「広報ねやがわ」の〈ひと物語〉に掲載されました

 寝屋川市の広報の方から、「広報ねやがわ」の〈ひと物語〉に掲載したいので、取材したいと連絡がありました。自宅で90分くらいの取材を受けました。90分ほどでは収まりきらない79年の人生ですが、改めていろいろなことがあったなあと思い返していました。たくさんの人、たくさんのできごとに出会い、支えられてきたことを実感しました。取材の後、雑談をしていたとき、読売新聞で僕のことを8回シリーズで紹介した文化部の記者森川明義さんと、その方が読売新聞福井支局時代の同僚だったとわかり、それもまた不思議なご縁でした。
 広報が寝屋川市民に配布された直後、同じマンションの15階に住む、名前は知らないけれどよく立ち話をする人から「広報に載ってたね。びっくりした」と声をかけられました。顔をまじまじと見て「写真と同じ顔や」とも。また、妻の寝屋川市の小学校の教師時代の同僚や教え子からも、「広報、見ました」と連絡がありました。ひょんなことで、互いの近況を知ることにもなったようです。

 「広報ねやがわ」令和5年11月号 2023年11月 No.1448に掲載された〈ひと物語〉vol.84を紹介します。

日本吃音臨床研究会会長 伊藤伸二(いとう しんじ)さん(79歳、打上高塚町)
  「正しく理解し心豊かに」吃音と共に生きる

 言葉がスムーズに出ない吃音(きつおん)から逃げてきた思春期を乗り越え、自助グループの設立や国際大会の開催に心血を注いできた伊藤伸二さん。「どもりはどう治すかではなく、どう付き合っていくかが大切です」と呼びかけてきました。

学芸会の配役で吃音意識
 吃音は3歳の頃からありましたが、意識したのは三重県津市に暮らしていた小学校2年生の学芸会でした。出し物は「浦島太郎」。明るくクラスの副委員長も務めた伊藤さんは主役級の役を期待しましたが、割り当てられたのは村人で、せりふも一言でした。「先生の配慮だったかもしれませんが、このときから強い劣等感を持つようになりました」。
 つらい学校生活が続きましたが、高校生のときに東京の有名な矯正施設を知りました。「ここに行けば吃音が治り、人生も変わる」。そう信じ、親元を離れて大阪市内の新聞配達店に住み込み、学費を稼いで二浪の末に明治大学へ。夏休みの1か月間、矯正施設の寮に入りました。

仲間との出会いが転機に
 「ゆっくり歌うように話せばどもらない」と午前は呼吸法や発声の訓練。午後は道行く人に「警察署はどこですか」と話しかけました。
 「こんな方法で治るのか」と疑問を持ち始めた頃に同じ悩みを抱える女性と知り合い、「どもりながらも話ができるのがうれしく、しっかり聞いてくれる喜びを感じました。この出会いがターニングポイントになりました」。

「治すことにとらわれず」
 仲間11人と自助グループ「言友会」を結成し、会長に次ぐ幹事長に。発声練習なども行いましたが、それ以上に交流の輪を広げるサークル活動を重視しました。
 当初の吃音を治す会から徐々に脱皮。導き出したのは、「治すことにとらわれず、吃音と共に生きていくことでした」。大阪教育大学で言語障害児教育を学び、講師になった年の言友会創立10周年大会で「どもりだからと自分の可能性を閉ざしている固い殻を打ち破ろう」と全国の仲間に呼びかけました。

国際大会の夢実現
 大のカレー好きが高じ、36歳のときに大学を辞めてカレー専門店を大阪市内に開店。「いずれはチェーン店にして仲間のたまり場にしたいと思いました」。その願いはかないませんでしたが、国際大会の夢を実現しました。カレー店を拠点に約2000万円の開催費用確保に奔走。昭和61年8月、京都市で開かれた第1回吃音問題研究国際大会には11か国から約400人が参加し、海外の吃音の人たちと思いを分かち合いました。

 第1回大会の4年後に始まり、今年で32回目となった吃音親子サマーキャンプには延べ3400人を超す親子が参加。『どもる君へ いた伝えたいこと』など多くの書籍をとおして「吃音との共生」を呼びかけ、来年、30周年を迎える日本吃音臨床研究会のホームページもリニューアルしました。大阪教育大学の教え子という妻の稚佳子さんと二人三脚で活動してきた伊藤さんは「吃音と共に豊かに生きている人々がいることを、今後も発信していきたい」と話します。
 写真メイン 伊藤伸二さん
 写真サブ 京都市で開かれた第1回国際大会。自助グループ設立時からの夢をかなえました

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/11/7

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