中学校、最後の同窓会に行ってきました

 先週の土曜日、10月28日、三重県津市立西橋内中学校の同窓会があり、これが最後の同窓会だと案内されていたので、行ってきました。
 小学校2年生の秋の学芸会での担任の対応で、それまでどもっていても、元気で明るく活発だった僕が、どもりの悩みの中に入っていったことは、何度も話したり書いたりしてきました。吃音に劣等感をもった生活は、当然、中学校、高校まで続きました。その中学校の同窓会です。何のいい思い出もないはずの中学校生活でした。それが、こうして同窓会に行ってみようかと思わせてくれたのは、「新・吃音者宣言」の本の書評を芹沢俊介さんが月刊「エコノミスト」(毎日新聞社)に書いてくださったのを偶然見た同級生が強引に僕を引っ張り出してくれたおかげでした。このことも、よく話したり書いたりしています。
 もうひとつ、中学校生活といえば、夏休み、発声練習をしていた僕に投げかけられた母のことば「そんなことしたって、どもり、治りっこないでしょ!」がありました。そのときから、僕と母の関係は悪くなり、映画館に入り浸っていました。その母との関係も、大阪の新聞配達店に住み込んでの浪人生活の寂しい生活の中で、基本的に愛されていたという確かな思い出から、母への恨みは消えていきました。確かな思い出とは、童謡の「動物園のらくださん」です。今年の島根キャンプでも、その話をして、童謡を歌いました。母親に愛されたという証拠なのです。

 同窓会は、これまでに亡くなった同窓生への黙祷から始まりました。会場の壁に、亡くなった人の名前が貼られていました。60名の名前があり、僕が覚えている人の名前も少なからずありました。同窓生は300人。今回、参加している人は、60名でした。みんなそれぞれに、これまで生きてきた年輪を思わせる風貌になっていました。コロナの影響を受け、この4年間、同窓会ができなかったので、本当に久しぶりでした。

 僕は本当に何も覚えていませんでした。話す場面に出ていかなかったし、友だちとつきあうこともなかったし、勉強もした記憶がありません。ただただどもりを恨み、どもりに悩んでいました。でも、何人もの人が、僕のそばに来て、「伊藤、おまえは足が速くて、いつも負けていた」とか、「一緒によく映画館に行っていたから、おまえと俺の二人は、先生によく怒られたな」とか、思い出話を聞かせてくれました。近所に住んでいたという人が何人も話しかけてくれ、その人たちは、僕がかなりどもっていたことも覚えていました。そんな昔のことを事細かく覚えているなあと感心するばかりです。ところが不思議なことに、同窓会が終わろうとするころになって、名札の名前と、子どもの頃のその人の顔が、なんとなく浮かんできました。その人のところに再度行って「思い出したわ」と伝えると、「そうやろ、しんちゃんやんか」と笑顔になっていました。一気に距離が縮まりました。
 友だちは一人もいないと記憶していたのですが、みんなの輪の中で、確かに僕は存在していたのだということを確認することができました。あの頃は、見えていなかったことなのでしょう。友だちもいなくて、ひとりぼっちだったというのは、僕の思い込みだったのでしょうか。ある面、それは真実で、そう思わせるような日々が続いていたことには違いありません。

 多くが79歳なのですから、病気の話、からだが弱ってきた話など、話は尽きませんが、閉会の3時が近づいてきました。正午から始まって3時間弱、ゆったりとした時間が流れました。やはり、故郷はいいものです。参加していた人は、それなりに元気そうなので、最後の同窓会だと念押しをされても、二年後に開催されそうな雰囲気でした。二次会もしませんと宣言され、本当に最後なのでしょう。寂しい思いが広がっていきましたが、もう再び会うことのない人たちに、別れを告げて会場を後にしました。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/11/04

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