「凍える口 金鶴泳作品集」(クレイン) 2

 クレインの文弘樹さんから依頼を受け、「凍える口 金鶴泳作品集」刊行にあたって、本の折り込みの冊子に「金鶴泳の作品に寄せて」の文章を書きました。もう一度、読み直し、金鶴泳と彼の吃音に向き合って書いたものです。「スタタリング・ナウ」2004.8.21 NO.120 から紹介します。

  金鶴泳の吃音に悩む力
                             伊藤伸二

 「あれ、こんな始まりだったのか」
 ほのかな明かりを感じさせる夢から始まっていることに、不思議な感覚を抱きながら読み始めた。30年前に読んだ「凍える口」は、私にとって、暗く重い小説だった。金鶴泳と同じように吃音に深く悩んできた人間として、主人公の悩みや苦しみを自分のものとして重ねていた。以前読んだときは、おそらく何日か日をおいて読んだことだろう。ところが今回は、映画館で一本の映画を見るように、没入しているような感覚で読みきった。途中では中断することはできなかった。上質の映画を見終わったように私はほっと一息をついて本を閉じる。映画好きなうえに、主人公の悩みや苦しみを感じ取れるからだろうか、映像がイメージとしてくっきりと浮かび上がってくる。映画にできる、映画にしたいと強く思った。
 始まりの不思議な感覚は、最後の文章と結びついた。以前に読んだときには気づけなかったのだろうか。今日のこのさわやかな読後感は一体何だろう。読みながら私が流した涙と、読んだ後の心地よさは何なのだろう。それは小説の始まりと終わり方にあったのだと気づいた。
 胸苦しさと寂蓼をかみしめて、道子と別れて駅に向かう終わりのシーンは、私には寂しい思いだけを感じさせるものではなかった。彼はいつでも道子の元に引き返そうと思えば引き返せるのだ。
 この生きている社会で、誰からも愛されていないと思ってしまうことほど辛いことはない。自分を愛する人がいると心底感じることができたら、どんなにつらく苦しくとも人は生きていける。初めに出てくる夢の、彼が遠い山の彼方に見た「ああ、あれだ」は、道子への愛、道子からの愛だろう。「愛されていることの実感」だろう。
 自分の悩み苦しみと、他者の悩み苦しみを重ねて、金鶴泳はこれでもかこれでもかと吐き出していく。吐いて吐いて吐き出したときの虚脱感と、そこに入り込んでくるある感覚。小説を書きながら、彼は自分を生きていたことになる。
 苦しみにある人は、自らの苦しみを文章やその他の表現方法を使って表現しないと、いつまでもその苦しみは重いものとして、体内に残る。そして、苦しみや悲しみを体験し続けることで、ますます重いものになり、大きくふくらんでいく。金鶴泳が、「凍える口」を書いたとき、それはふくれきったものが爆発する寸前ではなかっただろうか。そうでなければあれほどの吃音の苦悩は書けるものではない。書くという表現手段をもった金鶴泳は、この自伝的小説に苦悩をぶつけていったのだろう。

 桶谷秀昭は金鶴泳論で、「吃音という、一見取るに足らぬ苦悩に固執することによって、《吃音以上の苦悩》、たとえば在日朝鮮人の民族問題を、ここで独特に語っているというべきだ。その語りかたこそが重要」だという(『新鋭作家叢書金鶴泳集』所収)。果たしてそうだろうか。小説の中では、吃音の悩みが解決しない限り、「在日」については考えられないと主人公に言わせている。これは金鶴泳のことばとして、素直に受け取るべきだろう。それほどに、彼は吃音に固執して悩んでいたのだと私は思う。それを桶谷のように言われてしまうと、金鶴泳の立つ瀬がない。
 周りの人からは、一見して取るに足りないと思われているであろうと自分も思える吃音に悩んでいることが、吃音に悩む人の苦悩なのだ。もちろん吃音があっても深く悩まない人はいる。金鶴泳には、それを苦悩とするまれにみる、「悩む力」があったというべきだろう。吃音という、話せる人間にとっては理解しがたい少数派の苦悩が、「在日」という日本では少数派であることに共振し、金鶴泳の文学として結実していったのではないか。
 私は、金鶴泳が吃音の苦しみを書くことで、吃音を対象化し、吃音の悩みから解放されたということを知っていた。当時、私が勤めていた大学の吃音の集中講義で「吃音を治す努力の否定」という私の提起について、五日間の合宿で考えることになっていた。その事前の学習のために、金鶴泳に「吃音を治す努力の否定」についてどう考えるかという不躾な手紙を出した。1974年のことだ。丁寧な返事にはこう書かれていた。
 「…吃音から解放されたきっかけは、小生の吃音状態をそのままに書いた作品を発表したことであったと思います。…吃音は当人にとってはこの上ない苦しみであるにもかかわらず、非吃音者にとっては、その辺が案外理解されていないと思います…」
 この小説が多くの人に読まれることが、吃音に悩む人だけでなく、様々な少数派の苦悩への理解につながることだろう。
(1944年生まれ。日本吃音臨床研究会会長。著書に『新・吃音者宣言』芳賀書店、1999年など)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/04/19

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