講談に賭けた人生
昨日、遠く宮城県から、インタビューをしたいと、僕を訪ねてこられた方がいました。言友会創立の頃の話も出ました。
どもる人のセルフヘルプグループ言友会の原点は、田辺一鶴さんが開いた「どもり講談教室」だったと言ってもいいくらいです。田辺一鶴、丹野裕文、伊藤伸二の一癖も二癖もある、ある意味変わった3人が出会ったこと、そして何よりあの時代が、言友会の設立につながったのだと思います。
今日は、昨日につづいて、田辺一鶴さんを特集した記事を紹介します。『吃音者宣言』(伊藤伸二編著 1976年 たいまつ社)より、「講談に賭けた人生」と題する、田辺一鶴さんの人生を紹介します。
後半に、一鶴さんは、こんなふうに語っています。
「私は自分の体験から、吃音者にどもってでもやりたいと思うことは、どんどん実行したらいいと言いたいのです。どもって恥をかくのがいやさに行動できない人がいますが、本当はどもるのが恥ではなくて、行動できないことの方が恥ずかしいことなのです。勇気がいることかもしれませんが、頑張らなければなりません」
まさにそのように生きてきた大先輩の一鶴さんのことばを、噛みしめています。
講談に賭けた人生
田辺一鶴
◆どもりを治したくて
今日、私が芸能界にいますのは、講談をすることによって私のどもりを治そうとしたのが、そもそものきっかけでした。
講談は、リズムに特徴がありますが、テンポはかなり日常生活に近いものです。それで、講談をもっと掘り下げて研究していけば、どもりを治す何かがあるかもしれないと思ったのです。
特に講談の中の「修羅場」では、かなりひどいどもりの私でも、非常になめらかに語れます。そこで、私は多くのどもりの人を集めてみんなで経験を出し合いながら、どもりを治す研究をして行くために「どもり講談教室」を開くことにしたのです。
その頃、売れていなかった私は「当分この教室の運営に集中してみよう」と思いました。幸い本牧亭は午前中空いていましたので、場所の心配はいりません。新聞社に講談教室を開くいきさつを話し、記事としてとりあげてもらいました。開校日には大勢の吃音者が集まり、会場はどもりを治したいという熱気にあふれていました。
集まった人達と話し合って、毎週日曜日の午前中に教室をもつことに決めました。生徒が増えたり減ったりするなかで、後で言友会を作った丹野裕文君や伊藤伸二君が育っていってくれました。
「どもり講談教室」が発展的に解散して、しばらく後に言友会が発足しました。私も続けて参加していく予定でしたが、ちょうど、言友会の創立に参加したころから、私にチャンスが訪れてきました。だんだん売れ始めたのです。
「パパン、パンパン」と所かまわずたたいてしゃべる講釈師は、これまで一人もいませんでした。どもりの私が話しやすくするために、「パパン、パンパン」とたたくのを、変わった奴がいるぞとお客様が覚えてくれはじめたのです。
どもり特有の随伴運動を、扇子で机を打つことで生かした私は、どもりであるがゆえに世の中に出てきたとも言えるのです。だんだん売れ始め、忙しくなった私は、もう時々しか言友会に参加することができなくなってしまいました。
言友会はその後大きく発展しましたが、私自身が言友会から受けた恩恵は、かなり大きいものがあります。それまで他人に教えるという経験がなかった私にとって、講談教室や言友会のクラブ活動で、吃音者に講談を教えたという経験は、私に強い自信を与えてくれました。
それまでは、うつ向いて、どこかにお金が落ちていないかというような姿勢で歩いていましたが、やっと胸を張って人に会うことができるようになったのです。
◆どもりを治したいと講談の世界へ
昭和15、6年、私が小学5年生の時に、東京の百ケ原小学校にどもりの小学生が300人近く集まり、どもり矯正教室が開かれました。その時、私は自分のどもりの重さの程度がわからなかったのですが、組み分けをしたら一番ひどい組にもって行かれました。「ぼくのどもりは重いんだなあ」とつくづく思いました。
それ以来、いろいろなどもりの矯正方法を試しましたが、どもりの方はいっこうに治りませんでした。それでも、どもりを治すために野球の審判をしたり、話術のクラブに入ったりしました。その内に、もっと高度な話術を覚えようと、落語や講談を聞きに寄席へ通いました。
そんなある日、寄席で田辺南鶴師匠が、一般の人を対象に講談学校を開いていると知りました。個人教授を受けに来た私が、どもって「ククー」「キィキィー」と息をもらすと、師匠はひどく驚いた様子でした。それでも師匠に、「どもりを治すために来ているんです」と言うと、「住み込みでやってみるかあ」と言ってくださいました。私は即座にお願いしました。
◆講談をやめてくれと師匠から
ところが、どもりを治したいの一念で講談に打ち込んでいるうちに、自然に、どもりを治したいという気持ちが消えていってしまいました。
どもりが治る治らないよりも、私の関心は、講談そのものに移っていったのです。
私は、さらに8年間、講談の練習にあけくれました。しかし、私の努力を尻目に、後輩がどんどん私を追い抜いて出世して行きます。すると師匠は、私がかわいそうに思えたのか、「田辺一鶴」という名前を返してくれと言い出しました。講談をやめろというのです。
師匠は、「お客様の中には『お金をやるから一鶴を出さないでくれ』という人もいる、客席でもそう言っている。どもりも以前より軽くなったんだから、それでいいじゃないか。お前は講談では食っていけないよ」とも言われました。また師匠は畳に手をついて、「頼む、頼むからやめてくれ。かわりの仕事がなかったら、私の本を半分ゆずってやるから本屋をしろ」とまで言ってくれたのです。
身寄りはない、お金はない、芸はまずい、あるのは重いどもりだけという私を、師匠なりに案じてくれてのことでしょう。
それでも講談がたまらなく好きになっていた私は、「講談を続けさせてください」と一心に頼みました。師匠はしばらく困っていた様子でしたが、寄席には出せないが、自分の独演会にだけは出てもいいだろうと言ってくださったのです。
◆無名の講談師田辺一鶴、オリンピックを語る
しばらくは師匠の独演会しか出られない状態が続きました。その頃から私は、今の講談会に新風を吹きこむためには、少々変わった奴が出てこなければだめだと思うようになってきました。
若い人が「ワァー」と飛びついて聞いてくれる講釈師がいなければと思うようになったのです。そのために、これまで10年近くやってきた古典を投げ捨てて新作をやろうとしました。古典の、古めかしいがすばらしい話術を生かして、全く新しい登場人物に振り替えて、「王だ、長島だ」とやったら、少しは違うかなと思ったのです。それ以来、いろいろな野球物語を作りました。
ちょうどその頃、浄瑠璃の世界でも野球物をやって、上の方から古典芸能を侮辱する奴だと言われて、新作に取り組むのをあきらめた人がありました。しかし、私はその話を聞いて、私は誰がなんと言おうと新作をやり通そうと、あらためて決心しました。
私は師匠から、新作はやるなと言われていましたので、新作は寄席以外の所でやっていました。
しかし、東京オリンピックが行なわれた時は、この時ぞとばかり数々の新作を作りました。そして、これだけは師匠に聞いてもらいました。
「いま、高らかにファンファーレ……」じっと聞いていてくれた師匠は、こう言ってくれました。
「今までにいろんな弟子をみたけれど、お前みたいに自分の芸に情熱を持ったやつは初めてだ。お前、出世しなくてもいいな。だったら寄席でも新作をやってみるか、出世すると思うなよ。そのかわり自分の好きなことをやれ、何年かすれば、田辺一鶴の時代がくるかもしれない」
しばらくたって、師匠の世話で新聞記者がインタビューに来ました。なにしろ初めてのインタビューでしたから、その時のことは今でもはっきり覚えています。
私は、まだ完成していませんがと前置きして、記者の前で、新作を一時間にわたって披露しました。記者はびっくりして、「今までにあんたみたいな情熱家に出会ったのは、初めてだ。私の目に狂いがなければ、一鶴さんはいっかきっと世に出るよ」と言ってくれました。新聞には「無名の講釈師田辺一鶴氏、オリンピックを語る!」と8段ぬきで出ました。彼は私の恩人の一人なのです。
それ以来、新作を寄席でやるとこれが意外にうけました。特にお客様に若い方が多いとうけまして、寄席だけではもの足りず、しゃべれるところへは、どんどん出かけていきました。病院とか、養老院とか、施設とか、東京都の周辺での施設で私の行かない所はないほどになりました。自分の芸を完成させたいと必死だったのです。
それはちょうど、言友会のできる1年前の昭和39年、私が35歳頃の話です。
◆講談の世界では出世できないと言われて
その後、後輩が私を追い抜いてニツ目に昇進した時、私をかわいそうに思ったのか、師匠は「夢の一日真打ち」という興業をやってくれました。
「これを胸にたたんで、生涯前座でがまんするんだよ」となぐさめてくれました。後輩が、半年もすれば真打ちになることに決まると、また師匠は、かわいそうにと思って、「一鶴を二ツ目にしてやろう」と骨を折ってくれました。
神田山陽先生の「一鶴君は、いつか講談界に名をなす人物かもしれない。あれだけ一生懸命にやっているんだし二ツ目にしてもいいではないか」という口添えもあってお情けで二ツ目にしてもらいました。師匠はその時、泣いて喜んでくれました。そして、前例のない、「二ツ目披露興業」をやってくれたのです。
師匠は、「一鶴はどもりで、素質もない。とても講談の世界では出世できない。人生で一番華やかなのは今なんだ」と、10日間の披露興業をやってくれたのです。祝儀を持って、「お前、これを胸にたたんで生涯ずっと二ツ目でやるんだよ」と言われました。そして、「私が死ぬ時には命とひきかえに真打ちにしてやる」と言ってくれました。
◆どもりがひどくて仕事をほされる
今までで一番くやしい思いをしたのは、世の中に少し出かかってきた時でした。
ちょうど新作講談が原稿として、雑誌や新聞に売れてきた頃です。東北放送から連続番組の話が入ってきました。「田辺一鶴のサラリーマンで勝負しろ」という番組でした。1年間契約で、初めての番組だったので大喜びしたのを覚えています。
しかし、2回分の放送をとりにスタジオへ行ったら、「キィー」「ウー」としか声が出ないのです。放送局の人にしてみれば、2回分だから30分位で終わると思っていたんでしょうが、どもって4時間もかかってしまいました。
その翌日、私は局から呼び出されて、あっけなくクビになってしまいました。
同じ頃、文化放送でロイジェームスさん司会のスタジオ番組があり、私は川柳の選者でした。1位になった川柳を読んでくれと頼まれたので、ふと見ると、川柳の最初の音が「タ」でした。顔が真赤になり、全然声が出ませんでした。放送局からは、「一鶴さん、悪いことは言わないよ。芸人では成功しないから止めた方がいい。それに文化放送ではもう貴方は使わないから」と言われました。
あの頃は、シュンとなって家へ帰ることがよくありました。でも一晩でケロリとなって、翌朝には、「なにおう!」という気になっていました。
売れ始めた時の失敗と、売れていない時の失敗では、やはり売れ始めた時の失敗の方がショックが大きかったようです。10何年間の下積みからやっと花開こうとする時、横から泥をひっかけられたようなものですから。
◆芸能界の第一線へ
その後、私は運に叶い、NHKテレビの「ステージ101」にレギュラーで起用してもらったのを皮切りに、テレビやラジオや舞台にと、芸能界の第一線におどり出ました。
昭和47年、第1回演芸選賞をいただき、49年には45歳で念願の真打ちに昇進しました。言友会の仲間がかけつけてくれたなかで真打ち披露興業をしました。また、売れない頃から養成していた弟子達も、各々の努力が実を結び、次々と真打ちに昇進してくれつつあります。
◆私は今でも
私は今でもどもりますし、どもることでの苦労は、少なからずあります。高座に出て始めの2、3分などは、「タ」「カ」「ト」「オ」「コ」「ク」「ヤ」「シ」に限ってスムーズには出てこないのです。
ただ長年の経験から、お客様の顔を見ながらゴマかす術を心得ているだけなのです。しかし、この術とても、同じ吃音者が見たら、すぐゴマかしに気がつく程度のものなのです。
以上ふり返れば、吃音者の私が芸能界入りして20年になりますが、その間に仲間とか後輩たちが、何人芸能界をやめていったかわかりません。それも私からすれば、私よりもやさしい障害を乗り越えられなくて落ちていってしまったようです。私には、今でもいろいろな苦労がありますが、もうだいじょうぶだろうと思っています。
泥にまみれ踏みつけられ、風雨に耐えて出てきた私には、それに負けない強い精神力ができていると思うからなのです。
◆どもりだからこそ
私は自分の体験から、吃音者にどもってでもやりたいと思うことは、どんどん実行したらいいと言いたいのです。どもって恥をかくのがいやさに行動できない人がいますが、本当はどもるのが恥ではなくて、行動できないことの方が恥ずかしいことなのです。勇気がいることかもしれませんが、頑張らなければなりません。
何の苦労も障害もなく、順調にことが進む人は勇気をそれほど必要としません。安定した自分の立場を守ることでこと足りるのです。しかし、私達はどもるという、ある意味ではハンディを持っている者は、守ろうにも安定したものがないのです。守るのでなく、攻めていくしかないのです。
芸の世界で考えますと、能弁な人、器用な人はそれほど苦労なく、ひと通りの芸を身につけてしまいます。苦労なく人気が出る場合もあります。すると、今度はそれから先、伸びることはむずかしくなります。身につけた芸をこわして新しく作りかえていく努力が足りなくなるのです。今日の芸は明日の芸ではないという自覚が持てないのです。守るのではなく、こわすのには勇気がいるということなのです。
その点とつ弁の人は、なめらかに話すことでは能弁の人にかないっこありません。そこでどうしたら能弁の人に勝てるかを真剣に考え、工夫をするのです。こうして身についた芸には、能弁の人では表わせない独特の味がでてくるのです。
何度も何度も自分の芸をこわして新しい芸を身につけることを生涯続け、とつ弁はとつ弁なりの独自なものを作り出していくしかないのです。そこでとつ弁の人は、自然と「攻めの芸」の形となっているのです。
まして吃音者である私は、「攻めて、攻めて攻めまくる」しか自分を生かせる道はないのです。攻めの姿勢を身につけさせてくれたどもりに、今では心から感謝しているのです。
周囲から白い目で見られ、直接に反対も受け、また自分のふがいなさを思い知らされながら新作講談にかけることができたのも、私が吃音者であるからではないかと思っているのです。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/03/08
