「英国王のスピーチ」の感想特集

 今日から5月。緑がまぶしい、さわやかな季節となりました。
 「スタタリング・ナウ」2011.3.20 NO.199 の「英国王のスピーチ」特集を紹介しています。今日は、僕たちの仲間である大阪スタタリングプロジェクトのメンバー2人の感想を紹介します。
 
「英国王のスピーチ」の感想

 吃音がかつてこれほど世界中の人の口にのぼったことはありませんでした。これほど華やかな舞台で、吃音が語られたこともありませんでした。まさにこれは、吃音の歴史で画期的なことだと言えましょう。この機会を生かしたいと思います。この映画は、様々な視点からの感想があり、多くの人と分かち合うことで、吃音が浮き彫りにされるものです。皆さんの感想をぜひお手紙やメールでお寄せ下さい。
 まず、感想の第一弾をお届けします。

  英国王のスピーチと吃音の非論理的思考
                 大阪スタタリングプロジェクト会長 東野晃之
 映画は冒頭からスピーチの場面で始まり、最後もスピーチで幕を閉じた。
 どもることに劣等感が強く、悩みのなかにいる人にとって人前でのスピーチは緊張が高まり、不安や恐れを感じる場面だろう。幼い頃から吃音のコンプレックスを抱え、自分を否定しながら生き、内気な性格から人前に出ることが最も苦手な男が国王になった。常に公的スピーチを求められる英国王ジョージ6世を演じたコリン・ファースの表情は、固く、重苦しい緊張感を漂わせる。
 「英国王のスピーチ」は、スピーチの場面に立たざるを得ないどもる人間の葛藤や苦悩を描いた作品だが、見逃せないのは彼を支え、愛する妻や生涯の友人となった言語聴覚士との心の交流を描いたところである。どもる人は、どもらない人なら経験しない悩みや苦労もするが、どもるからこそ家族の絆や悩みを分かち合える友人の大切さが胸にしみてわかる。だから見終った後、温かな気持ちになり、吃音でよかったと思わせてくれる。
 この作品の最大の貢献は英国王が吃音だったことを公開し、どもる人の生き様を描いたことだ。
 「どもりはみっともなく劣ったもので、どもっていたら一人前の人間にはなれない。社会に出て普通の職業に就けるはずがない」
 吃音の悩み真っ只中の頃、私が心の中で描いた非論理的な文章記述である。この心のつぶやきが事実と推論を混同し、筋の通らない思い込みに過ぎないのは論理療法で考えるとわかるが、理屈でなく「英国王のスピーチ」を観ればいい。どもっていても国王はできる。スピーチで苦労はしても国王としての責務を果たすのは可能である事実がわかるのだ。
 どもって立ち往生するかも知れないという予期不安や恐れなどの感情から悩むどもる人には、私のような吃音やどもる人に対する非論理的思考がある。否定的な思い込みがあるのは、吃音が少数派で同じようにどもる人と出会うことが普段の生活でほとんどないからである。どもる人がセルフヘルプグループに参加して初めに思うのは、どもる仲間の多さへの驚きと存在を知り安心することだ。次に、どもりながら、時に悩みながらもいろいろな職業に就き、その人らしくがんばっている事実である。「国王だってどもってもいい」、「どもってもやれる」、この映画は、どもる人の非論理的思考を粉砕し、勇気を与えてくれるように思う。
 スピーチをすることが仕事で国王の義務でもある。映画の終盤、その最大の見せ場がやってくる。ヒトラー率いるドイツと戦うと決め、その決意を国民に語りかける場面である。緊張感が最高潮に達するなか、言語聴覚士のライオネルに支えられながらジョージ6世は見事にスピーチをやり終える。安堵の表情を浮かべるジョージ6世に、家族らが祝福し、賞賛する感動の場面である。だが、吃音が治ったのでも克服したわけでもない。世紀のスピーチと言われた場面をやり終えただけだ。この先もどもる国王には試練が待ち受けるだろう。主役のコリン・ファースは、このことについてインタビューに応える。「ジョージ6世は問題を克服はしない。そうしてしまうのはウソだし、間違っていると僕らは思った。彼は自分の障害に向き合って闘うことで自分の中に潜んでいたいろいろなことを発見した。それはいわば彼にとって勝利なんだ」
 「厳粛な場面では、どもるべきではない」。「どもってはならないときがあるはずだ」。どもる人が持ちやすい非論理的思考である。でもほんと? どもってはいけない場面は本当にあるのだろうか。どもってスピーチするのは最悪であると考えること自体、傲慢で独善的であるように思える。最後の場面を見終わって、論理療法のことばが思い浮かんだ。「人生に最悪はない。ただ、不便なことがあるだけだ」。
 英国王のスピーチは、「どもってはダメだ」という吃音の呪縛を描いた作品でもある。「どもることは許されない」と、自らの心の声に翻弄される姿は、見方を変えればはだかの王様のようにも写る。事実、ジョージ6世が吃音であることを多くの国民は知っていたようだ。
 スピーチという最も象徴的な悩みの場面に焦点をあて吃音が描かれた。自分の吃音体験を想起する場面が幾つもあった。映画の終幕のエンドロールが流れる暗闇のなか、自然と涙がこぼれた。吃音に感動できる自分が嬉しかった。

  感動だけではない 吃音の悩みは尽きない
                    大阪スタタリングプロジェクト 鈴木永弘
 スタジオマイクのアップで映画は始まった。
 砲弾のようなその攻撃的な形に一瞬、不安と緊張をおぼえたが、その映像のバックで流れている音楽はなんて心地よいのだろう。良さそうな映画だなあ、と思っているうちに淡々とした語り口に引き込まれていく。そしてエンディングクレジットを見つめながら余韻に浸っている自分がいた。
 とても感動し楽しめた映画だった。「楽しめた?」自分の吃音経験と重なり過去の出来事が蘇ったりして、観るのが辛く無かった? という人もいるだろうが、私は自分の経験を映画に反映させることはなかった。どうしてだろう。”逃げて来たから” ”努力しなかったから” ”何も達成して来なかったから” 私は映画のように大勢の前で話をしたこともなかったし、吃音を治すための努力もしてこなかった。吃音に悩みながらもどうすることも出来ずに、ただ吃音と共に生きてきた。それだけだった。
 もうずっと以前、吃音の為に何をすることも出来なかった頃、私はただひたすら映画を観ていた。いっぱいいっぱい映画を観るうちに自分なりの映画の楽しみ方や、好きな映画が見つかるようになった。それは娯楽作品ではなく、社会派のドラマでもなく、話題作でも超大作でもなかった。人間の内面を描いた小さな映画を探して観に行っていた。それらの映画はストーリーが分かり難かったり解釈が偏っていたり、一般的に退屈な内容だったりすることもあったが、私の感性を刺激することが多く、映画を観ることで人生を考えたり、幸せを感じたりしていた。
 「英国王のスピーチ」もそれに近い映画だった。歴史的な大戦前という時代を描きながらも、あえて限られた空間で吃音に焦点をすえていた。ラストシーンはドイツとの開戦時のスピーチだったが反戦映画ではなかった。それよりも国王のスピーチが無事に終わったことを全員が祝福しているようなラストだった。ウソのような話だが、あたたかいラストでもあった。そうあたたかさが全編に溢れていた。特に妻エリザベスの「”素敵な吃音、幸せになれそう”って思ったの」という台詞には、吃音を他人に理解してもらうだけではなく、こんな風に言ってもらえる人になれたら素敵だろうという思いを抱いた。
 映画では「対等と信頼」というような描き方をされていたが、ジョージ6世とライオネルの関係が対等を超えて友情に変わって行く様には熱いものを感じた。共にコンプレックスのある二人の心の触れ合いがテーマと言っても良いほど、私にはジョージ6世とライオネルの台詞が心に深く沁みた。そしてこの二人にそっと寄り添うエリザベスとローグ夫人。
 それに子供達までもが、幸せな感動をもたらしてくれた。吃音が治らなくても、信頼できる人が周りにいれば人は幸せになれるんだな。心地よい感動をもらって帰路についた。
 ところが、家に帰ってからどうも気持ちが沈んでいる。それは、私は映画とは違った人生を送ってきたことに気づいてしまったから。今も自分に自信が持てずに一人、悩みの中にいるのは、ずっと吃音と向き合ってこなかったから。きっと信頼を裏切るようなこともしてきたから。そんなことばかり考えて、少し落ち込んでしまった。
 でも、私も緩やかに変わっていると思ってみる。ジョージ6世がライオネルと出会って変わっていったように、私も吃音のお蔭で今、多くの大切な人に出会えていると思う。きっと自分で自分の世界は変えられる。
 そしてエンディング。カメラはジョージ6世を映してから、最後にライオネルを映してクレジットタイトルが流れた。(了)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/05/01

Follow me!