スタタリング・エッセイ・コンテスト
2007年、国際吃音連盟・クロアチア大会で、「スタタリング・エッセイ・コンテスト」が行われました。どもる人の個人の体験、吃音に対する感情、吃音に対する考え方を分かち合い、「吃音と共に生きる」ために役に立つ、生きる勇気がわいてくる、あるいはその感情に深く共感するようなもの、個人の体験を分かち合いたいとの提案から、企画されたものです。
大阪吃音教室は、これまで、「書く」ことを大切にしてきました。ことば文学賞を制定し、体験を綴ってきました。この活動によって、自分の体験を客観的にみることができ、後に続くどもる人たちに体験を残すことができています。
そのことば文学賞の世界版が、スタタリング・エッセイ・コンテストです。そのコンテストに応募した作品を、「スタタリング・ナウ」2006.1.24 NO.143 から紹介します。
どもりと仕事と黙認知(もくにんち)
峰平佳直(48歳 会社員 大阪府)
「将棋の駒が、音楽のメロディみたいに、流れるように勝手に動くんです」
「10年間1つの仕事に勤めていると、一般の人には見えないものが見え、聞こえ、臭うようになる。本では書けない、大学では教える事が出来ない技術、知識である。これを、黙認知(もくにんち)と呼びます。日本は黙認知を持ったベテランの職人が多くいたので、優れた製品が出来た」
20歳でプロの将棋の世界で一番強かった、羽生名人と、大赤字の伊藤忠商事を黒字経営に復活させた丹羽社長の2人がテレビで語っていた。
早稲田大学の近くにある、どもりの東大と呼ばれていた東京正生学院で、21歳の私は、3年間勤めている会社に4ヶ月の休職願いを出して、どもりを治すために必死になっていた。
「手紙がきてるぞ。これは、君の会社か」
学院の先生が渡してくれた手紙には、早く帰ってこいと書かれていた。大部屋で一緒に寝泊りしている友人がのぞき込んで言った。
「ほんまやったんやな。4ヶ月も休めるはずない、絶対うそをついていると、みんなで話していたんや。ほんまに、いい会社やな」
21歳の青年に理由も無く、帰ってこいと言う会社なんて私も無いと思う。私が抜けた事で、会社が困っているのである。
私は20歳で黙認知を持ち、21歳までの1年間、ベテランのような仕事をこなしていた。私の替わりに誰が付いても、10年ぐらいたたなければ私と同じ仕事は出来ない事は、うすうす分かっていた。私が、ベテランと同等の技術を持てたのは、特別に優秀であったからではない。どもって電話をすることを嫌い、電話から逃げる為に取った行動の結果そのようになったのだ。
18歳の新入りの私に与えられた仕事は、鉄板の切込み図面を書くだけの、誰でもできる単純な作業だった。しかしそれは、いろいろな不具合、不良品が出て来る。それを解決しながら、進めていかなければならない。また、不良品が出たら、関係者に電話をしなければならなかった。
私は受話器を取る。「み~み~・・・・」と声が出ない。「おまえ誰や」。電話の向うで怒鳴り声が聞こえる。私は何も伝言できずに、そのまま静かに受話器を置く事が度々あった。
その頃の私は、子どもの頃流行っていたボクシングの漫画、「明日のジョー」の主題歌を良く口ずさんでいた。「サンドバックに浮かんで消える、憎いあんちくしょうの顔めがけ、たたけ、たたけ、たたけ」。人生の勝負に負け続けている私にも、少しは男としての闘争心が残っていたのだと思う。
夢の中で、リングの中央でダウンしているジョーに、トレーナーのたんげのおっつあんが、泣きそうな声で叫んでいる。「たて、立つんだジョー。立つんだ」。私は、ぼうとしながら、自分に言われているように思い、布団から立ち上がる。
通勤の電車。私は椅子に座って、腰を曲げて、顔は床を見て、ぶつぶつ独り言を言っている。
「どうする。電話すら出来ないでどうする」
その時代は、大阪吃音教室の仲間など誰もいない。未熟で硬直した頭で出した答えは、電話がかかって来なくすることであった。そのためには、自分のミスをゼロにすることと、鉄板の切込み作業者のミスをゼロにすることだ。チェックリストを作り自分のミスを書き出して暗記する。見直しを何回もする。組み立て者と一緒に考え、組立者が質問した事は、次の物件では聞かなくても分かるようにした。設計者の図面が間違いを解決するために、設計者の300ページのカタログで、関係しそうな所を丸暗記した。
前向きでかっこいい話に聞こえるが、とんでもない。深夜になって、不安になり眠れず、しかたなく布団の中で、会社の書類を出して見ていた。
2年後、ほとんど電話がかからなくなった。全くトラブルがおこらないのである。不良品、不具合はゼロになっていた。20歳で、板金加工、組立作業、設計、自分の仕事に係る事、全て見えていた。図面を見ると、数字が勝手に浮かび上がってきて、わたしはそれをエンピツで書くだけだった。
しかし、電話が鳴るとビクッとした。どもる事に関しては、何も変わっていなかった。
21歳の時、どもりを治すために東京に行きたいと、4ヶ月の休職願いを会社に出した。本社の常務が会いに来て、休職の制度が会社には無い事を私に告げた。私は、「休めないのでしたら、退職手続きをとってください」と、どもらずに喋っていた。
20年後。会社はリストラの嵐が吹き荒れ、ベテラン社員が次々にやめさせられていく。仕事の状況が急変した。大量の見積を私1人で処理出来るはずが無い。客からは苦情の電話ばかりである。増員の要求は認められない。「どんどんくる見積をどうする」。今は会社を辞められない。家族、友人に、実情を説明して、正月以外は休日出勤をする事、朝3時ごろに家を出ることを告げた。
3年後の今は、近所の主婦3人のパートナーが、見積できるようにシステムを作り変えて、ようやく軌道に乗り、今年から、日曜日は休めそうだ。
この半年、さらなるリストラで、営業のベテランが次々退職し、私にもその危機は迫っていた時、全社会議で、幹部みんな一言発表することになっていた。当日私の順番が回り、マイクを持つ。社長始め100人の、社員の顔をしっかりと見て、そして、力強く、私は大きな声で、喋りだした。
「せせせせせ~きさんの。みみみ~ねひらです、ぜぜ前期は1日3億、1ケ月70億、1年850億の見積をしました。ここ今期は、部長より、原価の指示があり……」
席に戻ると、同僚が、「ぴったし、1分だ。それより、後ろの照明事業部の連中が、850億を聞いてざわついていたぞ」と、言った。この発表で私個人のリストラ問題は消滅した。
数日後、私の仕事を手伝ってくれているパートナーが、FAXで字が潰れたところが読めないとと聞いてきた。しばらく考えて、「消防認定キュービクル」にして下さいと、指示を出す。パートナーは首をかしげて、そのようには読めない、と言った。輪郭から95%はあっていると思う。
話の上手な新入社員が、電話の受付をして困った時、どもる私に助けを求めて電話を替わってくれと言う。また、違う分野で黙認知が生まれてきているのが実感できる。
20年前は電話を避ける為だったのが、今度は「妻子を養う為」と言う、人に話しても恥ずかしくない理由が有るのがうれしい。
吃音が「消える」とき
西田逸夫(54歳 団体職員 大阪府)
楽しかった同窓会が終わり、一緒に下りるエレベーターの中、オーディオマニアの友人がポケットからカセットレコーダを取り出した。
「お前のさっきの、面白かったな。ちゃんと取れてるか、回してみよか」
会の終わり頃に放った駄ジャレが大いに受けて、満足顔をしていた僕に、そう話しかけて来た。乗り合わせた数人も賛成し、巻き戻す友人の手の動きにつられるように、ぐるりと囲んで覗き込んだ。
食卓で親父が、毎日のように駄ジャレを飛ばす家で育った。夜中のラジオからは、よく落語が流れていた。駄ジャレや地口、語呂合わせが、放っておいても浮かんで来る頭の構造に出来上がっている。
どもりであることが邪魔をして、浮かぶ駄ジャレの大半はタイミングを失ったまま頭の中で空回りする。それでも、家の中や気心の知れた仲間うちでは結構口に出すし、悪くない確率でヒットを飛ばしているつもりだ。この日は懐かしい顔の揃った集まりだったし、酒が入ってなごんでもいたので、僕としては珍しいことに面白発言を幾つも繰り出し、終わり近くにも狙いすました駄ジャレを飛ばして座を湧かせたのだった。
友人は素早い動作でレコーダを操作すると、「この辺や」と言って再生ボタンを押した。録音された自分の声を聞く機会は、それ以前には少ししかなかった。レコーダを通した自分の声は、自分の耳で聞く声に比べて妙に甲高くて好きになれず、敬遠もしていた。しかしこの時は、自分がヒットを放った瞬間を聞けるというのである。期待して耳を澄ませた。
ところが、である。友人のカセットから聞こえた声は確かに自分のものであり、さっきの発言には違いがないものの、余りにひどくどもっていてそれが耳障りで、ちっとも面白く感じられないのだ。友人にもそう聞こえたらしく、首を少し傾げながら何度かテープを巻き戻して再生した。けれども、僕の駄ジャレがそれで聞き取りやすくなるはずもなく、会場での笑いを再現することは出来なかった。
今の僕なら、録音テープで自分のひどいどもり方が流れて来たら、それ自体を笑いの材料にして何か気の利いたことを喋るだろう。その時の僕にはそんな余裕などなく、ただ口を閉ざしてしまった。周りの仲間も白けたようになってしまい、エレベーターが下に着くと、別れの挨拶だけをして、そそくさと降りたのである。
実は、この友人が僕の発言を録音再生する出来事は、この数年後にもあった。その時は記録を取るという目的があり、全員の発言が取れているかをざっと確認したのだった。前回の録音再生でガッカリしていた僕は、この時は再生される前から幾分の覚悟が出来てはいた。それでもテープが回り始めると、何を言っているのか聞き取れないくらい激しいどもり方で喋る僕の様子を聞かされることになり、居たたまれない気持ちになった。そして同時に、不思議にも思った。録音テープを聞くと自分でも内容を聞き取れないのに、さっき話した時にはちゃんと通じていた様子だったのはなぜだろう。以前の同窓会でも、自分がひどくどもりながら喋った駄ジャレがその場のメンバーに大受けした。そんな時には、聞き手にはどんな風に聞こえているんだろう。
自分が笑われたのが、どもっているせいで喋り方が可笑しいからなどでは決してないはずだ。それなら、友人が人前でテープを再生するはずもない。「さっきのが面白かった」と言って再生してくれたのだ。わざわざテープを再生してくれた友人、一緒に聞こうと周りを囲んだ仲間達の好意が疑いのないものだっただけに、余計に納得がいかなかった。普段、自分の自覚よりも遙かにひどくどもっているんだということを、それ以来常に意識するようになったし、まわりにどう聞こえているのかを、始終気にするようにもなった。
そんな僕が、聞き手の側について考えるヒントを得たのは、それからさらに何年もたってからだった。
僕はある時、一週間ほどの休暇に、尊敬する知人の勤めていた札幌郊外の身障者工場でボランティアを務めた。宿舎の部屋の枕元に置いたコップの水が、朝になると底まで氷になったことを覚えているから、正月休みを利用してのことだったと思う。
その工場では、いろいろなタイプの障害を持った人たちが生き生きと働いていた。大きく分けてクリーニング部門と出版印刷部門があり、それぞれの障害と適性に合わせ、さまざまな機械を操作したり、その手伝いをしたりしていた。中でもエネルギッシュに働き、一段と目立っていたのは、一人の脳性マヒの男性だった。彼は、昼間は工場の重要な働き手として印刷機械と格闘し、夕食後は手話サークルを主催して聴覚障害の同僚と話せるようになろうと努めていた。
その工場に行く前にも、僕は脳性マヒの人と話したことはあった。ただ、そんな時にはいつも、相手の側の介助者が聞き取りにくい発声を「通訳」してくれた。でも、この工場の彼は、いつも一人で車いすを自在に操り、工場内を飛び回っていた。知人に奨められて初めて手話サークルに参加した時には、聞きたいことが浮かんだら直接尋ねるしかなかった。こちらは吃音で、彼は脳性マヒ。お互い聞き取りに苦労し、最初の会話では深いことは話せなかった。でも、何かお互い感じるところがあった。少なくとも僕はそう感じた。
その後は、昼休みに食堂で見かけたりすると、なるべく近づいていってこちらから話し掛けた。彼も辛抱強く会話の相手をしてくれた。やがて休暇の終わり頃、私が工場を去る直前くらいになると、彼の言葉がすっと耳に入って来るようになった。脳性マヒ特有の顔や手のけいれんも、口ごもって聞き取りにくい発声も気にならず、彼の話す言葉の意味がストレートにこちらに届くようになった。そうなると、いろいろな話題を共有出来ることが楽しく、ずいぶん深い内容まで話し合えた。冗談を飛ばし合ったりもした。嬉しかった。やっと通じるようになったのに、別れがすぐに迫っているのが残念だった。
脳性マヒの人の言葉を聞き取る僕の「能力」は、日常生活に戻るとすぐ駄目になった。それでも、たまに脳性マヒの人と話す機会があると、この時の経験があるので、簡単な会話を試みるようになった。相手の発声に慣れるだけの時間が充分取れる場合には、こちらの耳の状態が変わり、相手の言葉が聞き取れるようになると分かった。そんな時には、相手の障害のことは気にならなくなっている。会話に深く集中している。のめり込んでいると言っても良い。
何度かこんな経験をしているうちに気がついた。自分がどもりながら話している時の聞き手も、似た状態になっているのではないかと。お互いが深く話に集中している時は、言葉の障害や癖は気にならなくなる。お互いが会話の中身にのめり込むと、言葉の意味がお互いにストレートに行き来するようになる。極端な言い方をすると、そんな時には脳性マヒも吃音も「消えて」しまう。
昔の同窓会で僕が何を言って会場を沸かせたのか、今となっては思い出しようもない。でも、聞き手にはちゃんと届き、暖かい笑いで迎えてもらえたんだと、今では自信を持って振り返ることが出来る。
遠回りになったけれども、気づいたことは大きかった。テープを再生してくれた友人の好意は、僕にはとても有り難いものだったのである。
劣等意識
東野晃之(48歳 団体職員 大阪府)
私は13歳のある日を境にどもり出した。
中年を迎えたこの年まで他人に吃音をからかわれ、恥をかかされた記憶はない。他人の吃音への心ない言動で傷ついた体験などが、私の吃音の悩みの発端にはないのだ。だとしたらどもり出してすぐ、自分を覆い隠すほど大きくなった、どもりは恥ずかしいもの、人より劣ったものという劣等意識の原因は何処にあったのか?。少年期の記憶をさぐると周りの大人を含め、人は吃音や吃音者をどう見、評価しているのか、目や耳から入ってきた情報に影響を受けたようだ。
近所にどもる少年がいた。周りの子どもたちは私も含め、彼の吃音を面白おかしく真似た。そんな私を見て、「どもりはうつるから真似をしたらいけない」「どもりになったらあなたもからかわれ、真似されて惨めな思いをする」と、母親は言った。母親は私への気遣いや心配から何気なく言ったことだが、どもっていてはダメというメッセージは、私にすり込まれたのかも知れない。当時、テレビ時代劇などにどもりが登場した。やくざの親分、岡引など、ちょっと間抜けでおっちょこちょいな人物、ユーモラスだが、吃音は嘲笑の対象として扱われることが多かった。
少年少女向け雑誌を開くと、広告欄に吃音矯正所の広告がよく見られた。「吃音は治る」という目立つ見出しの後には、吃音を治さなければ大変苦労し、明るい将来は開けない、という文章が必ず添えられた。私が吃音の劣等意識を持つのに時間がかからなかったのは、どもりになる前の少年期にすでに否定的な吃音観を持つ下地があったからである。
長い間、吃音を隠してきた。私の吃音の悩みは、吃音を隠すことであった、といってもいい。友人との会話で言いたいことがあってもどもりそうだから言わない。どもりになる以前は、お喋りで洒落や冗談を言っては人を笑わすのが好きだった。しかし、今はどもるからなかなか会話に入っていけない。相手に吃音を知られないよう常に用心し、ことばを選んだ。相手のちょっとした表情の変化に、何気ない言葉に、吃音がばれたのではとビビリ、傷ついた。吃音恐怖やどもるかも知れないという予期不安は、吃音を隠すことから始まった。どもっていたら就職もできず、社会には出られない。吃音の悩みは年齢と共に雪だるま式に大きくなった私が長く吃音を隠し続けてきたのは、強い吃音への劣等意識を持ち続けていたためだと思う。どもりは恥ずかしいもの、人より劣ったものという吃音や吃音者への否定的な見方は、私の劣等意識を支えていた。これが偏見である、とわかるには長い時間がかかった。なぜ、どもりは恥ずかしいと言えるのか? 根拠は何なのか? どもる人は本当に劣っているのか? 考え、答えを出すには、多くのどもる人と出会い、吃音について学び、知ることが必要だった。吃音に対する偏見は、少年期から少しずつすり込まれ、それを疑うことなく信じ、悩みを深めていた自分に気づいた。社会の中の少数派である吃音者は、どもらない多数派の偏見にさらされる宿命にあるのかも知れない。が、一度すり込まれた偏見に気づき、剥がすためには、大変なエネルギーが必要である。しかし、少数派として自分らしく生きていくには、この偏見と向き合わなければならず、それもまた私たちの宿命であるように思う。
13歳を境に、どもらない人生と、どもる人生を歩んできた。多数派から、少数派に人生が変わった。小数派になったからこそ見えてくるものがあり、経験できたことがたくさんあった。2つの人生を送れるのは、自分にしかない幸せであるように思える。(了 )
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/08/13