どもる子どもの交流活動

 千葉県のことばの教室との関係は古く、ひとりの担当者が、僕たちが送った案内のチラシを見て、吃音ショートコースに参加したことから始まりました。吃音ショートコースから吃音親子サマーキャンプへ、そして、ひとりの担当者から複数の担当者へと、広がっていきました。
 千葉県とのつながりの歴史を見ているような今回の実践の紹介です。「スタタリング・ナウ」2003.6.21 NO.106 に掲載の実践を紹介します。

子どもが自分の吃音と向き合うことができるような活動の工夫~どもる子どもの交流活動を通して~
           渡邉美穂(千葉市立誉田東小学校ことばの教室)

はじめに

 私たちがことばの教室で出会う学童期のどもる子どもは、いわゆる二次性吃音に移行しつつある子どもたちで、どもること以上に話すことへの不安や、どもることへの恐れをもち始め、話すことを回避するようにもなって来ている。話すことへの不安や恐れから、コミュニケーションや自己表現に対して消極的になっていく。私たちは、ことばの症状の問題よりも、このほうが大きな問題になっている子が多いと考えた。
 アメリカの言語病理学者、ウェンデル・ジョンソンは、吃音の問題をX軸(吃音症状)、Y軸(聞き手の反応)、Z軸(本人の吃音に対する態度)からなる問題の箱として表した。ことばの教室の担当者としては、X軸である吃音症状の消失および改善を要請されているのだろうが、吃音は未だに原因も解明されず、吃音治療法も確立されていない。国語の朗読は苦手だが、通常の会話にはあまり困難を感じていない子ども。反対に、普段はどもるが、国語の朗読や発表は得意な子など、吃音の症状は現れ方も、現れる場面も様々である。私たちもこれまで、ことばの教室などで実践され報告されてきたいくつかの吃音症状に対する指導方法を試みたが、私たちにも、子どもたちにとっても、納得できるものでなかった。
 ジョゼフ・G・シーハンは、吃音を氷山に例えた。人が見ている部分の吃音症状は、吃音のごく一部分で、水面下に沈んでいる氷の固まりが大きい。それは、どもることへの不安や恐れ、回避で、それこそが吃音の大きな問題だと指摘した。ジョンソンにしても、シーハンにしても、吃音症状以外のアプローチの重要性を提唱している。
 どもることに不安や嫌悪感を持ち始めている子どもたちの吃音に対する不安や悩みを、私たち担当者はどれだけ受けとめているのだろうか。何ができるだろうか。どもる子どもたちに「どもってもいいよ」と言ってきた自分自身が、本音で言ってきたのか。吃音に直に、からだや心で感じる経験をしたい。
 今後、通級してくるどもる子どもにどう向き合えばいいかを、私たちは模索し始めた。

交流活動の経過
1996年
「他にもどもる友だちがいるんだよ」【情報提供】

 先輩のことばの教室の担当者が、日本吃音臨床研究会の吃音ショートコースに参加した。「どもる子どもが大人になったらどんなふうになるのか。どもりについてもっと知りたい」との思いからであった。そこで、たくさんのどもる人と出会い、触れ合いの中で、これまで気づけなかった自分の教師としての打算的な、また何かできるはずだという思い上がった態度に気づく。「どもらない私には何もできないのか」と、落ち込みながら、成人のどもる人Mさんの、「どもりを治そうなんて思わんといて。ただ、友だちになってくれるだけでええんよ」のことばに救われ、「ことばの教室の教師として、何かをしてあげるではなくて、何もできない。しかし、友だちになることなら、私にもできるかもしれない」と、これまでのどもる子どもとのつきあいを点検していく。
 「どもるおっちゃんやおばちゃんにいっぱい会って来たよ。素敵な人ばっかりだった。どもり、治らないかもしれないけど、大人になっても、大丈夫だよ。みんな、魅力的にどもってたよ」との話を当時3年生だったA君は、「はあ、そうですか。それで?」といつもの調子で話を聞いていたようだ。しかし、からだは前のめりになっていたことで、自分以外のどもる人のことについて興味をもったことは理解ができた。(つづく)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/02/22

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