どもって生きることの意味

 今日、紹介する東京ワークショップをはじめ、僕は、いろいろなところで、どもる人、どもる子ども、どもる子どもの保護者、ことばの教室担当者や言語聴覚士など、吃音にかかわるさまざまな立場の人と対話を重ねてきました。そのときどきに対話の中で生まれてくることばは、いつも僕の本音で、自分でもびっくりするくらい今まで話したこともないようなことも飛び出します。対話の相手、その場を支えてくれる人たちとの間に流れる不思議な力がそうさせるのでしょう。
 今日は、2015年の、第3回の東京でのワークショップの様子を報告した「スタタリング・ナウ」2015.7.20 NO.251 より、紹介します。

《第3回 伊藤伸二・東京ワークショップ 2015.1.11 北とぴあ》
  どもって生きることの意味 1

 第3回目となった伊藤伸二・東京ワークショップ。これまでと同じ会場、同じ会議室で始まった。それぞれの自己紹介の後、こんなことで話し合ってみたいという参加者から出されたテーマで、話し合いがすすんでいく。時に涙ぐみ、ときに大笑いして、あっという間に時間が過ぎていった。

どもってはいけない場とどもりたくない場の区別

小川(高校生) 僕は高校生ですが、社会人になると、どもってはいけない場があると思うと不安です。
伊藤 どんな場面だと思うの?
小川 何か失敗して謝るとき。
伊藤 どもってはいけない場があると思うのは、思い込みだけど、どもりたくない場はあるよね。どもってはいけない場と、どもりたくない場、その区別をした方がいいと思うよ。
謝る必要があって謝るときは、むしろどもる方が有利だよ。すらすらしゃべるより、誠意が伝わる。仲間に税務署の職員がいるけれど、税金を払ってもらおうと説明し、お願いするとき、どもると誠実さが伝わると言っていた。
 以前、吃音ショートコースに講師として来て下さった詩人の谷川俊太郎さんも、「どもっていると、誠実に見えるんだよなあ」と言っていた。作家の石坂洋次郎は、友達の作家の尾崎士郎がどもって、宇野千代と話すのを聞いて、うらやましいと言ったそうです。どもりながら誠実にしゃべると、人に対して訴える力となる。また、どもる人の多くは、面接をとても苦手にしているけれど、自分がどもったとき、面接官がどんな反応をするかを見てやろう、面接官を面接してやろうというような気持ちで臨めば楽になる。吃音は相手がどんな人かを知るバロメーターになるという人がいる。お見合いでも面接でも、自分のままを出すことが成功だけど、どもるのを隠そうとして、成功すると、今度は、いつどもることがバレるか心配で、後が大変になります。
小川 小学校の先生には、どもってはいけない場があると思うんだけど。
溝上(ことばの教室教員) 僕は教師で、初めは、卒業式で子どもの名前をどもってはいけないと思っていたけど、そんなことはなかった。卒業式でどもったけれど、一生懸命やった。後でいい式だったと言われた。
小川 生徒からバカにされない?
溝上 今のところ、そんなことはない。担任していた子どもから「吃音を治す努力が足りないのでは?」と言われたことはあるけどね。(笑)
伊藤 以前、この東京ワークショップに参加した小学校の先生は、卒業式前に、自分がどもって名前が言えないことを話して、生徒に相談したら、それまで荒れていたクラスが治まって、いいクラスになったという経験をしている。どもってはいけない場はどもる人の思い込みで、現実にはない。

どもったときの落ち込みをひきずらない対処の仕方

丸尾(どもる当事者) 会社で、電話や発表でどもると、へこむ。どもりなんだからとあきらめてはいるけれど、後でへこむ。へこみの対処の仕方を考えたい。
千田(どもる当事者) 私も、最後までしゃべることができず、電話を切ったときは、へこんだ。
鶴岡(どもる当事者) どもって、「ありがとうございます」が言えず、いいかげんな奴、失礼な奴だと思われた。
伊藤 接客の仕事で「ありがとう」や自分の名前が言えなくて悩む人は多い。
千田 スーパーのレジの仕事で、「ポイントカードをお持ちですか」と聞かなくてはいけないけれど、初めは言えなかった。でも、だんだん慣れてきて、今はなんとかなっている。どもって言えなかった日は、落ち込むけれど、次の日にはその気持ちを持ち込まないようになってきた。
溝上 ことばの教室に勤めているので、人前で話すときの内容は、吃音のことが多い。そのためか、どもらないよりどもった方がいいことも多い。どもった方が誠実に伝わる。そうではない場では、初めに「私はどもります」と言う。電話のときもそうする。今はへこむことはなくなった。どもるのは嫌だなと思うこともあるけど、しょうがないと思っている。以前は、どもるかもしれないという予期不安が強かった。
伊藤 どもった後に、落ち込むのはなぜだろう。
丸尾 伝えなければいけないことがあるのに、話が切れてしまったり、聞いている人がつまらなさそうにしているのを見ると落ち込む。特に、他に、人を引き込むように上手に話す人がいると、よけいに落ち込む。体調や吃音の波があって、時間がかかったり、相手が不審がったりすることがあった。自分の中に、うまく言いたいという気持ちがあるからだろうと思う。
伊藤 僕は、講演などではあまりどもらなくなっていたのに、金沢で新任教師の研修の時に、自分でもびっくりするくらい、ひどくどもった。毎年聞いている担当者もびっくりしていた。でも、「今日は、すごくどもったなあ」と思っただけで、落ち込まなかった。どもりを認めることができていたら、落ち込むことはあまりなくなる。
 どもる人の本当の悩みは、何だと思いますか。不思議に思うかもしれないけれど、それは、どもれないことです。大阪吃音教室に来ている藤岡さんは、どもれなかったために、初めて吃音教室に来たときは、ほとんどどもっていなかった。でも、今、彼女はむちゃくちゃどもります。昨年秋、東京であった「当事者研究の全国大会」で彼女は、にこにこ笑いながらどもって発表したらしい。本人が笑っているので、悲壮感はない。いいどもり方だと思うし、本人もすごく楽だと言っていた。
 落ち込みを減らすために、何か工夫はないだろうか。へこんだときに、何かしていることはないだろうか。何か、これをもっていたら、いいというものは、ないかな?
 筑波大学副学長の石隈利紀さんは、以前、論理療法をテーマにした吃音ショートコースの講師に来てくれたとき、「元気グッズ」という言い方をしていました。これを持っていたら、元気になるというものです。皆さんは、どうしていますか。
大山(言語聴覚士) 私は、なんで落ち込んでいるのだろうかと徹底的に考える。自分を観察し、なぜ落ち込んでいるのか追究する。最近、マインドフルネスの実践をしている。
森坂(どもる子どもの保護者)励ましてくれる友人に「落ち込んでいるから、励ましてくれ」とメールする。返信の中から、よさそうなものを取り入れるようにしている。
千田 私も、書く。書くことで、整理される。
伊藤 SOSを出せて、弱音を聞いてくれる人が周りにいることが大切。交流分析のエリック・バーンは、「人は、なぜ生きているか」の問いに、「他者からプラスのストロークを得るため」と答えた。「この人といたら役に立つが厳しい」という人より、痛んでいるときに一緒にいたいのは、ほめてくれたり、「それで大丈夫。OK」と言ってくれる人だよね。普段から、そんな人たちとのつきあいを大事にした方がいい。
中山(中学生) 落ち込んだら、好きなことをして遊ぶ。

どもりを認めないことで起こるメリット・デメリット

千田 どうしたら、どもりを受け入れられるだろうか。そうできないから、隠そうとしてしまう。
伊藤 吃音治療は、100年以上の歴史があり、世界中でものすごい研究がされているにもかかわらず、世界最新のカナダのアイスターという大学の吃音研究所で結局、「おーはーよーうーごーざーいーまーすー」という、スピードをコントロールする方法しかない。科学、医学が進歩しているのに、「ゆっくり言いなさい」は、誰でも言える。治療法がないのに、なぜ治そうとするのか。認められないか。僕は、大阪人なので、損か得かを考えてみます。どもりを認めないことで起こるプラス、メリットは何だろう。こじつけでも、奇想天外なもののほうがいい、選択肢を考えてみよう。

◎どもりを認めないことで起こるメリット
・吃音を受け入れる努力をしなくていい。
・何事にも諦めない人になれる。
・吃音はなかったことにできる。
・吃音が治る、流暢に話せるようになる希望を持ち続けられる。
・多くの人の側、多数派のふりができる。
・次はちゃんと話せるはずだと思うことができる。
・いつか治ると思える。
◎どもりを認めないことで起こるデメリット
・自分だけで悩みを抱え込んでしまう。
・隠すことにエネルギーを使い、疲れる
・どもっている自分が嫌いになってしまう。
・治るまで幸せだと思えない。
・本当の自分、自分の実力が分からない。
・治るまで、やる気が出ない。挑戦しない。
・毎日、うつうつとして、つまらない。

伊藤 たくさん出てきましたが、プラスとマイナスを比べてみて、どもりを受け入れようと思いませんか。
千田 受け入れたいけど、簡単じゃない。
伊藤 いや、簡単ですよ。決心すればいいだけですから。僕は、「受け入れる」や「受容」ということばは、昔は使っていたが、今は使わなくなりました。受け入れなければいけない、受容しなければいけないと、「ねばならない」という感覚が強く、受け入れられない自分を責めてしまうからです。どもる事実を認めるは、「まあ、実際どもるんだから、仕方がない。認めるしかないか」で、理想ではなく現実的です。
森坂 認めることは、人前でどもることですか。
伊藤 それも含まれる。どもらないふりをしない、吃音を隠すための努力をしないということ。隠すために、どれだけのエネルギーを使い、どれだけ努力してきたことか。その努力を他のことに使ったら、もっと建設的なことに使ったら、と思う。
 なぜ、易しいかというと、どもる事実を認めるは、決意さえすればいいだけのことで、治すことと違って努力が伴わない。吃音を治すことはものすごす努力が必要です。自分はどもる人間だと認めて生きていこうと決めればいい。たとえば、禁煙も、人は何度でも取り組むことができる。やめようと決心することは簡単で、決意は何度してもいい。失敗したら、また禁煙しようと決意する。何度も取り組んでいるうちにできるかもしれない。本当にたばこをやめられるかどうかは難しいかもしれませんが。
 吃音の場合は、どもって生きようと決意さえすればいい。そうすると、今まで、10逃げていたことを、1つでも2つでも逃げないでやってみようという気持ちがわいてきませんか。それならできませんか。
千田 逃げないというのは、私にとっては、どもりを隠さないで、言い換えもしないで、思い切りどもるということかなと思うのですが…。
伊藤 それは難しいね。僕が、アメリカ言語病理学が現実的でないと思うのは、いつでも、どもりを隠したり、ことばを言い換えないで、しゃべることが大事だというからだ。そんなことはできない。時には逃げてもいい、どもりそうなことばを言い換えてもいい。
千田 逃げるというのは、ほかのことばに言い換えをしてもいいということですか。
伊藤 そうね。僕も、意識はしていないが、ほかのことばに言い換えていますよ。
千田 どもりを認めても、ですか。
伊藤 そうです。どもりを認めていても、です。どもりながら生きるというのは、ある人にとっては大変なことですよ。時には逃げてもいいし、ことはを言い換えてでも、相手に伝えることです。何でもありが、吃音サバイバルですよ。
千田 ああ、そこのところ、勘違いしてました。
伊藤 どもりを認めた限りは、いつでも、どこでも、私は平気で堂々とどもるんだ。こんな実現不可能なことを言ってもだめでしょう。
 気楽な場所だったら、いっぺんどもってみようとか、親しい人と一緒だったら、どもる心地よさを味わってみようとかをしてみると、どもっていても、人は聞いてくれることを経験できる。そしたら、次は、もうちょっと違う場面に広げてみようとか。どもる事実を認める決意さえすれば、少しずつ広がっていく可能性がある。少し隙間を広げてみようということです。完全にいつでもどこでもどもっても僕は大丈夫だというのは、ずっと先でいい。「受け入れる」は、長い人生の中で少しずつ変わっていくこと。私はもう受け入れたから、いついかなるときでも、平気でどもる、そんなことは無理でしょう。千田さんは、それをイメージしていたので苦しかったのではないですか。時には逃げ、時には落ち込み、だめだなあと思いつつ、でも、基本はどもる自分を認める方向でいこうと決意すること、分かっていただけますか。
千田 そうですね。よく分かりました。
伊藤 なぜ、受け入れるということばを使うのかというと、僕が人一倍苦しんできたからです。損もいっぱいしてきた。
 高校生に入学したとき、中学校生活で唯一の救いだった卓球部に入った。入学式で見初めた女の子も卓球部に入っていた。これからの高校生活はバラ色だとうれしくなった。男子コートと女子コートは離れているから、しゃべることなく、姿を見るだけでよかった。しかし、入ってすぐに男女合同の新人合宿があると聞いた。それまでは、男女別々に練習していたけれど、合宿になると一緒だし、自己紹介がある。好きな彼女の前でどもることは絶対嫌だ。卓球部を辞めようか、合宿だけ休むかと悩んで、合宿の前日に、卓球部を辞めた。自己紹介でどもるのが嫌だという、たったそれだけのために。高校生活の楽しみだった卓球も失ってしまった。そのときから、僕の逃げの人生が始まったのです。どもりだから、仕方がないと、逃げの人生が身につき、その後、どもりを隠して生きて、こんなに損をしたのだから、21歳の時に治ることを諦めてからは、得をする生き方をしようと決めた。
 実際にどもりながらアルバイトをしたら、どもっていてもできた。他者からいくら「どもっても大丈夫」と言われても、納得ができない。でも、実際に、どもっている僕を好きになってくれた女性がいたから、どもる僕でも愛されるんだ、僕でも好きになってくれるんだ、と思ったときに、僕も生きていけると思った。100%の覚悟ではないけれども、どもる覚悟、どもりを認めようと思ったことで、どもっていても聞いてくれる人はいる、受け入れてくれる人はいる、どもりながらできないことは何ひとつないということが、自分の行動を通して実感できた。そのとき、本当にどもりを認めることができた。27歳くらいのときのことで、決意した21歳から6年くらいはかかったと思う。
 でも、決意したから6年間かかったけれど変わることができたが、吃音を認めるという出発点がなかったら、ずっとそのままだった。
 どもりを受け入れるということを、そんなふうに考えたらどうだろう。いかがですか。合点していただけましたか。行動を伴わないで、頭の中で考えていただけでは、ほんものにはならない。

“ごまかす”ではなく、”サバイバル”と呼ぼう

伊藤 ことばを言い換えたり、どもりそうなときにどもらないことばを前につけてみたり、話しやすいように前に何かをつけたりすることは、アメリカ言語病理学の一部の人たちは、吃音検査法では吃音の症状の中にいれている。ことばを言い換えることをごまかしだと言う。千田さんもそう、思ってる?
千田 はい、そう思っています。
伊藤 やはりそうですか。それはやめましょう。
千田 たとえば、電話するとき、いきなり自分の名前を言うんじゃなくて、おはようございますとか、お世話になっていますとかを言ってからだと名前はなんとか言える。だから、そうしている。それは、つまりごまかしていること、自分のどもりを隠していることになると思っていました。
伊藤 そうか、そうか。それを、「ごまかす」ということばを使うのは、やめましょう。「サバイバル」していると言おう。僕たちは生き延びるために努力して、工夫して技術を身につけた。ごまかすためにしているのではなくて、人に伝えたいという気持ちがあって、相手から逃げないで、コミュニケーションするために、あなた自身が身につけた、ある意味、財産で、それを手放してしまう必要はない。言い換えをしているそのものを認める。その財産を認めましょう。
 2013年、オランダで、第10回世界大会が開かれたとき、著名な作家の、デイビッド・ミッチェルさんと仲良くなって、いろんな話をしました。その中で言い換えのことも話題に出た。彼は、どもるため、どもらないことばに言い換えをして、サバイバルしてきた。13歳の子どもなら絶対に使わないようなことばを使っていた。そして、そうすることに、彼は犯罪者であるような罪悪感を持っていたと言っていた。だけど、小説家として名前が知られるようになった今、ことばの言い換えをしてきたことが、作家としての財産になっていると言っている。だから、言い換えを今もしているが、今は罪悪感を持っていない。
 それは僕たちの仲間も同じ。今までは、言い換えをすることに対して引け目を感じていたし、どもりたくないからそうしているのだと考えていたけれど、今はそうではない。それも含めて自分のことばなんだと思えるようになった。
 その点で、日本語はすごく有利なことばです。主語をつけてもいいし、つけなくてもいい。語順の入れ替えも自由。「私は、あなたが好きだ」と言いたくて「私」が言いにくかったら、「好きだ、私はあなたが」でもいい。どもりそうだと思ったら、瞬間的に語順を変えることを僕たちは瞬時にしてきている。それが豊かにできるのが日本語なんです。
 あなたが、昔はひどくどもっていたけれど、少しずつ変わっていったというのは、日本語の特性であり、人とかかわっていく中で、それが磨かれていったという証拠です。だから、どもり方が自然に変わっていく率は、欧米語より、日本語でどもる人は高いと思う。そういう意味で、これまで生き延びてきたことを財産に、これからも自由に使って下さい。それも含めて、どもりを認めるということです。(つづく)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2026/03/17

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