どもる子どもの自己表現への援助
「スタタリング・ナウ」2008.11.23 NO.171 には、金子書房の『児童心理』に掲載した文章を紹介しています。そのときのテーマは、《子どものためのアサーション》でした。僕が書いたタイトルは、どもる子どもの自己表現への援助 です。
少し長くなりますが、全文を紹介します。
最後に、記したことが、僕の今も変わらぬ思いです。このことを伝えるため、僕は、今年も語り続けたいと思っています。
「どもっていても、大切なことは言わなくてはいけない。そして、それはきっと相手に伝わる」 親や教師はこのことを熱く語りたい。自分の気持ちや思いを大切にし、また相手のそれも大切にして、自己を表現する子どもになってほしい。そうすれば、その子にとって吃音は大きな問題ではなくなり、吃音がマイナスに影響しない生き方ができるようになっていくだろう。
どもる子どもの自己表現への援助
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二
はじめに
「どもる子どもにまだ出会ったことがないんです」
教員生活を十年以上していて、こう言う人に時々出会う。吃音の発生率が1%あることを考えれば、出会っていても気づかなかった、が本当のところだろう。
公立小学校の通級指導教室(ことばの教室)に通うどもる子どもは多いが、ことばの教室で対応できるのは、ほんの一握りだ。教室の存在すら知らず、圧倒的多数の子どもは、通常学級で適切な援助を受けることができず苦戦している可能性がある。親や通常学級の担任ができるどもる子どもへの援助について考えたい。
見逃される吃音
このようにどもる子どもの存在が見逃されるのには二つの理由がある。
①本人が吃音を隠す
吃音は、話さなければ分からない。子どもが吃音をマイナスのものと強く意識していれば、必死で吃音を隠そうとする。すると、無口で消極的な子として見逃されてしまう。また、本人にとっては大きな悩みでも、周りに迷惑をかけるわけではないから教室ではそのまま放置される。いじめがあったり、不登校になって初めて、吃音に悩んでいたと分かることも少なくない。
②教師に吃音についての知識がない
吃音は、「たたたた・たまご」と音を重ねるもので、ぐっとつまって声そのものが出ないのを吃音とは思われないことがある。またどもる場面が人によって違うから分かりにくい。一般的には、緊張するとどもりやすいと思われているから、朗読や発表が得意な子どもを、吃音に悩んでいるとは思わないだろう。家族や友達と遊ぶときの方がよくどもるという子は少なくない。遊びの場でどもるのを真似され、からかわれていても担任は気づかない。
子どもが悩んでいるのを知って親が担任に相談しても、「どもるといってもほとんど気にならない程度ですよ」と言われてしまう。吃音が軽ければあまり問題はないと思われるようだが、吃音の悩みはどもる頻度に正比例しない。むしろ、隠すことができる程度の吃音の子どもの悩みの方が却って深いことがある。
私の体験~吃音否定から自己否定へ
①どもって表現してはいけない
親や教師など大人の不適切な対応が吃音に悩み始めるきっかけになることがある。小学校二年生の時の担任は学芸会で私をセリフのある役から外した。教師としては私が大勢の前でどもるのはかわいそうだからとの配慮だったのかもしれない。しかし、私は深く傷つき、吃音に強い劣等感をもち、つらい学童期・思春期を生きた。
子どもに相談もなく、一方的な思いこみによる教師の浅い配慮が、時として子どもを深く傷つける。私は教師から「どもってはいけない」と突きつけられたことになる。
②吃音を隠し、話すことから逃げる
「どもってはいけない」と受け取った私がどもらないようにするには、話さなければいい。小学二年生の秋から、知っている答えでも全て「分かりません」で済ませ、どもらないようにした。クラスの役割はできるだけ避けた。通信簿には、やる気がない、仕事をさぼる、などと書かれた。私は、だんだんと無口で消極的になっていった。どもるのは仮の私で、治ってからが本当の私だと考え、勉強も遊びもしない不本意な学童期・思春期を送った。どもる自分を否定し、吃音が治ることばかりを考えていた。そして、その苦しみを誰にも話すことはなかった。
自分の気持ちを話さないのだから、親や教師は私への援助のしようがなかっただろう。
どもる子どもへの援助~ゼロの地点に立つ
吃音は、膨大な研究がされながら原因がまだ解明されず、根本的な治療法はない。幼児期どもっていた子どもの自然治癒率は45%程度と言われているが、小学校に入学するまで持ち越した吃音が治ることはあまりない。
・吃音は原因が分からず有効な治療法がない。
・吃音が治っていない人は多い。
・吃音から受ける影響には大きな個人差がある。
どもる事実を認めるには、この三つの事実を親や教師は子どもに率直に伝える必要がある。どもるのは自分だけではなく人口の1%もいること。どもる人は多種多様な仕事に就いて、教師や営業職など話す仕事に就いている人も多いこと(1)。そして、どもりながら豊かに生きている人が多いなどの事実を大人はどもる子どもに伝えたい。
未来への明るい展望をもって、「どもっても、まあいいか」とどもる事実を認めることを、私はゼロの地点に立つという。どもる事実を認めることが、学校生活でもどもりながら、自分のしたいことをし、言いたいことが言えるようになっていく前提になる。
この地点に立つまでの援助が、親や教師の大きな役割であり、それができれば子どもは、徐々に「どもっても大丈夫」と実感していくだろう。このように、吃音と向き合うことなく、学童期を過ごし、思春期を迎えると、不登校や引きこもりなどの原因となることがある。
吃音の正しい情報を知り、治らないという現実に向き合うことが、自分らしく生きていく第一歩である。どもる子どもの親はもちろん、全ての教師が吃音について必要最小限の知識をもっておくことで、不適切な対応を防ぐことができる(2)。
ゼロの地点に立つために必要なこと~自己肯定・他者信頼・他者貢献
①自己肯定
どもる事実を認めて、どもっても話していくためには、まず子どもが、自分の吃音について、自分の気持ちについて学校で話す必要があるだろう。クラス替えの時、自己紹介で、自分の吃音について話し、その後の学校生活が楽になったという子どもは多い。どもることを隠さず、どもって話していけば、どもってでもできないことはないことに気づいていくだろう。
親や教師にできることは、日常生活の中で、どもってもできたという体験を増やすことである。どもって朗読や発表することを後押ししたい。そのとき、大切にしたいのは、子どもが今苦戦していること、たとえば朗読や発表について、どうしたいと思っているのか、本人の気持ちを聞き、話し合うことだ。学校へ行けなくなるほど思いつめている子どもに対しては、本人と相談の上で、一時的に朗読や発表を免除することもあっていいだろう。
また、健康観察の「はい」が言えなければ、ジェスチャーで済ませたり、習得を目指して九九のスピードを競うことがあるが、速く言うことが大切なのではなく、正しく言えればいい、などの柔軟な対応も必要である。クラスの仲間も、これらの対応を認め、どもることを理解するには、家庭でもクラスでもオープンに吃音について話題にすることが不可欠である。どもる子どもがいることで、互いの違いを認め合う授業づくりができれば、クラス全体の意識が変っていく。
②他者信頼
どもる子どもは自分がどもった後の反応がとても気になるものである。私はどもりながら朗読している時よりも、その後の休みの時間がつらかった。どもった私を友達はどう見ているのか、友達の反応がこわかった。どもる自分を肯定するには、どもったときの周りの肯定的な反応がなくてはならない。自分がいくらどもっても大丈夫だと思っても、周りが笑ったりからかったりするクラスだったら、どもってでも朗読しよう、発表しようという気は起こらない。
中には意地悪な子どもがいたとしても、基本的に「私はクラスの仲間が信頼できる」との他者信頼の感覚を子どもがもつには、まず家庭でどんなにどもっても嫌な顔をしないで話に耳を傾けることが必要である。
どんなにどもっても、どもるそのことではなく、話す内容に関心をもって聞いてくれる聞き手がいると、どもる子どもが、家庭や学校で「どもる私を受け止めてくれている」と実感できる。吃音を否定しない聞き手の存在によって、子どもはどもりながらの自己表現ができるようになる。
③他者貢献
自分が、誰の役にも何の役にも立っていないと感じるのはつらいことである。私は吃音を否定し、話さないようにしていたから、クラスの役割を引き受けることはほとんどなかった。無理に引き受けさせられたものにも、まじめに取り組むことはなかった。クラスで役に立っている、クラスの一員であるという意識は、私にも周りにもなかっただろう。
どもる子どもには、できるだけ家庭やクラスで役割を与えたい。当初は嫌がるかもしれないが、役割を担っていくうちに、できなかったこともできるようになる。どもりながらでもできたという実感をもち、自分もみんなの役に立っていると思えることで、自己肯定は確実なものになっていく。
自己肯定、他者信頼、他者貢献はどちらが先ということではなく、家庭やクラスの実情に合わせて、どもる子どもに味わって欲しい。しかし、これは、どもる子どもに特別の配慮をすべきだということではない。この三つは全ての子どもに必要なことだからである。
おわりに~自己表現への援助
私は、どもることをマイナスのものと考えることで、自己表現ができなくなり、自分の気持ちが分からなくなり、ますます自己表現ができなくなるという悪循環に陥った。自己開示ができないから、他人も私を理解できなかった。その悪循環を絶つには、当初は苦しくても、私自身がどもりながら自己表現していくしかなかったのだ。
吃音を笑われたりからかわれたりしたとき、「嫌だからやめて」と言えたら、自分が苦戦をしていることを率直に話せたら、どもっていても私は学童期・思春期にあれほど悩むことはなかっただろうと思う。
どもる子どもへの援助とは、「吃音を治す、改善する」ことではなく、その子どもが吃音と向き合い、吃音と共に生きることへの支援だと言える。
そのひとつとして、アサーションの考え方を知り、自己表現できる子どもを育てることである(3)(4)。どもりながらでも表現できたという経験を積むことである。親や担任教師がアサーティブな生き方を見せることで、子どもにとってアサーションはより身近なものとなるだろう。
「どもっていても、大切なことは言わなくてはいけない。そして、それはきっと相手に伝わる」
親や教師はこのことを熱く語りたい。自分の気持ちや思いを大切にし、また相手のそれも大切にして、自己を表現する子どもになってほしい。そうすれば、その子にとって吃音は大きな問題ではなくなり、吃音がマイナスに影響しない生き方ができるようになっていくだろう。
参考文献
(1)水町俊郎・伊藤伸二『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』ナカニシヤ出版、2005
(2)伊藤伸二『知っていますか?どもりと向きあう一問一答』解放出版社、2004
(3)石隈利紀・伊藤伸二『やわらかに生きる 論理療法と吃音に学ぶ』金子書房、2005
(4)平木典子・伊藤伸二『話すことが苦手な人のアサーション どもる人とのワークショップの記録』金子書房、2007
(『児童心理~特集子どものためのアサーション~』金子書房2008年5月号より)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/01/07