どもりの壁

 「お前と話をしていても、聞いてもらっているという感じがしないんだよなあ」
 大学の親しい友人から言われたこのひとことは、もう58年も前のことなのに、今でもよく覚えています。「聞く」ということがどれだけ大切で、いかに難しいことかを、僕に考えさせてくれるきっかけとなったことばでした。大阪吃音教室の年間スケジュールの中には、「聴き上手になろう」とのタイトルの講座が必ず入っています。自分の吃音を否定せず、認めた上で、聞く力を磨くこと、この原点に立ち戻らせてくれる親友からのことばから始まる、「スタタリング・ナウ」2004.5.18 NO.117 の巻頭言を紹介します。

   どもりの壁
                      日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 「お前と話をしていても、聞いてもらっているという感じがしないんだよなあ」
 大学の親しい友人から言われたこのひとことが、私にとって人とのかかわりを見つめ直し、吃音についても深く考える、大きなきっかけとなった。
 「そんなことはない。僕はどもるからちゃんと話せないことはあっても、人の話は聞いている」
 冷や汗をかき、狼狽しながら弁明したものの、「どもり!」とからかわれ、「もっとちゃんと話せ」と言われたときとは全く違う、ずしっとした重いものが迫ってくる。他人に対して、面と向かって、「聞いていない」とはなかなか言えるものではない。私のことを思ってくれたからなのか、あまりに私の聞き方がひどかったからか、友人の思いは分からないが、とてもありがたいことだった。
 小学校二年の秋に吃音に悩み始めてからの私は、親しい友人も遊び友だちもいなかった。中学一年の夏からは家族とも話さなくなり、人と会話を楽しむことのない学童期・思春期を生きた。
 吃音を否定し、どもることを嫌悪していた私は、自分の口から発する「みにくいどもることば」を、自分の耳で聞きたくなかった。人前にさらしたくなかった。人と人とを結びつけ、楽しいものであるはずの「話すこと」は、私にとって苦痛以外の何ものでもなかった。
 「話すこと」が、他者と自分とを遠ざけてしまうことでしかなかったのは、私がどもるからだけではない。「じか」に目の前の人と対話をしていなかったからだろう。私と目の前の他者との間には、常に「どもりの壁」があった。相手に向かって話す前に、私はまず「どもりの壁」と対話する。「このことばはどもらずに言えるか?」と壁に問いかける。「大丈夫だ」という答えであれば、そのことばは「壁」を通して相手に発せられる。「どもりそうだよ」という答えであれば、瞬間に言えることばに言い換える。言い換えられないときは、話の流れが変わっても、とんちんかんでも、とりあえずどもらないことばを言ってしまう。相手は、「じか」の私にではなく、「どもりの壁」を通して対話をしていたことになる。これでは心の通い合う、他者とのふれあいが出来ないのは当然のことだったのだ。
 21歳の夏に初恋の人と出会った。「みにくいどもることば」を、その人は真剣に、楽しそうに、喜んで聞いてくれた。どもる恥ずかしさや、嫌な思いはすっ飛んで、気がついたら、私の「どもりの壁」がその時に壊れた。「どもって話せる」喜びと、人とふれあう喜びは、どもる人のセルフヘルプグループをつくる原動力となった。「どもりの壁」を通さない、「じか」の会話がこんなに気持ちのいい、楽しいものだったのか。毎日がお祭りのようなものだった。私はグループの中だけでなく、大学生活の中でもアルバイト先でも、どもりながらもどんどん話していた。だから、「どもりの壁」は完全に壊されたものだと思っていた。
 ところが、「お前は人の話を聞いていない」と友人に言われたのは、自分では壊れたと思っていた「どもりの壁」が、形を変えて、私と他者との間にまだあったことになる。私は人の話を本当に聞いていたのか。新たな私自身への問いかけが始まった。聞くことが出来たかどうかの点検が始まると、人と対話をすることが、これまで以上に苦しくなってきた。人と会うのが怖くなった。しかし、この苦しい作業は「じか」に人と対話をするためには、必要なことだったのだ。
 振り返ると、人との対話は、どもる私の言語訓練の場になってしまっていたのだ。人の話を聞いたようなふりをして、自分の話すタイミングをうかがい、話すきっかけに利用していた。とにかく話したい、話さなければとの思いだけが先走っていたのだ。
 相手の話は「どもりの壁」に当たってはね返されていた。話すときに感じた壁と、人の話を聞くときに自然にできた壁のふたつが壊れるにはまだ私には時間が必要だったということなのだろう。

 どもる私たちが、どもることを否定し、どもらないで話すことを求める限り、人との対話が「じか」であることはない。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/04/03

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