。私の言うことを聞け、立つんだ」
「何の権利でそういうことを言う」
「神の権利だ。私は王だ」
「あなたは、王になるのは嫌なんだろう。そんな人のことばをなぜ聞く必要がある」
「I have a voice」
「そうとも、あなたは忍耐強く、誰よりも勇敢だ。りっぱな王になる」
「I have a voice」、ジョージ6世の凛とした声が響くこのシーンが、この映画のハイライトです。字幕には、「私には王たる声がある」とありますが、公開前の宣伝映像の字幕は、「私には伝えるべき言葉がある」でした。これが吃音の臨床の眼目です。
流暢に話せることが重要なのではない。どもらないように工夫してしゃべることに意味があるのではありません。その人の話の内容に大切な意味があるなら、どんなにどもっても人はその話を聞きます。でも、どんなに流暢でもその人の話が空疎なら、しゃべればしゃべるほど人は聞きません。
僕の親友の結婚式の経験です。感動的な結婚式の最後に、新郎の父親の意味のない挨拶が延々と20分以上続きました。聞き手の反応にお構いなしに話は続き、参加者みんながうんざりして、折角の感動の結婚式が台無しでした。
真実の言葉を語るときは、どもった方がいいと世界的作曲家の武満徹さんが名エッセー「吃音宣言」の中で書いています。詩人の谷川俊太郎さんとの対談で、僕が女性にもてた話をしたときに、「どもる人は、誠実だと誤解されるんだよね。とつとつと話す言葉に真実がある」と言いました。「私はあなたのことが好きだ」と、早口で軽く言われても相手に伝わらない。「す…好きだ」の方が伝わると言うのです。
平和な時代の王であれば、「I have a voice」と言う必要はありません。ヒトラーが、イギリスの説得を無視して戦争が始まります。日本の僕たちが考える戦争と、ヨーロッパの人たちが考える戦争とは全然違います。沖縄の人たちが経験していることですが、地続きのヨーロッパでの戦争は、目の前を戦車が通り、人が撃たれて死に、建物が破壊されます。目の前で起こる大変なことを第一次世界大戦で経験しているヨーロッパの人たちが、また、その戦争に再び巻き込まれる。政府としては苦渋の選択です。
開戦のスピーチは、国王が、国民に説明し、勇気づけ、安心感を与え、みんなでこの困難を耐えようと訴えなければならない、大変重要な言葉です。結婚式のお祝いのスピーチではありません。空疎な「頑張ろう!」なんてことでは国民は納得しません。どれだけの人に影響を与えるかを知り尽くした上での国王としての言葉なのです。
国王としての立場、責任、地位、役割、それらの中から絞り出された、「I have a voice」です。ローグへの怒りを込めながら、しかし、大いなる決意を込めて、威厳をもっての「I have a voice」。
本当の王が誕生した重要なシーンです。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/07/10

