「福田村事件」を観て 関東大震災・福田村事件の教訓として~考えること・立ち止まること・主語を「私」で発信すること~

 

《事実を事実と認めない、日本政府と東京都》
 福田村事件のように、関東大震災後の、朝鮮の人への集団による残虐な行為を、記録がないとして、日本政府は認めていません。でも、最近、資料がみつかりました。ひとつは、そのころの小学生の作文、そして、もうひとつは、残虐な事件に出会った生存者の声がみつかったのです。クローズアップ現代から紹介します。この事実は認めざるを得ないものだと思うのですが、それでも、政府は認めません。信じられない私たちの日本政府です。小池東京都知事も、長年続けていた朝鮮人犠牲者の追悼文の送付を6年前にとりやめ、哀悼文書を決して送ろうとしません。自分たちが調べて確認した事実ではないから、他の人が調べた事実は、事実とは言えないというのでしょうか。怒りに体が震えます。

 まず、子どもの作文です。
・十二時頃 非常の太鼓が鳴り出した。青年団の人が『朝鮮人が放火しますからご用心して下さい』と言って歩きました。皆は驚いて青い顔をしていました。(西町尋常小学校 6年 男子)
・まるで戦地にいるようでした。通る人通る人皆はちまきをして竹やりを持って中には本当に切れる太刀を持って歩くのでした。(横川尋常小学校 6年 女子)
・橋を渡って一町ほど行くと、朝鮮人が日本人に鉄砲で撃たれた。首を切られたのも見た。
(横川尋常小学校 4年 男子)

 もうひとつは、テープに録音された生存者の声です。
 「(村人が)雲霞のように集結してきました。日本刀を持ったり槍を持ったり竹槍を持ったり猟銃を持ったりして集まってきました。朝鮮人に間違いないからやってしまえと。確認もしないで。一人に15人も20人もたかってきました。血柱がばーっとあがって」

 このように確かな証拠があるのに、認めようとしない背景には、黒い歴史には目をつぶりたいという意識があるのでしょう。なかったことにしたい、これは第二次世界大戦の敗戦の後、ずっと続いてきた日本政府の態度で、一貫した態度です。さらには、それは日本人の正当防衛だったという説も出ているようです。武器も何も持たない人に、正当防衛の主張が出てくることに、恐ろしさを覚えます。

《この映画から学ぶこと》
☆考えることを放棄しない
 村人は、なぜ、冷静さを保ち、自らの行為を止めることができなかったのか。中には、「慎重になろう」と、止めようとした福田村の村長など、複数の人がいたにも関わらずです。
 僕は、ひとりひとりがしっかり考えるということができなかったことが大きいと思います。朝鮮の人が毒を入れた、朝鮮の人が火をつけた、誰ひとり、そんなことを見たわけでもないのに、信じてしまいました。考えることを放棄したからでしょう。少数派にいると、常に考えなくてはいけませんが、多数派に入ると、安心です。考えなくてもいいのです。「寄らば大樹」です。
 これは、本当か、事実か、真実か、しっかり考えることができたなら、こんな悲惨な出来事は起きなかったでしょう。ちょっと待てよと立ち止まることが必要だったのです。
 在郷軍人の力が大きかったのも、怖いと思いました。軍隊、戦争、力で制すること、なんだか現代にも通じるきな臭さです。

☆集団の力
 農作業や冠婚葬祭のときの助け合いのための共同体は、いいものです。村という共同体の一員であるという意識は、安心・安全にもつながります。ひとりひとりの力は弱くても、みんなで助け合って生きていくのは、貧しい農村であればなおのこと、必要なものだったと思います。しかし、一旦悪い方向に歯車が回り出したときの集団の力は、とてつもなく大きくなります。同調圧力は、今も日本社会では重く感じます。

☆集団の力に対抗するもの
 集団に抵抗、対抗するものは、何か。監督の森さんのことばを紹介します。

 「集団が一斉に同じ振る舞いをするとき、少し周りと違う動きをする。それはちょっと大切な、ある意味で希望という言い方は大げさすぎるが、人間にはこういう可能性があるんだということは示したかった。そうした意識を持つ人がいることは絶対救いになる。それは映画の中でしっかりと描きたいと思った。同時にこうなってしまっては、もうそういう人たちを止められないというその無慈悲なまでの集団のメカニズムもしっかり描きたいと思った。
 集団に帰属することは人間の本能だから、それはどうしようもない。これは大前提。そのなかで埋没しない。集団を主語にしない。大勢の人を主語、つまり、われわれとか僕たちとか私たち、あるいは集団の名称を主語にしてしまう。会社であったりNPOであったり町内会でもいい。こうしたものは主語にしないことが大切だと思う。
 集団のなかの情報に対しても疑いの目を向ける。今、「クローズアップ現代」でこういうことを言っているが、これは本当にどうなのか、どこまでこれが正しいのか、と情報に対しては信じ込まない。多層的、多重的、多面的です。ちょっと視点をずらせば違うものが見えてくる。その意識をもつことが、僕は、リテラシーの一番基本だと思っている」

 映画を観て、集団が暴走するとき、個人はどうあるべきなのか、考えさせられました。映画の中に、ひとり、同調圧力が強い村の中で、集団に流されない存在として、東出さんが演じる渡し船の船頭さんがいました。監督の森さんが、自分の思いを重ねたのが、その船頭さんでした。事件の瞬間、倉蔵は村人の暴走を制止しようと最後まで立ちふさがります。役を演じた東出さんは、集団の中で個を保つ難しさを強く感じたといいます。

☆私たちに何ができるか
 森監督は、集団を主語にしないことだと言いました。私たちは、我々は、と集団を主語にして話すとき、注意深くならなければいけません。
 「吃音は治す・改善する」が圧倒的多数の中、僕は、常に「私は」を主語にして話したり、書いたりするように意識してきました。
 僕は、ガンジーのことば、「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。それをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」を思い出しました。
 
 また僕は、朝鮮の人が虐殺されたときに、吃音の人も間違って虐殺されたという話はよく知っていました。映画の中で、「十円五十銭と言ってみろ」と村人が迫るシーンで、どもって言えない自分自身の姿が思い浮かびます。これでは、僕も殺されるだろうとと、恐怖を覚えました。これに似たようなことが、今後も起こりそうな気がします。コロナ禍で田舎に帰省した大学生の家の玄関や車に「帰れ」と張り紙をされたのは、ちょっと前の僕たちが目撃した事実です。
 この映画は、ぜひ、多くの人に見ていただきたいと思います。事実を知ること、集団の力の怖さを知ること、個として考えること、それら多くの大切なことを、この映画が教えてくれています。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/09/16

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