また、歩き始める
今日、紹介するのは、「スタタリング・ナウ」2016.1.20 NO.251 です。
このとき、僕は、『これまで以上に「どう生きるか」を考えなければならない。「吃音哲学」の構築を目指して、また私たちは歩き始める』と書いています。それから10年、吃音の臨床を巡る世界はさらに混沌としているように思えます。その状況の中では、どもる人が何を選択するか、どう選択するか、主体性が問われています。その力を、学童期から養っていきたいものです。
今日は、まず、巻頭言からです。
また、歩き始める
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二
「内定がなかなかとれないので、障害者手帳を取得したいが、どこに行けばいいでしょうか」
就職活動に苦戦しているという大阪の女子大学生からの電話に、「就職活動で、苦戦をのりきった先輩がたくさんいます。大阪吃音教室で一緒に考えませんか」と提案したが、「結構です」と電話が切れた。障害者手帳を取得することで頭がいっぱいで、情報のない私には用がなかったのだ。
「吃音の35歳の青年が、障害者手帳をもっていて、障害年金の申請をしてきました。前例がなく、どう対応すればいいか。面談では、吃音がそれほど生活の障害になっているとは思えなかったのですが、吃音とはどのようなものでしょうか」
市役所の年金担当者からの相談の電話である。
私の開設する吃音ホットラインには、毎日ほど電話がかかってくるが、この二つのような電話は初めてだった。
1965年の秋に、どもる人のセルフヘルプグループ言友会を創立して、吃音と徹底的に向き合い、体験を整理する中で、吃音が問題ではなく、吃音を否定することから起こる、マイナスの影響が問題なのだと理解した。「吃音が治ったら、改善されたら」との考えから脱却するために、「吃音を治す努力の否定」を提起し、言友会の創立10年目に、吃音と共に生きる覚悟を、自らにも社会にも宣言する「吃音者宣言」を採択した。大勢のどもる人の苦悩の体験と、10年の年月をかけてやっとたどりついた到達地点だった。
1994年、私は事情があって、長年全国組織の会長を務めていた言友会から離脱した。それから20年以上が経ち、古巣である言友会と、どもる人のセルフヘルプグループの大阪スタタリングプロジェクトの大阪吃音教室や日本吃音臨床研究会とは、吃音についての考え方にとても大きな隔たりができてしまった。言友会は障害者認定や、「吃音を治す、改善する」に大きく舵をきったように、私には思える。
言友会を離れて私たちは、吃音を否定することによって起こる、マイナスの影響をいかに少なくするかに取り組み、精神医学、臨床心理学、社会心理学、教育学、演劇など様々な分野から、学んできた。その中で、日常生活の苦労があっても、どもる事実を認め、人としてすべき努力をすれば、ほとんどの仕事に就けることを、数千人以上のどもる人と直接会った経験から、実感している。
「そんなにどもっていて、市民の命が守れるのか、消防学校の時代に吃音を治せ」と言われた藤堂雅貴さんが、苦しみながらも消防学校を終えて、今、消防士として充実した人生を送っている。
面接でひどくどもり、「こんなにどもっていて、教師になれるのか」と心配された佐々木和子さんも、最初の5年ほどは苦労したそうだが、立派に教師生活を全うした。
私が出会ってきた、様々な仕事に就き、豊かに生きているたくさんの人たちと、障害者手帳を取得したいと願う人や障害年金を申請する人とは、どう違うのだろうか。少なくとも、いわゆる吃音の症状の重い、軽いとは関係ないようだ。
障害者と認め、公的支援を受けて生きるのも、その人がそれしかないと考えるのであれば、一つの選択肢だろう。ひとつの選択肢が増えたことは、吃音に悩む人にとっては喜ばしいことかもしれないが、どう選択するか、どもる人の主体性がこれまで以上に問われることになるだろうと思う。
常にどもる人の声に耳を傾け、どもる人の人生に役立つ研究を貫いた水町俊郎・愛媛大学教授が長年の吃音研究、どもる人の悩みに向き合った結果、到達したのが「吃音を受容して生きる」だった。亡くなる3か月前の3時間ほどの吃音談義が忘れられない。私たちと対峙していた「吃音を治す・改善する」の考えや実践に加えて、「吃音を障害と認めて、公的支援を受けて生きる」の選択肢が増えたことを、水町先生はどう考えるだろうか。吃音について、まだまだ、たくさんのことを一緒に考えたかった。
私の50年の活動の中で、考えもしなかった状況が訪れた今、これまで以上に「どう生きるか」を考えなければならない。「吃音哲学」の構築を目指して、また私たちは歩き始める。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2026/04/07

