「英国王のスピーチ」感想特集
「スタタリング・ナウ」では珍しく、連続して特集を続けました。それだけ映画「英国王のスピーチ」が僕たちに示してくれたインパクトは強く大きかったのだと思います。今日も、「英国王のスピーチ」の感想を紹介します。今日と明日の2回に分けて、紹介します。
「ドモダチ」に出会いたい
桂文福 落語家
『スタタリング・ナウ』ご愛読の皆さん、ご無沙汰しております。落語家の桂文福でございます。
私事ですが、落語家笑売をはじめて40年目に入りました。
「小さい頃からひょうきんでおもしろい子」「クラスの人気者」「落研でうまいと言われるから、プロで力を試そう」「将来の落語界を背負ってやるぞ」そんなことはどれも私に当てはまりません。私はれっきとした吃音者でしたので…。
今では、吃音の人を「ドモラー」とか吃音仲間を「ドモダチ」と呼んだらどうかと思えるほど、堂々と「私は吃音者」と言えます、胸をはって(別に胸はらんでもええけど…)。そう思えるようになったのは、伊藤伸二会長出演のNHK教育テレビ「にんげんゆうゆう」(2000.6.22)のおかげです。
先に書きました落語家の入門動機も、師匠小文枝(後の五代目文枝)の落語を聞いて「この人に教えてもろたら、人前でちゃんとしゃべれるようになるかな~」という、最低ラインのものでした。もちろん、落語は聞くのは大好きでしたけど。師匠は、私がいくらどもってもそれを責めるのではなく、「お前には、独特の間(ま)があるんや。そこがおもしろいんや」と大きな心で導いてくれました。ところが、困ったのは、なんばや京都の花月の出番をもらった時でした。我々の世界は、特に上下関係が厳しく、自分の出の前には必ず先輩、師匠方の楽屋にご挨拶に行き、「お先に、勉強させていただきます」と言わねばなりませんが、相手によって、すっと言える時と、ちょっと威圧感のある人や人気者の人が相手だと「お、お、お、お先に、べ、べんきょう…」となりました。すると、相手の人は笑いながらわざと「ご、ご、ごくろうさん」私もわざと「ど、ど、どうも、よ、よろしく、トホホー」お互いワァーッと笑って、部屋を出た私は「チクショー」と心でつぶやき、そんな時ほど、どもらずにきっちり高座をつとめました。出囃子にのって出るときからテンションをあげ、いつものフレーズで流れにのると、すっーとしゃべれて無事に一席終われるのですが、途中でアドリブ等を入れると必ずどもりますね。でも、相撲甚句や河内音頭など、歌えばいくらでも言いたいことが発表できます。師匠も、落語家でもそういう芸を取り入れてもええと許して下さったおかげで、自他共に認めるユニークな噺家になれたと今は吃音に感謝しておりますが、「にんげんゆうゆう」のNHKテレビと出会うまでは、自分からは、吃音のことは楽屋内以外話題にもしませんでした。
ところが、テレビで伊藤伸二会長の話や「日本吃音臨床研究会」の活躍を知り、すぐに伊藤さんにFAXをしたのです。それがご縁で、12年ほど前に、伊藤さんのお世話で落語会にお呼びいただきました。その時の伊藤さんがつけたタイトルが「桂文福の泣き笑い落語人生。どもりでよかった!!」ガビ~ン。そのチラシが送られて来た時、うちの嫁はんも息子も爆笑しました。仲間の芸人や私の弟子たちとも大笑いでした。まさにカミングアウトでした。それからは、正々堂々と「吃音者」として生きていけるようになりました。
そして、先日、見ました、「英国王のスピーチ」。リニューアルしたJR大阪駅の大阪ステーションシネマの、お客さん方を見て「この人たちもどもるのかな~」「ご家族にどもる子どもがいるのかな~」「普通の映画ファンかな~」等と考えながら見ました。
コリンファースさんの吃音ぶりは見事でした。そして、心からのスピーチ、伊藤会長がおっしゃる「スラスラとしゃべっても中身のない心が通わない話より、どもってもいい、一言一言胸をうつ話し方がいい」まさにそのとおりでした。吃音を呪う、自分に腹が立つ、くやしい、悲しい、そんな感情も、見事に伝わりました。そして、ライオネルさんやご家族、まわりの支える方々の大切さも胸をうちました。脚本のデヴィッド・サイドラーさんご自身が吃音者ということで、全世界の吃音者が希望を持ち、心から拍手を送れる作品にしあがったと思います。
一世一代のスピーチの後、ライオネル氏が「やっぱりWが苦手ですね」と言えば、ジョージ6世が「僕だという印を残しておかないとね」このセリフは、まさに落語のオチ(サゲ)そのものでした。最後の字幕スーパーが消えるまで涙が止まりませんでした。そして、改めて多くの「ドモラー」「ドモダチ」に出会いたいと強く思いました。
吃音研究者が観た「英国王のスピーチ」
―映画に見る吃音の肯定的理解―
ジュディ・カスター ミネソタ大学教授(言語聴覚リハビリテーション)
どもる人たちや言語療法の専門家にとって、この映画は他の人たちとは違った風に見えるだろう。
映画は1930年から1940年代を描いていて、そこに出てくる吃音の考え方はかなり古い。映画に登場する専門家達は、今ではまったく信用されないテクニックを使っている。ビー玉を口いっぱい詰め込んだり、喉をリラックスさせるために喫煙も勧めている。国王が肺がんで亡くなったのはそのせいかも知れない。その当時他にも、成人吃音は「治る」と考えられていたり、子どもに左利きを直すよう強いたり、厳しいしつけをするとどもりになる、などと信じられていた。
ライオネル・ローグは、言語療法ではなく、発声や弁論術の専門家であった。映画では、流暢性を高めるために、一時的にしか効果が得られないようなマスキング、歌唱、大声で話す、悪態語を叫ぶなどの方法が用いられている。それらをライオネルが実際に使っていたかどうかは定かではないが、それらの中には今でも使われているものがある。ともあれ多くの点で、彼は優れた「セラピスト」であったと言える。
ライオネルは、セラピーにおいては、クライエントの動機が重要であるとの認識に立ち、国王の「心の準備」が整うまで辛抱強く待っていた。そして、サポート、強化、励ましに加えて、クライエントとセラピストの間の平等な関係を築こうとした。彼は、吃音は単に身体的・口腔運動機能の問題だけではないと明言しているが、先ずはそれらの症状に取り組むことを初期目標とした。
ライオネルは、マスキングや歌など以外にも様々なテクニックを駆使している。妻エリザベスをセラピーに参加させ、今日のセラピーでも使われている脱感作法や、国王が「心地よくいられる安全地帯」を拡大できるように励ましたり、筋肉弛緩法や腹式呼吸法、引き伸ばし法などを取り入れている。その他にも、間を置くこと、ジャンピング、構音器官を軽く接触させてわずかに音を引き伸ばして言葉を出すとか、出にくい音から始めて、軽く息を吐くこと、そして、話す速度を調整しながら「声を前に出す」ことに集中するといったテクニックや発声の仕組みを教えている。
この映画を観ると、「吃音を直ちに治す方法はない」ことや、クライエントとセラピストの「関係性」の方がクライエントに教えるテクニックよりも大事であることがよくわかる。国王の吃音は「治る」ことはなかったが、どもりながらも伝えたいことを伝える力をつけることは出来たのである。
世紀の開戦スピーチを終えた国王は自信に満ちていた。ライオネルが「Wがまだどもっていましたね」と言うと、「でないと私だとわからないからね」と国王はユーモアで応える。国王を演じたコリン・ファースは、インタビューで、「ライオネルの日記の中にこの言葉を見つけたとき、これは是非とも台詞に入れなければと思った」と語っている。
(訳:進士和恵 原文:Kuster,J.M,At Long Last,A Positive Portrayal of Stuttering.The ASHA Leader.February15,2011)
英国王にあるもの、ないもの。
ソレア心理カウンセリングセンター
所長 高間しのぶ(臨床心理士)
爽やかな映画でした。
吃音の治療には平等な関係にある人間がそばで支えることが必要で、その人間によって承認されることが治療につながる、ということが描かれていたと思います。
子どもの頃から父や兄によって感情を抑えつけられてきた主人公。それによって真の自分が出せないことが彼を吃音にした。そんな暗喩があったようです。そこへ友達のように現れた治療者。平等な関係を作ることによって、彼の真の自分(抑えつけられた自分)を開放しようとします。ヒワイな言葉も口走らせ、彼の怒りをどんどんと出していった。たまっていた感情を外へ出すことで彼は自由というものを身体で学んでいきます。感情に正直であることとは、どういうことかを学んでいきます。抑えつけるものに対して、真の自分を出そうとします。確かに治療者は、さまざまな治療法を試みています。しかし何か特別な練習が必要なのではなく、自分の感情(映画の場合は怒りや哀しみ)を出すことが、活き活きと自分を生きる道につながるのだということを教えてくれました。
物足りなく感じたのはラストのスピーチ。もっとどもっても良いのにと思いました。あんなにスラスラ読めるはずがない。いや、彼はスラスラ読む必要はない。映画の中では治療者に「今回はWのみどもった」と言われますが、W以外にもどもればよかった。もっとどもる演説の中に彼の人生がにじみ出ればよかったのに、と思いました。どもりの人は練習ではどもらない。しかし本番でどもる。そして本番でどもることが悪いことのように思ってしまう。だから彼には本番でもっとどもって、そのどもる演説がとてもすばらしいものだった、というストーリーであればよかったのにと思いました。
私は今、この映画で描かれなかったことに、一番の関心があります。
この映画では、どもる怒り、どもる哀しみが十分に描かれていました。そこには胸を打たれました。私もかつては、どもる自分に怒り、冷ややかな周囲の視線に怒っていました。そのような怒りはこの映画に丁寧に描かれていました。しかし、この映画では、どもる喜びが描かれていませんでした。
どもる喜びと言うと、違和感を感じる人もいらっしゃるでしょう。でも感情の表現として、どもる怒り→どもる哀しみ、と来たら、次は「どもる喜び」が来るはずです。どもる喜びへの道のりは人それぞれですし、遠い道のりかもしれません。しかし、哀しみの次には喜びが必ずやってくることを知っておくべきです。
最後のスピーチでもっと彼がどもったとしたらどうでしょうか。どもるということは一生懸命話すということです。どもるの人がどもらずに話しているときは、自分の体験を振り返ってみると、何故か真剣味が足りないような気がします。決して不真面目ではないのですが、どもらない自分に酔っぱらってしまうせいか、なんだか適当なことを話しているように感じます。軽い話になってしまう。どもるということは、そこに真剣勝負の雰囲気が漂うのです。なぜだか話す内容も重厚になるのです。
私はカウンセラーなのですが、カウンセリングという仕事にはどもる喜びがあります。つまり、ここぞという時にどもる。意図的でなく、自然とどもってしまう。こういうとき、どもることは非常に有効に働きます。ときどき冗談で、わざとどもるんです、と話しますが、実際は違って、ほんとにどもるんです。意図せずにどもる。それも本当に必要なことを言うとき、そのときどもる。不思議ですね。スピリチュアル的なものが作用しているとしか思えないのですが、大事な話のときに必ずどもるのです。そしてどもることで、私の気持ちが相手へまっすぐに伝わるのです。この瞬間、私は吃音で良かったと実感します。どもらない人だと伝わらないもの、それが私がどもりであるために相手へ伝わるのです。どもらないカウンセラーが手に入れられないものを頂いている感じです。これがどもる喜びです。
私がもしどもらなくなったら…。そのときはカウンセラーという仕事を止めなければならないと思っていますが、私がどもらなくなることは想像できないので、当分は仕事も安泰でしょうか(笑)。
吃音を克服することはどもらなくなることではありません。どもることが喜びにつながるようになること、これが吃音克服の到達点の一つのように思います。この、どもる喜びが英国王には描かれていませんでした。ということは、吃音を主人公とした映画はもっともっと素晴らしい映画が生まれる可能性が残っているということです。(つづく)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/05/11