べてるの家から吹く風
2007年2月3日に行われた川村敏明さんの講演を紹介します。深刻な内容のはずなのに、なぜか笑いがあちこちで起こり、楽しいお話でした。「スタタリング・ナウ」2009.3.29 NO.175 より、今日と明日の2回に分けてお届けします。
べてるの家から吹く風 1
川村敏明 浦河赤十字病院精神科医
はじめに
今、紹介いただきました川村敏明です。
北海道の地図を見ると、一番下に南に突き出た所が歌に歌われた「襟裳岬」で、そこから約50キロ、海岸線を北に上がっていった所が浦河です。年間230人くらいのペースで順調に人口が減る過疎の町です。町の将来は真っ暗と言われている中で、一見何の心配もなさそうな集団が〈べてる〉という際だった存在にだんだんなってきています。
私たちは、この過疎の町で、約30年近くにわたって、精神障害という課題に取り組んできました。田舎ですから、良くも悪くも都会の影響を受けずにきました。不便な過疎の町だからこそできることは何だろうと考えながら、取り組んできました。その結果が、今のべてるの活動です。
私たちの活動は、全国に悩みを散らばして歩くようなものです。べてるの話を聞いたら、楽しかった、でも、帰ったらすごく悩みが深くなって、却って暗くなったという人も随分いらっしゃいます。そういう副作用の面も覚悟いただいて、この世界は何だろうかを考えます。それこそがべてるの活動の中身なんです。べてるのメンバーはみんな自分が研究員、研究する人だと思っています。
自分自身の問題、精神障害の問題を、個人だけではなく、全体で考えるべきこと、担うべきことを、みんなで考えていこうとしています。みんな真剣ですが、深刻ではない。そういう合い言葉も大事にして、よくしゃべって、よく笑って、時には怒ったりするにぎやかな人たちです。
私が最初に浦河に行った頃と比べたら、本当にその存在が目立ちます。町の中でもたくさんの人が生活していますし、町の中の生活に参加しているという姿が見えます。北海道は車社会なので、町を歩いている人は、べてるの人と、べてるを見学に来た人です。そんなふうにつながってきた流れを皆さんに紹介しながら、真剣だけれども、深刻にならない悩みを増やそうと思っています。
今、奈良の家族会の皆さんが、親としてこのままでは安心してあの世にいけないという話をしていらっしゃいましたが、べてるでは、安心してあの世に行って下さいと言います。どうしてそうなっていったのか、今日の話の中で、皆さんがヒントをみつけて下さればと思います。
私は浦河赤十字病院で25年働いています。昭和57年からいて、4年ほど札幌の病院に出稼ぎに行った以外はずっと浦河です。私の4年くらい前に、向谷地生良さんというソーシャルワーカーがいました。彼が、べてるの家の活動の最初の一粒のタネを蒔いた人です。4年後に私も行って、彼の話を聞きながら、おもしろいなと思いました。私は医者、向谷地さんはソーシャルワーカー、と職種は違いますが、同じような思いを共有できた。楽しくやってきたところが、今のべてるの楽しさにもつながっているのかなあと思います。私は評判の、治せない医者ですけれども、何かが変わったことは間違いないと思っています。
囲学、管護、服祉
30年前に、ソーシャルワーカーの向谷地さんが病院にいた当時の浦河の精神医療を、医学、看護、福祉の漢字を変え、囲学(囲う医学)、管護(管理する看護)、服祉(服従させる福祉)と表現しました。これが、当時の精神医療の実態ではなかっただろうかというのです。精神病はこうするしかないという状況だったような気がします。病院の精神科は、非常にルールや規則が多くて、それが全て、治療のためという名の下に、なされていました。私たちは普通の生活で、こんなに多くの規則の中で動いているだろうか。たばこを吸う時間や本数が決められ、外出は病院の近くで距離や場所が決められていた。外出は3日前、外泊は1週間前までに届け出る。何日前の何時までと細かく決められ、5分遅れると受付つけない。私たちの日常生活とは違った感覚の規則が、治療という名の下に、精神科では大変多かった。だから、長い間入院している人はごく自然にそれに従っていましたけれど、初めて精神科に入院した人にとってはその規則を守ること自体がぴんとこない。自分の実生活との感覚のずれみたいなものがあり、抵抗もあって、時には病院の中で、病気でなくて興奮することがある。すると、さらに薬が増え、注射され、外出が制限される。それが精神科というものだと、私たち自身が思って真剣にやってた時代があります。
今は、当時の治療者が見たら、とってもいい加減になったとみえるくらい、入院している人たちもごく自然な形で守れるくらいのルールです。
薬は、管理しやすい。病気の管理と同時に、人間、患者さんを管理するために必要と思われ、今と比べれば大変多かった。私たちは、農業にたとえて、農を脳みその脳に置き換えて、洒落で、低脳薬という言い方をしています。ただ薬を減らせばいい問題ではないので、それ相応の薬以外の工夫や取り組みが必要になってきます。それがあるから薬を減らすことも可能になってきます。
べてるの家誕生以前は、お任せ医療といって、先生・病院に全てお任せし、従いますというやり方をしていました。本人はあまり悩まないように、頭を使わないようにした。悩むと病気に悪いからと、全て周りがあなたに大事なことや必要なことをやってあげるから、黙って言うとおりにしなさいというものです。私たちのところでも、昔は、「先生や看護士さんの言うとおりにしてすっかりよくなったら退院しておいで」と、ご家族は、入院している人によく言ってました。
私たちの浦河の病院では今はこれは流行らない。周りから受け入れられません。今は、悩みを増やす治療、病気を語る治療を大切にしています。だから、病気や自分のことを語れないのは、まだ練習が足りないとか、センスがよくないと言います。副作用で口が回らないほどの薬を飲んでいる人は、だいぶセンスが悪い、医者のセンスも悪いと言われる。文句があったら、言えるくらいの状態じゃないといけない。じっと我慢したり、文句も言わないのは、自分で自分を助ける助け方としては下手だとか、まずいという考え方なんです。
「病院では精神障害者に対する理解があるけれども、一旦外に出ると地域には偏見・差別がいっぱいある。偏見・差別があるから精神障害者は安心して暮らせないんだ」
一般的に考えられているこの考えを、私たちも持っていないだろうかと問い返してみると、私たちも恥ずかしながらもっていました。これが私たちの偏見だと、逆に考えるようになりました。
「偏見・差別という冷たい風が吹いてきたら、その冷たい風を暖めて返すのがべてるだ」
冷たい風をただ嘆いたり、その行為を批判するんじゃなくて、精神障害のことを知らなければ、普通、差別するのがむしろ当たり前じゃないかと、べてるのメンバーはよく言います。「自分たちも病気になるまでは、この病気のことを知らなかったので、差別していた」、「いや、今でもしているよ。メンバーと自分を比べて、あいつよりはオレの方がちょっといいとか、すぐ比べたがる。偏見・差別なんて簡単にしてしまい、なくならない。あってもいいんだ」と言います。ただ、偏見・差別もきついのは辛い。何でもきついのは辛い。思いやりや善意も、きついのは辛いんですよ。
私たち医療関係者や家族の立揚の人たちは、一生懸命理解しよう、助けよう、優しくしよう、としますが、これがきつい。偏見・差別と同じくらい、きつい。その辺は薄めるセンス、考え方が大事かなと思います。私も、治そう、治そうと必死だった頃は、みんなは少しもよくならなかった。
今は、治す気満々の医者は怪しいと思っています。もちろんよくなるものはよくするけれど、ただ私が一生懸命になれば、全部が変わるわけではない。私自身の役割のわきまえ、限界を持っていないといけないと思います。私が一生懸命がんばると、患者さんも家族もみんなお願いしますと全部私にやってもらおうとします。ますます私は、神のごとく振る舞っていかなきゃいけなくなり、だんだん追いつめられます。
助ける側に回る人たちの経験を思い出していただければ分かると思います。助けてあげよう、治してあげようと思えば思うほど、物事は泥沼の方に入っていく経験は皆さんお持ちでしょう。
治そうとしても正直言って限度がある。私が治すよりもみんなで考えた方が、みんなでやった方がいい。「先生のおかげです」と言って退院していく人で、その後良くなっている人をあまり見たことがない。簡単に言うと、また入院してくる。このような人がどうして長持ちしないのか、ということは考えてみる必要があると思います。
今は、私の役目は、昔から見たらうんと小さい。むしろ、べてるのメンバーの人たち、病院以外の所での助け合う割合がうーんと大きいですから、先生にだけ感謝する人は、センスが不十分というか、まだまだの人だなという評価をします。
物を言わない、苦労を奪われた人たち
精神障害の人たちについて、いろんな側面から語られますが、昔は物言わない人たちです。黙って言うとおりにやりなさいと言われ、そのやり方にきちんと合わせてきた人たちです。治療に逆らわず、静かにしていると退院させてもらえるという中では、感じたり考えたりしない。結果として物を言うことは得なことじゃなかった。特に、何回か入退院を繰り返している人たちにとっては、余計なことは言わない方がいいことを、すぐに学習する。日本語を知っていても話せない。特に、自分のために、自分の気持ちを表現することがとても不自由な状態になってしまっていました。
それと同時に、苦労を奪われた人です。人が人として成長し生きていくために、様々な課題と向き合う、挑戦する。挑戦し失敗してまたチャレンジする苦労のチャンスを奪われてしまう。
病気に悪いから余計なことするなと、まるで立ち上がったら転ぶからずっと寝ていなさいと言われている人のような扱いです。大変濃い配慮をされていた。だから、べてるの合い言葉のひとつに、「自分のことは自分で言おう。ことばを、そして悩みや苦労を増やそう」があります。
過疎がすすむ問題だらけの不景気な町で、精神障害という課題を持ちながら生きていくと、町の中の苦労に、自分たちも、病気の苦労の経験を生かして参加しようとする。町への進出です。しかも、この町を助けようという。町の人が聞いたら、気を悪くするだろうから、ちょっと言えない。障害者から助けるなんて言われると、健常者という人は傷つくことが多い。助けてあげることには慣れていますけど、助けてあげますと言われることには、むっとする。
べてるの家は、何をするために町に進出するのか、どういう問題と取り組むのか。苦労を増やそう、悩みを増やそうということです。必要な悩みや必要な苦労は避けてはいけない、向き合うんだ、ということを大事にしました。その人の力や段階に応じてみんなで取り組む。元気がでる旗印として、「町を救おう」と、内輪の中だけで話してました。
人間関係の障害
精神障害は関係の障害と説明されるときがあります。人間関係がうまくとれない。特に支援をする側と支援をされる側の関係です。支援する側は上の方からの指示的・指導的・管理的なコミュニケーションです。病気のために、あるいは失敗しないために、こうしなさい、こうしてはいけない、などいろいろ指示する。もちろん治療上とか、失敗しないための思いやりがいつもある。だけど、指示や指導をする方は、常にそれは正しいこと、善意だという思いがあるから、自分たちがやっていることにあまり疑問を感じない。
そういう関係の中では、当事者は依存的になり、ことばを使わなくても全部してもらえるので、ことばを使わず、病気を使ったり、爆発的な問題行動に走ったり、間合いをコントロールしたり、依存したりということが起きてしまう。これは、危機のサイクルです。悪循環のサイクルです。
「非援助論」
非援助とは何か。私たちは、管理することや助けるということ、治療も管理的な治療ですが、ここに疑問を持っていた。病気の人を診るよりも、自分たちのやってることって何だろうということに疑問を感じ始めました。
30年くらい前の、当時の精神障害者、当事者は、自分たち自身がどんな悩みを抱えているか知らなかったという人が多い。自分が困っていることって何だろうと、みんなで語ろうとした。「悩み、ある?」と聞くと、「退院したいけど、行く場所がない」と言う。住む場所もないし、仕事もないし、友だちもいない。自分にとって必要なことをやっと語り始めた。
今、べてるの社長、理事長の佐々木さんが30年ほど前、入院中に、ソーシャルワーカーと一緒に語り始めたのが、べてるの第一歩だろうと思います。当時は、一方的に関係者が援助をするわけですが、私たちはそこに疑問を持った。悩みを語る場を提供することは、ただ、してあげるんじゃなくて、本人たちが自分の問題に気づくようになる。このことも大変大事な援助だということです。
そのコミュニケーションを抜きにして、今までは、全部提供して、「はい、用意しましたよ。だから、あなたたちはここを利用しなさい」としてきた。そこに本人たちがいるといっても、あまりに用意されすぎの状況の中では却って与えられたチャンスを生かす力もない状況でした。悩みの中で、苦労して獲得した結果と、用意されすぎた状況の中とでは、その後の結果が違うんじゃないか。私たちは、管理的な医療ではなくて、本人たちが悩みをもつことを大事にする、応援する医療ともいえます。私はあえて、それを、支援型の医療ということばを使います。本人たちは悩み、課題をもっている。病気を繰り返して再入院を繰り返している。ならば自分のやり方をもう一回考えてみるために、本人が自分の課題を研究することを応援、支援していくことも大事ではないかと思います。
今、浦河では、当事者研究が大変盛んです。みんな自分の問題が何なのか、自分の病気はどこがポイントなのか。社会生活はしているけれど何が課題なのか。きちんと自分の問題を整理して、スライドにしてみんなの前で発表する。自分の悩みを、みんなと一緒に見る。1対1で病気に向き合うのとは違います。自分の病気、自分の失敗、自分の悩みが、大きなスクリーンで、ぱーっと写っているときの、本人の誇らしげな顔。オレの病気はあれだ、みたいな自分の問題や病気と向き合うことは、昔では全く考えられなかったことです。
病気というのは、人に知られずにこっそりと静かに治していく、克服していくもの。その結果、何事もなかった人のような顔をして社会で暮らすというのが、最も成功した人のあり方のような気がしていました。自分の病気をぱーっとスクリーンに映すのが、今の浦河での成功したあり方です。
統合失調症の症という文字も、病気の症じゃなくて、一等賞の賞と書いて、統合失調賞と、表彰されたような病名をつける人もいます。みんな誇らしげにみえる瞬間です。症状はひとつでも早く消さなくてはいけないという考え方ではない。この症状とかつてはこう取り組んでいたけれど、今はみんなのアドバイスを受けて、こんなやり方に変えている。その結果、前できなかったことがこんなふうにできるようになった。実にきめ細かく、自分の問題を自分でちゃんと自覚できる。
研究をずっとすすめていくと、5年前の自分はこう考えていたけれど、5年たったらこうなったとか、みんなで客観的に見ることのできる時代になってきた。病気であることが何なのか、べてるは、長い間そういうことをやってきましたが、精神病に対する受け止め方、見られ方も、変わちてきたという感じがします。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/01/26