ナラティヴ・アプローチ

 ナラティヴ・アプローチをテーマとした第20回吃音ショートコースは、ニュージーランド在住の国重浩一さんをゲストに迎え、滋賀県の琵琶湖畔で行われました。吃音ショートコースの最初のプログラムである出会いの広場から、国重さんが登場し、3日間、たっぷりと国重ワールドを満喫しました。
 「スタタリング・ナウ」2015.3.22 NO.247 より、第20回吃音ショートコースの報告を紹介します。

《2014年第20回吃音ショートコース報告》
   ナラティヴ・アプローチ

 楽しく豊かな3日間でした。報告を事前に依頼されていた私は、話に集中し、多くのメモを取りましたが、聞き違いや、記憶違いもあると思います。ナラティヴ・アプローチの講義の正確な報告や対談は、後日発行される、日本吃音臨床研究会の年報に委ね、メモと資料をもとに、今回は私個人の感想を交えて報告します。
               NPO法人 大阪スタタリングプロジェクト・川崎益彦

まえがき
 2014年10月11日、大型で強い台風19号が沖縄を暴風域に巻き込み、近畿地方に接近していたが、会場のアクティプラザ琵琶はまだ台風の影響もなく、穏やかな天気に恵まれていた。
 毎年素晴らしい講師が2泊3日の吃音ショートコースに来て下さり、ハードだが充実した時間を私たちは過ごしている。学んだことは、吃音だけでなく、仕事や家庭、生活の様々な場面で役に立っている。
 今年のテーマは『ナラティヴ・アプローチ』で、講師はニュージーランド在住の臨床心理士、国重浩一さん。今回の吃音ショートコースは、「これまで吃音ショートコースで学んできたことを整理し、発展させる集大成のようになる」と位置づけられていたため、どんな展開になるか、どのように整理されるのか、いつにも増してワクワクする。

出会いの広場
 吃音ショートコース20回目で初の試みとして、出会いの広場も講師の国重さんによる「ナラティヴ・出会いの広場」からスタートした。
 国重さんは初対面の人がいることを考慮し、全ての参加者が自然に分かるように”マッピング”した。まず、北は栃木県から南は鹿児島県まで、「出身地」別に並んだ。沖縄県から参加予定のふたりが、台風のためにいないのは残念だった。「出生地マッピング」「会場に来るのに要した時間」「参加回数別」などのマッピングに続いて、3人組を作り、順番に、自己紹介ではなく、自分が語りたいことを語り、それを聞いた人が相手を紹介した。
 国重さんは、ロシアの哲学者ミハイル・バフチンを例えて「自分自身を見るには他者の目が必要である」と話をされた。自分が明確に話したことでも、相手は自分が願うように受け取るわけではない。まして短時間で相手を紹介すると、自分が話してほしい内容ではなく、別のエピソードを紹介されることがある。他人が自分を紹介するのを聞く体験は、自分の望み通りではないが、自分の話した中のどの部分が相手の印象に残っているのかを知ることになり、興味深く楽しい時間だった。

日本人の英語と吃音
 夕食後、「ナラティヴ・セラピーの会話術」の講座が始まった。まず国重さんは、ご自身がニュージーランドに行って自分の話す英語について体験したことと吃音を関連づけて話された。これまで吃音に関心がなかった国重さんが、今回のために事前に吃音を調べ、考えてきてくださったことだ。

国重:私は今、ニュージーランドで生活していますが、私の話す英語は、ネイティヴの人にとっては、アクセントも違い、違和感がある、日本人の発音になります。ニュージーランドに来て、たとえば、「r」は、こういうふうに舌を曲げてと、どんなに練習してがんばっても、日本人の発音です。「th」「s」「r」「l」の発音は、「日本節」から逃れられません。多分10歳前後を超えてから英語の発音練習を始めても厳しいです。
 ニュージーランドに、遅くして移民で入ってくると、10年、現地にいても英語を全くしゃべらない人がたくさんいます。それほど言語は難しいのです。毎日「r」と「l」の発音を練習しても面白くありません。発音の練習を必死にして通じなかったら、目も当てられないです。だったら、練習せず、これはしょうがないとあきらめて、自分の英語で話していった方がいいだろうという気持ちになります。
 そうして話をしていくと、通じてくるときがあります。日本人の英語に慣れている人、分かろうとしてくれる人と話すと、ものすごく気持ちいいです。たとえば移民の人と話をするときです。韓国人は韓国人の英語、ソマリア人はソマリアの英語を話します。慣れないと分からない言葉がありますが、この人は、この音が言えないから、こういう音になるんだと学習すると、だんだん分かる率が増えてきます。分からない英語だとお互いに分からないので、「分かる?」と聞きます。すると「分からない」と答えられます。「うーん、じゃ、もう一度」とお互いに言う関係性が大切です。僕も文法のミスをするし、相手もミスをします。「僕の英語もだめだけど、お前の英語もだめだけど、まあいいじゃん」となると、気持ちよくしゃべることができます。ところが、失敗してはいけない、間違ったらどうするかと考え、きれいな英語をしゃべろうとしていたら、いつまでもしゃべらないので、全然伸びません。英語は文法どおり、教科書どおり正確に話そうと思っていると、絶対話せませんが、この人なら話してもいいんだと思って、間違ってもどんどん話す機会が圧倒的に増えていくと、うまくなります。
 この自分の英語でいけると思うのは、話し手の自己評価ではなくて、相手が理解しているかです。相手が分かってくれたら、これでいいと思います。重要なのは、相手に分かってもらえるということです。コミュニケーションは、双方の問題で、話して、相手が分かってくれて、初めて成立します。だから、相手の分かる力に頼るしかありません。変な発音で、極端な話、笑われても、バカにされても、オレは大丈夫なんだと考えて話していくと、英語は伸びます。どもる人にとっての言語訓練と類似性があると思いましたので、この話をさせてもらいました。

 この話で、僕は過去4度参加した吃音世界大会を思い出していた。僕は受験英語の勉強はしたが海外留学の経験もなく、当然発音もひどいので英会話が得意ではなかった。しかし、様々な国の様々な人々が自分なりの英語で話すのを聞き、僕も思い切って下手な英語で、国際吃音連盟の総会や世界大会のワークショップで一所懸命に話してみた。すると参加者は熱心に聞き、僕が何を言いたいか理解しようとしてくれた。下手な英語でも一所懸命伝えようとすると相手は聞いてくれた、うれしい体験だった。
 吃音も同じで、僕がどもりながら一所懸命話すと、相手は話を真剣に聞いてくれ、そのうち、相手は僕がどもっていてもまったく気づかなくなることが多かった。相手は僕のどもることばでなく、内容を聞いているのだろう。この前段の話に続いて、言葉によるやりとりの重要性へと話が進んだ。

ナラティヴの会話術
国重:「ナラティヴ・セラピーの会話術によって、どのような違った話が聞けるようになるのか」「どのように質問するのか」に興味を持ってほしいと思います。
 ナラティヴ・セラピーでは、セラピストは会話のほとんどを質問形式で相手に提示します。相手を探索するアプローチなのです。
 質問の形式が特定の答えを導きます。質問の形式の中に聞く側の価値観が含まれるのです。質問する方は気づかなくても、された方は分かります。たとえば、東日本大震災で被災された方に、ダイレクトに「悩み事は何ですか?」と質問してもシャットアウトされるだけです。それより「何があったか教えていただけませんか?」と尋ねると、相手は話してくれます。
 相手の質問に答えていくと、相手の望む話が出現してきます。あたかも自分が望んでいることであるかのような話として出現するのです。たとえば、被災した子どもたちの中にPTSDが必ずあると言われて、スクールカウンセラーとして派遣され、現地に行きましたが、2年間、世間で広く言われているような状況にはなっていないことも分かりました。「被災した、大変な状況にある子ども」と問題を名づけることで、抱えている問題が限定され、影響の範囲が明確になります。名づけた人にとっては、扱いやすくなるのです。

面接の録画を見る
 ナラティヴによる会話の例として、国重さんが研修会で臨床心理士に対して公開面接をしている録画を見た。国重さんが相手の話のどこをつかんで、どういう質問をするかに興味を持った。国重さんがアドバイスをするわけでもないのに、本人が自分で気づき、だんだんと納得していくように感じた。悩んでいる本人に目を外に向けさせる方法として、国重さんは次のように質問した。
 「あなたの仕事もそうでしょうが、そういう人がいたら、あなたならどうアドバイスしますか?」
 これは当事者研究の外在化と一緒で、自分の悩みを研究対象とする、自分で自分を分析する方法だと思った。また、国重さんは、相手のことを知りたいという気持ちが大変強いと感じた。ビデオを見ている時は結論に向かっているようには思わなかったが、面接終了時には、本人は納得していた。質問されて、話をすることで、自分の考えが整理され、方向性が見えてくるものだと感じた。
 僕は国重さんに、「面接の最後をどうまとめるか、分かっていたのですか?」と質問をしたのに対して国重さんは、「どうまとまるか全然分からなかった。最後自分でまとめてくれた」と答えてくれた。

〈参加者の感想と質問〉
・自分が、人との会話で質問できていないと思った。私なら、どうしても一問一答になってしまう。
・高校生の相談業務だが、高校生はあまりしゃべってくれない。質問を上手にしないと会話が成立しない。ナラティヴの会話術を学びたい。
・対処すべき課題が自分の中から出てきていた。
・常に繋がりのある質問をされていた。
・相手は、質問攻めにあったと思わないだろう。
・意図のある質問は誘導尋問にならないか。
・すっきりさせるために要約することがあるか。

国重:クライアントは解決したいものを持ってくる場合もあるし、解決しなくてもいい場合もあります。質問によっては、それ以降の会話をシャットダウンする可能性もあります。質問をする意図はありますが、話をどう持っていくかは考えていません。相手のことを知りたいだけ、分かりたいだけです。終着点に向かって会話を進めているわけではありません。シナリオがないのがポイントで、今、その人の話を聞いて展開しているのです。
 その人の提示したテーマの、そのとらえ方が変わり、対処の仕方を持って帰ってくれたらいいなと思います。あいまいなことではなく、具体的に取り組めることまで掘り下げることです。クライアントは、誘導されているように感じたかもしれませんが、相手も、この流れに乗って話してみようとしているように思えたし、私もその流れに沿っていきました。分かったような気になるのが要注意です。次にこのクライアントと会えば、全然違う話になるだろうし、それでいいと思います。
 相手との相互作用で、ことばを返す→腑に落ちる→腑に落ちなかったら、別の言葉で返す その繰り返しです。
 ここで、なぜ問題が存在し、存続するかを考えます。たとえば、不登校は、時代や場所、文化、言語によって問題は違った様相を見せるので、普遍的な問題は存在しません。問題を問題として認識するから問題になるのです。「さぼり」と「不登校」を比較すると、さぼりの方が学校に行きやすく、不登校となると、学校に行ってはいけない気になります。また、通信制を認めたら不登校はゼロになります。
 同じように、どもりもどもりを解決しようと取り組むから、流暢に話さねばならないとなってしまうのでしょう。1999年にリチャード・カールソンが書いた絵本「小さいことにくよくよするな!」(サンマーク出版)をきっかけに日本人はくよくよするようになったと言われます。この本は、カールソン自身「くよくよする人」を救っているつもりでしょうが、裏を返せばくよくよするシチュエーションを100個紹介しているのと同じことです。だったら黙っていてくれたらいいのに、まじめに対応するから問題が大きくなってしまいます。

自分の言葉と行動は自分のもの?
 この話を聞いて、僕は、確かにちょっとしたことを問題だと認識するからその問題は大きくなると思った。しかし、30年以上悩んできた自分のどもりについて、僕は決してまじめに取り組んだわけではない。「どもりのような、小さいことでくよくよして」と周囲からさんざん言われて自分でもそう思い、だからこそこんな小さなことで悩む自分を責め続けてきたのだ。
 国重さんの好きな言葉が”lt’s a show time!”(さあ、ショーが始まる)らしい。私たちは社会生活を送るのに、自分役を演じていると考えられる。教師の役や親の役、サラリーマンの役、カウンセラーの役など、その場面に応じて大変上手に、何の違和感もなく役を切り替えている。
そこから必然的に導かれる質問の形式は、「何があなたにそれをさせているのですか?」である。これが外在化する会話法である。
クライアントが「うつ」と言った時、セラピストは「うつって、誰が言ったことばですか?」と質問する。「うつ」を使ってもいいが、どの言葉を使った時にその人が自分の問題に取り組むことができるか。そういう意味で、質問には自分の哲学が出る。言葉があるから扱える。それは把握できる対象になる。もしも言葉がなかったら、自分の現象に対して何が起こっているか分からない。診断名、たとえばどもりという言葉は、当事者にとって大切な言葉だけど、それが社会で独り歩きしていくうちに、訳の分からないものになってしまう。だから当事者はいろいろな言葉で語っていかなければならない。ぴったりくる言葉を探したい。それは訳の分からない言葉を脱構築する。当事者が言うどもりと、社会を通じて個人に届いたどもりは別物なので、脱構築しないといけない。

 伊藤さんは、最近よく言われるようになった「吃音症」についてこう話した。
 「吃音を「『吃音症』と呼ぶ人がいるが、私は嫌いだ。本人にも、周りの人にも使ってもらいたくない。どもりには豊かな世界がある。ユーモア、特徴、苦しいこともあるけれど、それらを一つの症状・病気として見てしまうと、治したり改善したりしなければいけないものになり、それは豊かな世界を閉じ込めてしまう。それで誰が得をするのかと言うと、専門家であり言語聴覚士だ。吃音症を治し、改善してあげる専門職者としての役割意識をもつことができるからだ。これでは、吃音の豊かな世界を否定する気がする。ある言葉を使うと、あることは言えるが、別のあることは言えなくなる。非常に語りにくくなる部分に、とても大事なことが含まれている。どもりは文化だが、吃音症と言うと、病気になってしまう」
 僕もまったく同感で、僕は自分のどもりを平気で公表するが、「吃音症」と言いたくない。「吃音症」と言ったとたん、そこにどもりで困っている自分が存在する。

国重さんのインタビュー
 ナラティヴ的インタビューがどんなものかを紹介するために、どもる人と、ことばの教室の担当者にインタビューがなされた。その中の、どもる人に対してのインタビューを少し紹介する。

 奥田紗穂さんが、国重さんのインタビューを受けた。吃音に苦労したという奥田さんは、大学3年生のとき吃音のことを知り、昨年4月から大阪吃音教室に通っている。国重さんの質問をいくつかピックアップする。
・苦労っていうことばを使ったのは?
・どうして問題があったのにやってこれたと思いますか?(外からの目)
・初めて吃音を知った時の反応は?
・○○ができたと思っていいですか?
・ずっとがんばってきた自分を見て、どう思いますか?
・吃音の苦労で伝わらない部分って、何でしょう?
・僕が今質問していなくても、教えてくることってありますか?

 国重さんのこのような質問を聞いていて、僕はこれらは外からの目を意識させるような質問だと感じた。特に、理路整然と話す相手に何を気づかせるかであり、国重さんによってきれいに引き出された感じがした。僕の感想として、大阪吃音教室の講座では自分を発見する体験の方が多いと思うが、このセッションでは奥田さんが引き出された感じが中心のような気がした。
 奥田さんの振り返りによると、奥田さんは、吐きそうになるくらい緊張していたらしい。見ている側には分からなかったが、マイクを持つ手も震えていたらしい。奥田さんはインタビューが始まると、いつもより早口に答えていた。理路整然と答えていたのは、大阪吃音教室で話し慣れているからだろう。奥田さんは子どもの時からどもっていたが、自分の悩みが吃音だと知ったのは大学2回生のときで、自分の悩みの正体が吃音だと分かってホッとするのと同時にショックだったのはよく理解できる。それから奥田さんは大阪吃音教室に出会うのである。
 インタビューか終わっての振り返りでは、奥田さんは、緊張も解け、口調もゆっくりになっていた。手の震えも止まったらしい。話し慣れていることは早口だが、国重さんの質問で考えないといけない質問には、じっくり考えながら言葉を選び、自然と話し言葉もゆっくりになっていた。奥田さんのことをとても力強く感じるのと同時に少し楽になってもいいのではと思ったが、これも若さの特権かもしれない。奥田さんが大阪吃音教室に来た時から、特に吃音親子サマーキャンプに参加してから、大きく変化してきたように見える。奥田さんが最初来た時は吃音の悩みの中にいたが、サマーキャンプに参加したり新しい仕事を始めたりして、吃音と向き合う中で、自分の大事な人に吃音のことを伝えるようになってきたのがよく分かった。

インタビューのワーク
 国重さんの2人へのインタビューの次に、参加者が3人ずつグループに分かれ、1人はインタビューする側、もう1人はされる側、あと1人は両者を観るというように、順に役割を変わってインタビューの体験をした。
 僕がグループで感じたことは、インタビューが盛り上がらなくても質問によっては一気に答えが出てきたり、自分が持っていない視点からの質問をしてくれると嬉しいということだ。また、質問をした側がまとめるが、そのまとめ方も自分と違う他者の目から見たまとめなので、その違和感が面白かった。全員での振り返りでは、インタビューで難しかったこと、スクールカウンセラーとして仕事をしている人の感想として話さない子と40分間がんばっていること、テレビのインタビューでも良い質問があると覚えておく等の話が出た。

国重:相手にどの立場から語って欲しいのでしょうか? クライアントと言う立場は、相談や悩み、苦しみを持ってこないといけない立場であり、それを誰かに手伝ってもらわなければ自分ではどうしようもないという立場であり、この立場からある種の話し方が誘導されます。
 クライアント以外の立場とは、その人が自分の人生について最も知っているという立場であり、自分の子どもの頃について最も知っているという立場であり、今まで試行錯誤しながらなんとか試練を乗り越えてきたという立場です。
 震災被災後に聞いた話では、「被災者」という立場ではシャットアウトされるので、「1000年に一度の経験をした人」の話として、その人のサバイバルストーリーや武勇伝、ヒーロー物語を聞きました。

〈質疑応答〉
国重:何人かが「私もどもりです」とおっしゃいましたが、それを言わないと分からないというところも興味深かったです。人間は見た目だけでは分からないとよく分かりました。話を聞かないと、想像が及びません。語ってくれる人がいたら、許可をもらって質問します。物を見る視点、気づき、どもりの記事や文字などに目が留まるようになると思います。今後の自分の人生に大きな影響があると思いました。この気づきをもらいました。

藤岡:ナラティヴを通して人と向き合う時、人と生きていく姿勢が見えました。”It’s a show time!”とは、わくわくするが、どういう意味ですか?

国重:人は、いろんな場面でいろんな人に会うが、その場面以外でのその人がどんな人か全く分かりません。家で大暴れする人が、学校や職場で普通にしていることもある。そのギャップは大きい。その場面場面で見事に演じきっています。僕に見せるその人は、決してすべてを見せているのではない。いくらダメだと言っても、その人にはできる可能性がある。どもる人にとって、やるしかない状況に置かれた時、やれる力があることをカウンセラーが知っていること、その人を信じていることが大切です。

高木:教育現場の保護者へのナラティヴ・アプローチについて教えて欲しい。

国重:保護者は親であるべきで、母親として語ることを求められる。嫁・母・妻のいろんな側面がある。いくら他の役割で苦しんでいても、学校では母の役を期待されている。子どもが視点になるが、モンスターでも他でどんな大変なことを抱えているかもしれない。いろんな立場を聞く必要があるが、学校の先生の役割を超えているかもしれない。モンスターペアレンツは学校に来るのが嫌いだが、切羽詰まって来る。そこに来るまでどれほど大変で、苦しかったかがある。「ここまで来るの、大変でしたか?」の声かけで相手の声も変わる。ナラティヴは難しいから皮肉にも広がった。教員にとってどういう形が受け入れられるか。哲学には興味ない。脳停止、具体的な取り組みで脳が動き出す。ノウハウ本にはしたくないから葛藤がある。歩み寄っていくにはどういうところか。日本語の映像に日本語の字幕を入れて歩み寄るように、内容を発掘するよりもプレゼンテーションに力を入れるべきだ。(つづく)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2026/02/25

Follow me!