第8回ことば文学賞 

 7月に入って、吃音親子サマーキャンプの会場である荒神山自然の家との打ち合わせ、東京での「ぼくのお日さま」の試写会、「スタタリング・ナウ」7月号の編集と、バラエティに富んだ日々が続き、気がつけば、明日からサマーキャンプの事前レッスンです。親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会も、目前に迫ってきました。
 さきほど、「スタタリング・ナウ」の入稿を済ませ、ちょっとほっとしていますが、明日からの事前レッスンの準備もしなければいけません。
 さて、今日は、「スタタリング・ナウ」2006.2.25 NO.138 に掲載していることば文学賞の作品を紹介します。
 NPO法人大阪スタタリングプロジェクト主催のことば文学賞もこの年、8回目を迎えました。ことばを通して、吃音について、人間関係について、生きるということについて、書き記していこうというこの試みは、僕たちの活動の大切なひとつになっています。2006年2月17日の大阪吃音教室は、受賞作品の発表の日でした。
 30名ほどの参加者の前で、全作品が読み上げられ、ひとつひとつの作品に感想が述べられ、選考委員からはコメントが出されました。ひとつひとつの作品に、その人の人生が刻み込まれています。11人の人生に一度にふれることのできる、僕にとって、またとない幸せな時間になっています。事情によって、外部に選考をお願いできなかったので、僕が、選考委員を引き受けました。力作ぞろい、それぞれが率直に自らの人生を綴り、興味がつきませんでした。

《最優秀作品》
   隠していた頃
                 堤野瑛一(大阪府、27歳、パートタイマー)
 何かと、隠しごとの多い子どもだった。ボテボテと太っていて、目は腫れぼったく、口はいつも半開きで表情に締まりがなく、髪にはいつも寝癖がついていた。そんな冴えない風貌だった僕は、生来の内気な性格も加わって、学校でお世辞にも一目置かれる存在ではなかったし、周りの人間の僕に対する扱いも、それ相応なものだった。しかし、見た目以上に僕は、人には言えないさまざまなコンプレックスを抱えていた。
 僕は、小学3年生くらいの頃から、チック(トゥレット症候群)の症状が表れて、よく顔をゆがめたり、首をビクビクとふったり、鼻や喉をクンクンとならしていた。チックを人に知られたくなかった僕は、できるかぎり、人の前では症状を我慢していたのだけど、我慢にも限界がある。自分では症状が人の目に触れないように最善を尽くしているつもりでも、やはり気づく子は気づいていたし、何度か友達に指摘もされた。「何でそんなんするん?」と訊かれるたび、「ああ、最近首が痛くて」とか「鼻の調子が悪いねん」と、その場しのぎなことを言い、笑ってごまかしてきた。ある時教室で、症状を我慢しきれなくて、誰も見ていないことを確認し、顔を引きつらせながら首をガクガクと思い切りふり乱した。しかしふり返ると、クラスではアイドル的な存在だったひとりの女の子がじっと見ていて「頭おかしいんちゃう?」と真顔で一言つぶやいた。僕はその子に特別興味をいだいていたわけではなかったのだけど、その言葉は深く突き刺さった。しかし何ごともなかったかのように振るまい、ショックを押し殺し、自分の傷を見ないようにしていた。残念なことに、僕には当時チックの理解者がいなく、親にはチックの事を責められ、担任の先生にも煙たい顔をされたりで、チックの辛さというのは、僕ひとりの中だけに押し込められていた。また、他人に、自分がチック症という名前のついた病気があることをいつ悟られるかとビクビクし、教室のどこかで誰かが「畜生!(ちくしょう)」と言ったり、「ロマン“チック”」とか、チック症に似た言葉を言っているのを聞くたび、ドキっと心拍数があがり、冷や汗が出た。
 抱えていた悩みはチックだけではなかった。当時の僕は、相当な精神的な弱さからくる、慢性的な腹痛に悩まされていた。授業中の張りつめた空気、トイレに行けないプレッシャーから、毎時間、お腹が痛くなった。テストの時間などは最悪だった。そして、休み時間のたび、友達から隠れてこそこそとトイレに行った。もしも大便用個室で用を足しているのを同級生に見つかり、からかわれるのが怖かったため、万全を期してわざわざ別の校舎のトイレまで行っていた。学校での腹痛を防ぐために、毎朝、登校前には、長時間トイレにこもった。今ここで一生分の排泄物を出し切ってしまいたい…! そう願いながら。また、たいていの子どもにとって、遠足といえば楽しいものだけど、僕には恐怖だった。学校にいる時以上に、トイレの自由がきかないから。も…もれるっっ…、一体何度、その窮地に立たされ脂汗をかいてきただろうか。結果的に一度も“おもらし”をせずにすんだのが、奇跡的と思えるくらいだ。
 まだある。僕のヘソは出ベソで、そのことを、小・中学校にいる間中、ずっと隠し通していた。もしも出ベソがばれたら、からかいの対象になることは目に見えていたからだ。身体測定でパンツー枚になる時など、パンツはいつもヘソよりも上まであげて隠していた。太ってお腹が出ているせいで、しょちゅうずれ落ちてくるパンツを、引っ切りなしに上げ直していた。あまり上まであげるものだから、いつもパンツはピチピチしていて、股の部分は吊り上げられ、今思い返すと見るからに不自然だった。水泳の時間なども、いつも意識は出ベソを隠すことに集中していた。
 他にも、男のくせにピアノを習わされていたことや、誰もが持っているゲーム機を持っていなかったこと…人に知られたくないコンプレックスはたくさんあった。見た目もデブで不細工、くわえて運動音痴、これといって人目をひく取り柄もない。たびたび自分のことを遠くから見ながら、チックの症状を見てクスクスと笑っている女子たちに気づいたこともあった。そんな経験もあって、今でもどこかでヒソヒソ声やクスクス笑う声が聞こえると、自分のことを笑っているように思えてしまう。コンプレックスのかたまり…僕は本当にそんなだった。
 しかし僕は、そんな劣等感のさらに奥深くで、人一倍、自尊心も強かったように思う。どれだけ人からからかわれても、笑われても、大人たちがまともに相手にしてくれなくても、決して自分を卑下することはなかった。「くそ、自分はそんな馬鹿にされた人間ではない。自分にはきっと価値がある」そんな思いが強かった。劣等感と自尊心、一見そんな対極に思えることが、僕の中にはたしかに混在していた。いや、劣等感と自尊心は対極なのだろうか? 自尊心が強いから劣等感をもつ、劣等感が強いから自尊心に火がつく、卵が先か鶏が先か…そんなことは分からないけれど、とにかく両方あるから、自分を変えようとする原動力になる。
 中学生になった頃、僕は自分の容貌の悪さをさらに強く意識するようになった。これでは駄目だ、痩せよう…! そう思い立った。朝食は抜き、昼食はおにぎりかパンをひとつだけ、間食は控えて、夕食もそれまでの大食いをやめた。そして、毎晩、体重計に乗った。日に日に体重が落ちるのが楽しくて、食べることよりも、体重が減っていく達成感のほうが、快感だった。中学二年の頃には、ずいぶんとスマートになっていた。並行して、以前は親から与えられた衣服をそのまま着るだけだったが、自分で洋服を選ぶようにもなり、髪もいじるようになった。また、鏡を見るのが大嫌いだったけど、よく鏡を見るようになった。すると、それまでは半分しか開いていなかった力のない目も、自然とくっきり開いてくるし、ゆるんでいた口元も絞まる。
 また幸運なことに、クラスの同級生にたまたま、自分以外にもうひとり、しょっちゅう大便用個室に行く男の子がいた。「緊張すると、すぐお腹痛くなるんよなー。」その子は恥じらう様子もなく、いつも堂々と、チリ紙を持ち個室へと入って行った。自分ひとりではない、仲間がいる! 僕は嬉しくてたまらなかった。それ以来、その子に便乗して、「あー、またお腹痛いわ」とか冗談混じりに言いながら、人目を気にせずトイレに行くようになった。授業中に「先生、お腹痛い、トイレ!」と大声で言い、笑いがとれるようになるほど、吹っ切れた。
 そんなこともあり、自分の見た目にも以前のようなコンプレックスはなくなり、僕は徐々に明るく活発になった。そうなると、自然につき合う友達のタイプも、活発なタイプに変わってきた。もしも、以前の見るからにコンプレックスのかたまりのようだった僕が、隠れてコソコソとトイレに入って行くところを誰かに見られたら、たしかにからかわれただろう。でも、自分に自信がつき、堂々とトイレに入っていけば、誰もからかわない。出ベソを見られたって、誰も馬鹿にはしなかった。小・中学校は、ずっと地元の公立で、昔から知っている者どうしだったけど、中学も卒業し、高校に行けば、誰も僕が昔あんなだったとは、想像もしなかった。チック症のことは、おそらくたびたび、「ん?」と変に思われることもあったのだろうけど、そのことで日頃から馬鹿にされたり、とりたてて何か訊かれることもなかった。
 “変えられることは変えよう、変えられないことは受け入れよう”…太っていることは努力で解決出来た。腹痛や出ベソそのものには、対処できない。だから自分の持ち前だと認めて、隠すのをやめた。気持ちに余裕ができると、結果的に慢性の腹痛は、徐々に軽くなっていった。チックのことも、自分ではそんなに気にならないようになった。もう自分には、これといったコンプレックスは何もない…そう思っていた。
 高校二年になったころ、僕はどもり始めた。それまでは何ともなかったのに。初めは、そのうちなくなるだろうと楽観的だったのだけど、だんだんと慢性化していった。「おかしいな…」そして気がつけば、いつしか、どもりを隠している自分がいた。会話でどもりそうになると、たとえ、話が支離滅裂になってでも、どもらずにすむことを言ってごまかした。自分がどもることを知られたくない…かたくなにそう思って、隠して、隠して、隠し続けた。どもることを受け入れられず、そして、どもることを隠すがゆえに、自由がきかなくなった。まただ、こんなはずではなかったのに…。
 …あれから、もう10年が過ぎた。あまりに、いろんなことがありすぎた。
 僕は、数年前から、大阪の吃音教室に参加している。そこで、豊かに生きるためのヒントとして、“変えられることは変えていこう、変えられないことは受けいれよう”ということを学び、共感した。僕は中学生の頃、それを体験的に知っていたはずなのに、どうしてまたあの時、どもることを隠してしまったのだろう。「先生、お腹痛い、トイレ!」とか言ったのと同じように、「俺、めちゃくちゃどもるわ!」とか言って、みんなを笑わせてやる選択もあっただろうに。でも、当時はそれができなかった。どもることを、受け入れられなかった。
 今は、多くのどもりの仲間に恵まれ、たくさんの人の考えや体験に触れ“どもりながらでも、豊かに生きられる。どもる事実を認めて、どもりと上手につき合おう”と、前を向いて歩いている。どもりの悩みの真っただ中にいた頃は、自分の未来像なんてまったく描けず、ただただ真っ暗闇だったけれど、今は着実に、明るい道を歩んでいる。僕は、どもる人間だ。どもる人間が、どもりを隠そうとしたのでは、何も出来ない。たしかに、どもりは不便なことが多い。でも、どもることが理由で出来ないことなんて、本当は少ないんじゃないだろうか。ずいぶんと遠回りをしてしまったけれど、どもることが原因で一度は不本意にあきらめたことを、これからじっくり、やり直していきたい。どもりと上手につき合いながら。

◇◆◇選考委員コメント◇◆◇
 当時は、話すことさえできないほど嫌だったことでも、年月がたてば、口にすることもできるし、文章に書くこともできる。作者は、書くことを通して、当時の自分に出会っていたのではないだろうか。隠したいコンプレックスが次から次へ、これでもか、これでもかと出てくる。羅列しているかのようにみえて、実はそうではない。一つのテーマにしぼっているので、ひとつひとつのエピソードにつながりがあり、ばらばらではない。読み手をわくわくさせ、次はなんだろう? もっとないの? とさえ思うくらい、読む気を起こさせる。当時は、きっと深刻であったろうことをユーモアを交えて書いている。これは、作者の生きやすさと連動しているようだ。(つづく)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/07/12

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