私と『スタタリング・ナウ』(7)

 合理的配慮について、その危惧について話すとき、僕はいつも、平井雷太さんの「いじめられっ子のひとりごと」の詩を読みます。吃音に大きな劣等感をもつきっかけとなった小学2年生の学芸会で、セリフのある役を外された体験に関連してです。担任の不当な差別だとしか考えていなかったこの出来事を、教師の配慮だったのかもしれないと考えるようになったきっかけをつくってくれたのが平井さんの詩です。教師の配慮が僕を21歳まで苦しめたというものです。配慮で助かる子どもも多いだろうけれど、僕のような子もいるということを、心に留めていただければと思います。平井雷太さんも、メッセージを寄せてくださっていました。

  『吃音者宣言』の意味
               平井雷太 セルフラーニング研究所所長(東京)
 伊藤さんとの出会いは、私が書いた「いじめられっ子のひとりごと」という詞です。高校までは私と同じクラスになった場合には、私がどもりであることはバレバレであったのですが、大学に入ってからは教師に指名されることがほとんどないため、私がどもりであることはほとんど知られずに来たのです。バレそうになるところは、無意識のうちに避けていたのですが、5~6年前にたまたま書いた詞にはじめてどもりのことを書いたら、それが伊藤さんの目に止まったのです。
 そして、伊藤さんに大阪の研究会に呼ばれ、みんなの前でどもりの話をしたのですが、私にとっては初めての体験でした。それ以来、講演のなかで、自分がどもりであることを話すことに抵抗がなくなりました。どもりであることを知られることが恥ずかしいと思っているから、どもらないようにうまくやろうと思うことで失敗した場面が浮かび、ますます緊張し、冷や汗をかいたりしていたのですが、どもる私を否定していた結果なのでしょう。あるべき私像が私のなかにあるから、そうでない私は許せない。だから、どもりであることを隠そうとして、苦しくなっていたのでしょう。どうも、これが、「どもることが恥ずかしい」と思う感情の正体だったように思うのです。ですから、「私はいまでもどもるんです」と人前で言えるようになったというか、どもりであることを人前で言う機会をいただいたことがきっかけになって、どもること自体が恥ずかしいことではないことに気づかされました。これは私にとって、大きな気づきとなりました。
 私は教育の仕事に携わりながら、自分自身苦手なことを避けてきたきらいがあるのですが、苦手だからいい、嫌いだからそれが課題になると思うようになって、古文が苦手で音読なんて決してやったことがなかった私が、いまは紀貫之の古今和歌集序文「仮名序」を毎日音読するようなことをしています。読書百偏とはよく言いますが、実際に100回やるとどうなるか、その実験をした人はそう多くないと思うのですが、そんなことをやってみようかという気になったのも、どこかどもりであることをカミングアウトしたこととつながっているような気がしているのです。どもりであることを自分に認めて受けいれたことで、どもりを私の課題として、どもりを治すことを目的にせず、そのことに向かうことが50を越えてやっとできるようになったのかとそんな心境です。今日もこれから「仮名序」の音読をしますが、34回目となります。
 この文章を書く機会をいただいて、書いているうちにまた見えたことがあります。ここまでを要約すると、次のような内容になるのかと思いました。

 どもりであることを隠そうとしたのは
 どもりである私を私が受けいれていなかった証拠だ。
 どもりである私が許せないから
 どもることを恥ずかしいことだと思ったのだ。
 「吃音者宣言」(伊藤伸二著)の意味がやっとわかった。

【平井さんの「やさしさ暴力」が、私の吃音への苦しいこだわりは、小学校2年の担任教師の配慮だったのではと、「配慮が人を傷つける」に結び付きました】

  連帯感
                       安藤百枝 言語聴覚士(東京都)
 作成される側には生みの苦しみがあるのかもしれませんが、読者としては毎号ワクワクしながら灰色の封筒を開くのです。他の団体からもいくつかのニュースレターを受け取りますが、「スタタリング・ナウ」ほど到着を楽しみにし、受け取るとすぐに読むレターはありません。特に巻頭言は一字一句丁寧に、繰り返し読んでいます。特別、吃音の情報が欲しいわけでもないのに何故? と自問自答しているのですが…。
 巻頭言にはひとつひとつのことばに筆者の「思い」があるからでしょうか。共感し、励まされ、勇気づけられることが多く、すごい吸引力で多くのことばが私の胸に棲みついています。テーマは吃音であっても、根幹に人を愛し、深く理解しようとする情熱と人間味あふれる優しい目線を読者が感じとり、巻頭言を通した読者と筆者、読者どうしの共感や連帯のようなものを感じているのです。(私だけが一方的にかな?)
 記事への提案です。巻頭言に続いてショートコースやキャンプ等いろいろな行事の報告は、全部に参加できない者にとって時系列にそった報告がリアルでとてもありがたいです。これはぜひ続けて下さい。そのほかに、年に一回くらい、紙上討論(?)があるとよいかなと思います。基調講演のような形で討論内容が提示され、それに対する意見を読者から募集、次号か次々号で特集にするという訳です。作成・編集が大変だろうことは想像つきますが、ホンネの意見が出し合えたらいいなーと思うのです。

【どもる子ども(今は青年)の親から、言語臨床家へ。日本吃音臨床研究会の活動を親の立場から提言を続けて下さる。紙上討論、取り組んでみたいと思います】

  理論と実践、そして体験
                  高橋徹 詩人、朝日新聞客員(兵庫県)
 継続は力なり、という。まさしく伊藤伸二さんの『スタタリング・ナウ』がそうである。理論と実践について述べ、協賛者が報告し、会員が体験を披露。どもる人によるわが国初の定期刊行物。そのエネルギーは、まばゆいばかりだ。
 おとなたちにまじって、少年や少女もいる。みんな輪になっていすに座っている。リーダーら世話役が会をすすめていく。まさしく血の通った親愛感にあふれている。こんな集まりを続けている伊藤伸二さんらに、敬意を捧げずにはおられない。どうぞどうぞますますのご発展を。

【私たちは文章を書くことを吃音教室で続けているが、その講師だけでなく、ことば文学賞の選考者として、どもる人の体験をよく理解し、共感して下さっています】

  当事者に学び、周囲の理解を深めよう
          野木孝 全国言語障害児をもつ親の会事務局長(福島県)
 最近ようやく、吃音症状にのみ目を奪われる人が多かった親の会や学校の「ことばの教室」担当者の研究会でも、当事者の思いを理解し、当事者から学ぼうとすることが、盛んになってきました。
 症状を消去することに腐心する保護者や「指導」をしないと気の済まない先生が多かった時期を知っている者としては、昔日の感があります。
 これも長年にわたる貴研究会の活動の活動の成果と、改めて敬意を表します。
 「ことばの教室」に通級している子どものことを考えると、通級するのは週に1~3回のみで、学校生活の大部分を通常の学級で過ごしますので、通常学級担任をとりまく子どもの集団の理解を深めることが重要と考え、「ボランティア研修会」などを通して、周囲の人々の理解を深めることに努力しているところです。
 今後ますます、このような活動にお力添えやご指導を賜りますよう、お願い申し上げます。

【30年前、全国吃音巡回相談会の福島会場でお世話下さった時は、ことばの教室の先生でした。長年の臨床を経て、今は親の会の事務局長としてご活躍です】

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/01/25

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