あきらめ上手

 「あきらめる」ということばからは、マイナスのイメージが連想されるようです。でも、語源にあたってみると、そのイメージが変わることが少なくありません。「あきらめる」は、「明らかに見極めること」、そう知ってから、僕は、「あきらめる」を大切なことばとして使うようになりました。
 学習・どもりカルタにも、「あきらめる 治す努力はしないけど、よりよく生きる努力する」があります。
 何をあきらめ、何をあきらめないのか、「スタタリング・ナウ」2003.7.21 NO.107の巻頭言を紹介します。

あきらめ上手
           日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 「あきらめなかったから、今の私がある」と、人生を振り返るテレビ対談番組がある。「決してあきらめない」「がんばる」「一生懸命努力する」は、日本人の好きなことばだ。
 私は、「あきらめたから、今の私がある」と、最近よく言うらしい。言うらしいというのは、自分では、あまり意識はなく、これまで主張と変わることがないからだ。ところが、この夏、二つの言語聴覚士養成の専門学校では、学生のふりかえりに、「あきらめる」という私のことばに対する反応がとても多かったのには驚いた。
 「あきらめる。このことばは、負け、マイナスのイメージが私にはありました。あきらめるということが選択肢の幅を広げることになる。このような意見や考え方を持った人に初めて会いました。あきらめることで見えてくるものが多くある、本当にそうだと思いました。ベースにある人生観、人間観を変えなければあきらめることは何もマイナスではないことを学びました」
 このような感想が多く出されたのは、「何でもすぐにあきらめてしまう」や、「あきらめずに執着する」のとは違うものを感じ取れたからだろう。
 あきらめるは、仏教用語の「諦める」の、「真実を見極め、明らかにする」が語源だが、現在は一般的に、「中止する、放棄する、断念する」といったような、消極的な意味に使われている。広辞苑では、「(明らむの意から)思い切る。仕方がないと断念したり、悪い状態を受け入れたりする」とあり、諦観と断念の意味が含まれ、決して消極的な意味合いではないことがわかる。

 「変えることができるなら変えていく勇気を、変えることができないならそれを受け入れる冷静さを、変えることができるかできないか見分ける知恵を」
 神学者ニーバーのことばは、まさに「あきらめのすすめ」だ。多くのセルフヘルプグループが大切に伝え続けてきたのは、あきらめないと損をするのは自分自身だからだ。
 1965年、吃る人のセルフヘルプグループを作ってからの初期の7年は、吃音の真実を見極める時期だった。「吃音は治る」は本当にそうか。どのような方法で、どれだけの時間努力すればいいか。これまで実際に治った人はいるのか。治すための指導者はどのような人で、どれだけいるのか。
 事実を明らかにしていくと、治療法がなく、治っていない人の多い事実に向き合うことになる。
 あきらめるには、このような見極める手続きが必要だ。この手続きをおろそかにする人は、「なんでもすぐにあきらめてしまう」か、「あきらめられずに執着する」かになってしまう。何を断念して、何を断念しないで追求していくかを見極めることが出来るのを、「あきらめ上手」という。自分にとって起こる可能性が極めて低いことや、人間にとって宿命ともいえること、済んでしまった過去のことについてあきらめるが、あきらめる必要がないことは、とことん取り組んでみる。
 新しい一歩を歩み出すとき、これまでの思いを切っていかなければならない。吃音が治ることを夢みて、今を仮の人生だと思っていた私にとって、治ることをあきらめることは、どもっている自分を肯定し、自分の人生を歩む出発となった。国語の朗読ができず、人前で決して話すことがなかった私は、どもっていては話す仕事にはつけないと思い込んでいた。それが、吃音が治ることはあきらめたが、自分の人生をあきらめずに、私は大学の教員という仕事についた。どもりが治る、軽くなることはあきらめるが、自分自身の楽しい、豊かな人生は決してあきらめないと、自分のしたいことや、楽しいことに取り組む人は実に多い。
 「吃音を治すことはあきらめ、吃音の真実を伝え、吃音に苦しむ人と共に泣き、選択肢を一緒に考え、本人のしたいことであきらめる必要のないことに取り組む、その人の人生を支援する」
 このような吃音の専門家が増えることを、私はあきらめない。(「スタタリング・ナウ」2003.7.21 NO.107)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/02/29

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