吃音と発達障害

 今日、紹介するのは、「スタタリング・ナウ」2016.2.22 NO.258 に寄稿いただいた松田博幸さんの「吃音と発達障害」です。松田さんとの出会いは、九州大学の高松理さんに紹介されて一緒に参加した、1995年の大阪セルフヘルプ支援センターの第一回のセミナーの時でした。すぐに仲間に入り、セミナーや研修会や合宿でたくさんのことを話しました。そして大阪セルフヘルプ支援センター編集の『セルフヘルプグループ』(朝日厚生文化事業団)を一緒につくりました。
 吃音とは何の関係もない松田さんが、今回、発達障害と吃音をからめて、分かりやすく、論考をすすめてくださいました。吃音が発達障害に含まれ、発達障害者支援法の対象になったということが、私たちの生きる意味とどう関係しているか、「ラベル」「リカバリー」「名付け」「名乗り」などのキーワードを使い、国内外の文献を紹介しながら、説明してくれています。
 松田さんとのつながりは今も続いています。毎年、大阪公立大学の松田さんの講義に、僕はゲストとして呼んでいただいています。そこでの学生たちとのやりとりは、僕を刺激し、毎回、新しい気づきを得ています。

  吃音と発達障害
               松田博幸(大阪府立大学地域保健学域教育福祉学類教員)

◆どのように考えればよいのか

 吃音が発達障害に含まれるのかどうかが議論になっているということを知った。一見すると、そういったことは純粋に科学的な議論であるように見える。しかし、ほんとうにそうなのだろうか。人のある状態が「疾患」あるいは「障害」(この場合の障害は機能障害を指す。以下同じ)であると判断することを、純粋に科学的なことではなく、政治的なこととしてとらえた方がよい場合がある。
 政治とは、ある人たちに関することを関係者たちが決める過程である。そのような過程は当事者間の力関係を通して展開されることが特徴である。そして、「ある人たちに関すること」には方針だけではなく、ある人たちが何者なのかということも含まれる。ある人たちの状態をどのように定義するのか、その人たちが何者なのかを決める過程も政治であり、そういった定義は人びとの力関係を通して定められる。石川准が「『名付け』と『名乗り』のポリティックス」(石川2004:246-255)と呼ぶ過程である。
 たとえば、人のある状態が精神疾患かどうかを判断する際の基準の一つとしてアメリカ精神医学会の作成するDSM(『精神疾患の診断・統計マニュアル』)があるが、改訂のたびに、カテゴリーが削除されたり、新たなカテゴリーが登場したりしている。それらがなぜ削除されたのか、あるいは、登場したのかを調べてみると、その理由が政治的なものであることが見えてくる(カチンス&カーク 2002)。
 岡知史は、セルフヘルプ・グループは「主題定義・選択の主体性」をもつとしている。セルフヘルプ・グループは、「何をわかちあうかということを、完全に本人たちの方で決めることができる」(岡 1995:326)という特徴をもっているとされる。そのように考えれば、セルフヘルプ・グループにとって、自分たちの状態をどのように定義するのかは、非常に重要なことがらとなる。
 社会学において、ある人たちが自分たちで創り出した自分たちの呼び名を「自己執行カテゴリー」と呼ぶが、好井裕明によれば、自分たちに関するカテゴリーを自分たちで創造し、それらを自分たちにあてはめる行為は、外からのカテゴリー化に対抗するせめぎあいであり、「〈外〉からの抑圧をはねのけ「自分」「われわれ」といった存在を〈内〉からまるごと承認し正当化していく具体的な行為」(好井 1991:127)であるとされる。呼び名(カテゴリー)を決める行為は、自分あるいは自分たちがこの社会において存在してもかまわないのか、そうではないのかをめぐる行為なのである。
 このような「名付け」や「名乗り」の問題は、ある人(たち)にとって、損をするのか得をするのかという問題であるだけでなく、自分(たち)が社会のなかで尊厳をもって生きていくためには自分(たち)のことをどのように考えればいいのかという問題でもある。そして、自分(たち)はどんな人たちとどのようにつながることができるのかという問題でもある。自分たちとは何のつながりもないと感じていた人たちに対して、自分たちの定義が変わることで、自分たちとの接点を見出せるようになることがないだろうか。定義によって孤立することもあれば、定義によって人びととのつながりが生まれることもある。
 吃音を発達障害に含めることが正しいのかどうなのかという議論に陥ってしまうと、以上のような大切な論点が見落とされてしまうように思う。それが正しいかどうかよりも、本人(たち)にとってどのような意味をもつのかを考える必要があるのではないだろうか。

◆ラベルからの解放とリカバリー(回復)

 ラベリングをめぐる問題、つまり、「名付け」や「名乗り」の問題はあらゆる人たちに関わる問題であるが、いわゆる精神疾患をもつ人たちの場合、かねてよりこの問題をめぐって議論が重ねられ、関連する活動や運動が展開されてきた。吃音と発達障害との関係を考える際にそういった議論や活動・運動が参考になるかもしれない。

 北米においては、1960年代以降、精神医学によるラベリングの問題に焦点があてられるようになり、当事者運動を展開している人たちやそれを支持する人たちの間で、精神医学によるラベリングに対する批判的な考えが蓄積されてきた。精神疾患というのは社会的に構築されたラベルに過ぎないのではないかという考え、そして、そのようなラベルを自覚し、それから解放されることが大切なのではないかという考えである(チェンバレン 1996 第5章参照)。北米において、とくに当事者の間で、「精神疾患というラベルを貼られた人たち」(people labeled with mental ilness)あるいは「精神障害というラベルを貼られた人たち」(people labeled with psychiatric disabilities)といった言葉は一般的に用いられている。
 そして、重要なのは、そのようなラベルを自覚し、それから解放されることによって、リカバリー(回復)がうながされるとされている点である。

 かつて、アメリカのナショナル・エンパワメント・センターは、精神疾患だとされた人たちのなかのリカバー(回復)した人たちについて、なぜその人たちがリカバーしたのかを調査した。その結果、5つのことがらがリカバリーにとって重要であることが浮かび上がってきた(注1)。その1つが、リカバリーのためのアイデンティティをもっていることであった。その説明においては次のように述べられている。「われわれは、精神病患者のバラバラに砕かれ、孤立したアイデンティティを脱して、完全な人間(full human being)としての感情を再び獲得しなければならない。このような肯定的なアイデンティティは、社会の中で価値ある位置を回復するために重要である。このプロセスは、人間関係において価値を認められること、成功すること、自らに価値を見出すことを通して生じる」「人間であって、精神病患者ではない:ある人が『私は患者である前に人間です』と強調した。」「”精神病者”のような用語ではなく「人間を先頭にした言葉」(注2)の使用を要請することにより、精神病のレッテルを貼られた人々も自らを完全な人間とみなすことができる」(アハーン&フィッシャー 2004:12 ただし、一部原文を参照して訳を変えた。)

ここでいう「完全な」というのは、決して「非の打ちどころのない」「完壁な」という意味ではない。辞書を引くと、fullという語には、満たされている、充実しているといった意味、そして、欠けていない、全部がそろっているという意味が含まれることがわかる。上の文章で強調されているのも、専門職者による援助の対象者(「患者」「クライエント」)として生きるのではなく、生活や人生の主人公として全人的に生きるということである。
カナダのトロントにある精神科病院(CAMH)の患者から理事の1人となったレイモンド・チェンは次のように述べている。「”私は「病気だ」「おかしい」”と言うのを止めるようになり、代わって、”私は精神保健の「診断名」を持つ人なのだ”と言うようになるとき、リカバリーの過程が始まっています」「自分が何者であるのかを、誰か他の人に決めさせてはいけません」(チェン 2010:6)。

 以上から見えてくるのは、人のある状態に「精神疾患」「精神障害」というラベルを貼り、人を「患者」「病者」「障害者」として切り取ってしまうと、人間にとって大切な部分が見えなくなってしまい、そのことでリカバリーが阻害されるということである。目の前の人あるいは自分自身を「患者」「病者」「障害者」として見てしまうと、その人あるいは自分は医療サービスや福祉サービスの対象者であり、自分では何もできない人だと感じてしまい、リカバリーする力が見えなくなってしまうということである。

 吃音の人のリカバリーというとピンと来ないかもしれないが、リカバリーというのは、単に症状(だとされる状態)がなくなることではなく、人間性を取り戻すことである。症状がなくなることよりも人間性の取り戻しに力点が置かれる。吃音があるからということで人間性が抑えつけられていた人が抑圧から解放されて人間性を取り戻す、そのような過程がリカバリーだといえる。たとえば、吃音の人が自己否定感から解放され、生活や人生の主人公として生きるようになる過程がリカバリーだといえるだろう。
 はたして、そういった過程を実現するために発達障害というラベルは役に立つのだろうか。発達障害というラベルはそのような過程の役に立たないだけでなく、そのような過程を阻害するリスクを生み出しはしないだろうか。

(注1)リカバーすると信じること、リカバリーのための人間関係、リカバリーのためのスキル、リカバリーのためのアイデンティティ、リカバリーのためのコミュニティ、であった。
(注2)people first language。たとえば、disabled peopleではなく、people with disabilitiesのように peopleを最初に置いた表現。

◆吃音を発達障害だと見ることのメリットは

以上のような考えに対して、ラベルを受け入れるメリットというのがあるのではないかという意見が出されるかもしれない。
たとえば、「障害」「障害者」というラベルを受け入れることで、障害者のための制度を利用することができる可能性が生じる。障害者向けのサービスを利用したり、障害者手帳を使った割引を利用したり、障害者年金を受給したりといったことを通して生活に必要な支援を得たり、経済的な保障を得る可能性が開かれる。
また、そういったラベルを受け入れることで、自分自身を責めなくてもすむようになるということがある。たとえば、発達障害の場合、ラベリングが本人の気持ちにおいて肯定的な影響を与えることが指摘されている。ニキリンコによれば、「未診断で成長した軽度発達障害者が成人後に診断を受けると、安心した、救われたと語ることが多い」
(ニキ 2002:194)とされる。ニキによれば、発達障害の人の場合、診断を受けていないと、「障害が原因で失敗をしても、障害があることを知られていなければ、周囲も当人も別の説明をしてしまう。本当にできないのに、怠けている、反抗している、やる気がない―つまり、故意だと解釈されるのである。本人もしばしば周囲の解釈を信じてしまう」(ニキ 2002:202)とされる。ニキ自身も、注意欠陥多動性障害(ADHD)という障害があるということを知ったときに、勉強も仕事もうまくいかないことについて、自分の失敗に「機械的で、即物的な神経学的『説明』がつくのは、大変な安心感だった」(ニキ 2002: 189)としている。このように、自分が何かをできないのは自分のせいだと感じて自分を責めていた人が、それは発達障害によるものだという説明をうけることで安心感を得ることができるということである。

 吃音の人たちの場合はどうなのだろう。
 まず、吃音の人たち向けのサービスや経済的な保障の必要性がそれほど大きいのだろうかと思う。もちろん、経済的な保障があれば生活がよりしやすくなるということはあるだろう。しかし、それらは、先に述べたようなリスクを冒してまで求める必要があるものなのだろうか。
 また、自分が失敗するのは自分のせいであると自分を責めていた人が、自分が発達障害であることを知ることで安心感を得ることがあるという点については、吃音の場合、発達障害に含まれている注意欠如・多動性障害(AD/HD)、自閉症スペクトラム障害(ASD)、学習障害(LD)だとされる人たちの場合と状況が大きく異なるのではないかと思う。つまり、それらの状態の場合、自分は「健常者」であると感じているところから生きづらさは始まる(自分はダメな「健常者」だと感じる)。一方、吃音の場合、最初から自分は「健常者」(というよりも「普通の人」)ではないと感じるところから生きづらさが始まるのではないだろうか。また、上の3つの状態で診断名がまだついていない場合、本人は努力不足だと見られ、あるいは、自分自身をそのように見て、自分を責める。そして、診断名がつくことでそういった自責感から解放される。しかし、吃音の場合、どもることに対して否定的な意味が付与され、自己否定に陥ることはあっても、そういったことが努力不足、つまり責任を果たしていないと見られることから来るのだろうか。吃音の場合、自責感から解放されるという形で自己否定から解放されることはあまりないのではないだろうか。吃音の子どもを育てている親が、自分の育て方が悪かったから子どもがどもるようになったのだと自分を責めている場合、発達障害というラベルが、親の自責感を軽減するのに役立っということはあるかもしれない。しかし、どもる本人にとってそのようなメリットはあまりないように思われる。
 したがって、吃音の人たちにとって発達障害というラベルが持つ意味は、AD/HD、ASD、LDだとされる人たちの場合とは随分異なるように思う。ラベルを受け入れることによるメリットはあまりなく、先に述べたようなリスクを考えれば、デメリットの方が大きくなるのではないかと考える。

◆ラベルから解放されるための活動や運動

しかし、こんな意見も出されるかもしれない。
“でも、「○○障害」というラベルを受け入れながらも、いきいきと生きている人たちはいるんじゃないですか。ラベルを受け入れながらも、それにとらわれないで生きることもできるんじゃないですか。”
 たとえば、「精神障害者」のための制度を利用したり、自分たちは「精神障害者」であるということで活動や運動を展開しながら、いきいきと生きている人たちはいる。このことをどのように考えればよいのだろう。このことについてていねいに考えるには、まず2つの点について考える必要があるように思う。
 まず、「精神障害者」だとされる人たちが生きていくためには、基本的な生活を成り立たせるための制度が必要とされるという点である。生活を支えるサービス(たとえば、ホームヘルプ)や経済的な保障(たとえば、障害者年金)がないと生存権が保障されないという事態が生じてしまう。
 そして、さらに考える必要があるのは、「精神障害者」というラベルをとりあえずは受け入れるが、それから解放されて生きることを可能にする活動や運動が存在し、それらが展開されているという点である。それは、ラベルに対抗する活動や運動であるともいえる。こういった部分が見落とされやすいが、実は、非常に大切なポイントである。喩えを用いれば、「精神障害者」だとされる人たちの活動や運動全体を氷山だとすれば、「精神障害」「精神障害者」というラベルを受け入れて制度を利用する、あるいは、「精神障害者」という立場からそういった制度を改善する活動や運動は氷山の水面上の部分である。「ラベルを用いた活動・運動」である。一方、ラベルから自らを解き放ち、リカバリーを実現する活動や運動は水面下の部分であるといえる。「ラベルに対抗する活動・運動」である。後者は前者よりもはるかに大きいが人びとの目に留まりにくい。しかし、全体を成り立たせるために重要な働きをしている。
 「精神障害者」というラベルを受け入れれば、制度を利用することができ、生活は成り立つが、一方で、ラベルにとらわれてリカバリーが難しくなるというジレンマが生じる。しかし、「精神障害者」というラベルを貼られた人たちの場合、そのようなジレンマを克服するための活動や運動をもっているがために、リカバリーが可能になっている。言い換えれば、人びとが「精神障害者」というラベルを貼られながらもリカバリーが可能になるのは、「精神障害者」というラベルをとりあえずは受け入れるが、それにとらわれずに生きることを可能にする活動や運動があるからであり、そういった考えや実践がない場合、制度を利用できるが一方でリカバリーは難しくなるだろう。ちなみに、そのような活動や運動の最も典型的な例がセルフヘルプ・グループであるといえるだろう。
 
 以下、「ラベルをとりあえずは受け入れるが、それから解放されて生きること」についてもう少し詳しく述べたい。
 石川は、先述した「『名付け』と『名乗り』のポリティックス」において「アイデンティティを立ち上げずにポジションを引き受ける」(石川 2004)生き方があるとする。アイデンティティを立ち上げる生き方ではなく、アイデンティティを立ち上げない生き方であり、「アイデンティティからの自由」(石川 2004:252)が大切にする生き方である(注3)。
 このことを理解するためのよいビデオをインターネットで視聴することができる。カナダのトロントにあるライアーソン大学の障害学部で制作された Self Labelling and Identityというビデオである(YouTubeで視聴可)。精神保健領域の活動家たちが自分たちをどのように名付けているのかを語っているが、たとえば、以下のようなことが語られている。

「私は、自分にあてはまる、さまざまなラベルをもっています。そして、精神医学的なラベルをどのようにして使うのかについては慎重に考えています。なぜかというと、どのような人を相手にするのかによって、どんな影響を与えたいのかが変わってくるからです。ふつう、私は、自分を『精神医療サバイバー』だとしていますが、相手によっては、私は自分のアイデンティティは『狂った人』だと言っています」

 「自分自身の意識のなかで、自分のことをどのように考えるのかというのがあります。しかし、ふつう、人と話すときに、私は、状況になじむと自分が考える、言葉を使います」

 「私は母親であり、祖母であり、狂った人であり、サバイバー(生きのびてきた人)であり、レズビアンであり、女性です」

 つまり、人は、外から与えられたラベルにとらわれてしまうのではなく、ラベルに対抗するオートノミー(自律性、主体性、自治性)をもつことが可能だし、必要なのだということである。そして、実は、このようなオートノミーはリカバリーの核であると考えられる。人が抑圧から解放されて人間性を取り戻すためにはオートノミーが必要である(SOAP n.d.;また、チェンバレンn.d.参照)。外から規定されることに抵抗するということでもある。
「精神障害者」だとされる人たちは生き延びていくためにラベルを必要としてきた。しかし、同時に、ラベルから解放されることも必要としてきた。そして、ラベルを用いた活動や運動の基盤として、ラベルに対抗して生きていくためにオートノミーを築き上げてきたのだと考える。筆者はこれまで北米の「精神障害者」だとされる人たちと交わってきたが、その人たちの当事者活動や当事者運動の根底に、そのような、ラベルに対抗して生きていくためのオートノミーが脈々と流れているのを感じてきた。

吃音の人たちのことに話を戻す。
私は、吃音の人たちが、発達障害というラベルを受け入れても、一方で、ラベルに対抗する活動や運動を展開していけばうまくやっていけるということを言いたいのではない。私が言いたいのは、どちらを優先させるべきなのかをよく考える必要があるのではないかということである。「ラベルに抵抗する活動・運動」よりも「ラベルを用いる活動・運動」を優先させることは危険なのではないかと言いたいのである。後者よりも前者を優先させる必要があるのではないかということである。

(注3)このような生き方と、先述した「リカバリーのためのアイデンティティをもっていること」とは矛盾するではないかという指摘は重要であるが、この点に立ち入ると議論が複雑になるため、今回は立ち入らない。 (つづく)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2026/04/12

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