子どもへの支援

 先日、三重県津市で、今回で最後だという中学校の同窓会が開かれました。何ひとつ楽しい思い出のない中学校の同窓会に参加するなんて、考えられないことでしたが、楽しいひとときでした。同級生が偶然にみつけてくれた『新・吃音者宣言』についての、『週刊エコノミスト』(毎日新聞社)での芹沢俊介さんの書評のおかげです。ファックスでその記事が多くの同窓生に紹介され、強引に僕を同窓会に引っ張り出してくれたのです。いやいやながら、大きな不安を抱えて参加した同窓会で、友だちは一人もいなかったと思っていた僕に、「伊藤と一緒に、お伊勢さんまで自転車で行ったな」と声をかけてくれる人がいたりして、クラスの中に確かに存在していたのだと思えるようになりました。
 中学3年生の担任は、石田秀夫先生で、まだ存命ですが、さすがに2023年の今回の同窓会でお会いすることはできませんでした。2002年の「スタタリング・ナウ」NO.95には、石田先生が登場します。吃音に深く悩むようになったきっかけのエピソード、今は、先生が子どもに語りかけることばは大切だということを伝えるときの導入に使わせてもらっています。

  子どもへの支援
                 日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 「お前は、嫌な奴だなあ。自首してきたら少しでも罪が軽くなると思ったのか?」
 中学3年生の時の担任教師の、見下し威圧するような姿勢と、一喝したこのことばが私を射る。さらに、その学期の通信簿の行動の記録の〈正義感〉の項目欄に、赤い大きな×が入れられていた。
 「卑怯な嫌な奴! 正義感のない最低の人間!」
 ことばだけでなく、後々まで残る通信簿でのこの烙印は、ずっと私を苦しめた。長い間、この卑怯な最低の自分が好きになれなかった。
 この教師のことばに、態度にどれだけ傷ついたことだろう。少しは残っていた勉強への、まじめさや意欲はこれで完全に消えた。その日からますます映画館に入り浸り、夜の町を彷徨った。学校生活の中での勉強も、遊びも、楽しさも、私には無縁になった。
 自分がひねくれており、甘えであり、言い訳だとは分かっている。でも、私を罵倒する前に、こう聞いて欲しかったとの思いは残る。
 「この補導週間には、絶対に映画には行くなよと、あれだけ言っておいたのに、伊藤、お前はまた映画館で補導された。警察が見回ることを知っていながら、映画館に行くとは・・。そんなにまでして行くには、そうせざるを得ない何か理由があるのか?」
 教師になりたての血気盛んな熱血教師に、このような問いかけは無理だったのだろうが、もし、このように問いかけてくれていたら、私は、どもることへの悩み、苦しみ、学校が怖いことなどを一気に若い担任に話していただろう。それを聞いてもらえば、随分と楽になったかもしれない。学校が好きになったかもしれない。勉強しないで、映画館に入り浸るのは、映画好きではあったが、週に2回も行くほどのことではなかったのだから。学校が楽しければ、友達がいたら、警察に追いかけられてまで映画館に入り浸らなかったろう。今から思えばだが、警察につかまり、担任教師に叱られても、こう担任が問いかけてくれるのを待っていたのかもしれないとさえ思う。
 いつ、当てられるか針のむしろに座っているような、どもることへの恐怖と不安。誰にも分かってもらえない、この苦しさや苛立ち。学校では孤立し、家庭ではことごとく母親に反抗し、家族と対立していた。学校にも、家庭にも居場所がなかった私には、映画館だけが安心していられる唯一の居場所だった。『夢と冒険と愛』自分にはとても実現しそうにない空想の世界がそこにはあった。一時的な逃げであっても、あの当時の私には、映画の世界が、生き延びる術だったのだ。
 この担任教師のひとことで、屈折した私の心は、さらにずたずたになり、「あの教師だけは許せない」と言い掛かりのような思いを、ずっと持ち続けた。その担任教師と、今年の5月4日、42年振りに再会した。三重県の津市で開かれた中学校の同窓会に参加したのだ。一昨年、ガンとの闘いから生還した担任に、励ましの手紙を出してくれという同級生からの連絡をもらったが、手紙を書く気にはなれなかった。それから一年、同窓会に担任教師は参加するという。今度は、同窓会の前に、思春期の吃音の苦しみを綴った『新・吃音者宣言』の本を、手紙を添えて送った。すぐに返事が来た。「君のことは良く覚えている。君の活躍がうれしい」との手紙をもらっての再会だった。
 「当時、おれも教師になりたてで、血気盛んで、いい教師になろうと一所懸命だった。お前達をよく怒ったなあ。伊藤、お前はよう映画館でつかまっていたなあ」
 「嫌な奴だ」と吐き捨てたこと、通信簿の〈正義感〉の項目に赤い×を入れたことを、この担任は覚えていて、こう言っているのだろうか。
 揺れる思春期に、大人である教師のことばは子どもにここまで大きな影響を与える。私が吃音に深く悩むきっかけとなったエピソードのひとつだ。
 一方、私を長い間励まし続けたことばがある。小学校1年生の1学期の半ば、山奥から地方都市の中心に引っ越して来た、不安一杯の私に、担任教師はいつもどもりながらも元気なだけがとりえの私を誉めてくれた。
 『大きな声で返事ができることクラス随一である』
 通信簿の所見欄に書かれたこのことばが、どれだけ私を励まし続けてくれたことだろう。吃音に悩み、だんだんと消極的になり、元気がなくなり、声が小さくなっていく。でも、あんなに元気な頃もあった。いつか、その頃のボクに戻れるんだ。そう思って自分を支えることができたのは、通信簿のこの所見だった。
 この夏、臨床家のための吃音講習会で、どもる子どもへの支援の在り方について学び合う。どもることで苦戦をしている子どもたちに、大人の私たちは何ができるだろうか。(「スタタリング・ナウ」NO.95 2002.7.20)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/11/15

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