悩む力

 最近、僕の開設する吃音ホットラインに、相談の電話が増えました。ホームページを見て、僕にたどり着いてくれたことをうれしく思い、丁寧に話を聞いています。学年が上がるにつれて、発表したり、リーダーをしたりする機会が増えて、どもることが気になってきたという小学生、就活をなんとか終え、今、研修中で、これからうまく仕事をしていけるのだろうかと心配になってきたという若い人、就職を考える時期になり、自分の吃音と向き合いたいと思うようになった大学生など、新学期、新年度を迎え、新しい環境への不安をもつどもる人からの電話です。
 僕も、小学校6年生のときには、中学校生活が始まったら自己紹介があるだろうと心配していたことを、今となっては、なつかしく思い出します。
 吃音の悩みから解放された21歳の夏までは、吃音に限らず、何かに悩むことは、情けないことだと思っていました。いつも明るく元気でいることがいいことだと思っていました。でも、とことん悩むこと、悩みきることが、人間としての力につながるということを吃音を通して教えてもらいました。悩みと正面からぶつからず、逃げて、何かで紛らわせるのではなく、悩みと向き合い、悩み切ると、今度は、悩みの方が、次に何をしていけばいいのか、生きる方向を指し示してくれるのです。「悩む力」、このことばに、僕は勇気をもらいました。
 金鶴泳さんの『凍える口』との再会に際し、書いた巻頭言を紹介します。「スタタリング・ナウ」2004.8.21 NO.120 です。

  悩む力
                    日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 金鶴泳に再び出会うことができた。
 最初に『凍える口』を読んだ30年前とは、時代も変わり、私自身も変わったが、金鶴泳は当時のままに私の前に現れた。なっかしい時代と、なつかしい人に出会えたという感じがする。
 今の時代に、これだけ吃音に悩むことができる人がいるだろうか。吃音にこれだけ向き合える人がいるだろうか。かつて同じように吃音に悩んだ戦友に出会えた思いだった。
 吃音に悩んだ私たちのあの時代、40年前には金鶴泳や私だけでなく、吃音に悩む多くの人が、ただ吃音が治ればいいと漠然とした願望をもつだけでなく、本気で吃音を治したくて、実際に治すために必死の努力を続けた。
 私は4か月集中して、呼吸練習や発声練習、上野公園の西郷隆盛の銅像の前や山手線の電車の中での演説、街頭練習など厳しい訓練に取り組んだ。金鶴泳も、日記によると、何年も呼吸練習や発声練習を続けている。
 よりよく生きたいという、森田療法でいう、「生の欲望」があり、それを阻むものとして「吃音」があったがために、治す努力にエネルギーを注ぐことができたのだろう。しかし、その治すための努力を続けることが、かえって吃音へのとらわれを深めたことになったのだが、そうでしか生きられない私たちがあったのだった。青春のほろ苦い一ページだった。
 ニュースレターの交換でしかおつきあいはないのだが、アサーティブ・ジャパンの牛島のり子さんから、「夫が金鶴泳の『凍える口』を出版します」というお便りをいただいた。出版されたら是非『スタタリング・ナウ』で紹介をしたいと返事を出すと、今度は、夫の文弘樹さんから、刊行する本の折り込みの冊子に「金鶴泳の作品に寄せて」の文章を書いて欲しいと依頼を受けた。
 喜んで引き受けたものの、一読者として文学作品を気楽に読むのと、読後感を書くことを前提に、それも本の刊行とともに公開されるという前提で読むのとは、読む気合いが違ってきた。また、30年のその後の私の吃音人生を通して読むことにもなるわけだから、正座をして読む感覚で、金鶴泳に向き合っていた。
 金鶴泳は、これでもか、これでもかとどもることの苦悩をさらけだしていく。あのように吃音に悩んだからこそ、自分を、そして生きることを見つめ、それが文学として結実していったのだろう。
 悩みから逃げて、何かで紛らわせるのではなく、悩みと向き合い、悩み切る。すると、悩みが、次に何をしていけばいいのか、生きる方向を指し示してくれる。金鶴泳には、自分の吃音の苦悩を作品として書き切ることを、長い孤独の生活を生きた私には、人とつながるセルフヘルプグループを設立することを示したように。
 悩みに向き合い、しっかりと悩む中から、悩みが指し示してくれるものはひとりひとり違うだろうが、自分自身を新しい地平に立たせてくれる。
 私はセルフヘルプグループの活動によって、金鶴泳は小説を書くことによって、吃音の悩みから解放された。看護専門学校の校長・鈴木秀男は、精神科医の森山公夫との対談でこう紹介している。

 「金鶴泳という小説家がいるんですが、かれはひどい吃りであったというんですね。ところが、自分の吃りの体験を小説に書いたところ、吃り自体は治らなかったのだけれど、吃りが苦にならなくなったといっているんですね。そうすると、吃ることが苦しいのではなくて、吃ることをいろいろと思い煩うこと、つまり、吃りを病気というふうにとらえるなら、吃ったら困るなとか自分が吃ることをできるだけ他人に隠したいとか、そういう吃りについて思い悩むことが病気なんじゃないか、ということになる。吃る体験を作品として書いたことによって、吃ってもいいじゃないかという気持ちになったというのですね。
 ~後略~『心と“やまい”』森山公夫 三一書房

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/04/16

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