障害を生きる4 病気や障害とどう向き合うか~河辺美智子さんの体験から~

 河辺さんの体験を今、再び、読みながら、そのときももちろん感じたと思いますが、本当に壮絶な経験をされたのだと思います。小学1年生の本を買ってきて、「あいうえお」から始めたということ、血のにじむような思いでした、と話されましたが、この体験には圧倒されます。担当の医師もびっくりして、河辺さんの努力を見守っていたことでしょう。この粘り強さには、最大級の敬意を表します。
 僕の電話相談、吃音ホットラインには、吃音について真剣に向き合って、いろいろとネットで探して、やっと僕のところにたどり着いたという、切実な電話も少なくありませんが、「吃音症なんです。どこか、治してくれるところを教えてください」という軽い調子の問い合わせもあります。比較するものではないと思いますが、うーん、なんだかなあと思ってしまいます。1965年頃、僕が「吃音を絶対に治す」のだと訪れた東京正生院で出会った人たちの中には、血のにじむような、吃音を治す努力をしていた人がいました。僕は30日間の寮生活の3日目には、この方法では治らないと見切りをつけて、30日間をどもり倒して、どもれる体になれたのですが、このように必死で治す努力をしている人には敬意を表していました。河辺さんの努力はすさまじいものです。
 昨日のつづきです。

  病気や障害とどう向き合うか 3
                             河辺美智子(61歳)

退院
 「24時間世話しないといけないから、娘さんが仕事を休むか、ご主人が仕事を休むかして世話して下さいね、そうじゃないと退院させられません」
 娘の名前も言え、病院とも分かり、自分の脳の障害もだいぶ分かってきたから、退院したいと申し出たとき、こう言われました。家族にそれだけの世話を受けなければいけない、この現実が受け入れられなくて、死にたいと思いました。病室が13階でしたから、飛び降り自殺を実行しようとしたのですが、大きな窓はほんの少しだけしかあきませんでした。
 自殺を常に考えている私に気づいた担当医から、ひとりにしておいては危ないから、誰かついていて下さいと言われて、入院している夜は必ず誰かがついていました。
 それまでは、おしゃべりだったのが、自分がひどい障害者だと気づいたときから、自殺を考え、沈黙するようになりました。無口な人ということになった。私が静かになって無口でおとなしくしているから周りは楽だろうと思ったのに、娘は苦しくなったと言います。自殺しようと思ったときには、幻覚、幻聴が出ました。13階の窓も、くっと押したらあけられるような、そんな幻覚も出てきた。ずっと13階なのに、窓の外から歩いてくる人がいたり。私がベッドに横になって、誰か娘や友だちが来たりしても、誰もいない方に向いて、その人にしゃべっている。そのとき、幻覚で誰かを見ていたということですね。そっちを向いてしゃべっていた。ふんふん、そうやなあと言い返している。
 自殺をなんとか思い止どまったのは、やっぱり娘がいてたからですね。娘が「結婚式も見たいやろ。それまでは、何もできなくていいやん、生きていてくれてるだけでいいやん」と言っくれた。娘たちがなんとしてでも生きていてほしい、何もできなくてもいいから、家でずっといたらいい、と言ってくれました。

日常の生活こそ
 家に帰りたい帰りたいといくら頼んでも、危ないから帰せないと、2ヵ月近く入院していました。それでものすごく退院が早いと言われました。それは、一時帰宅が有効だったからでしょう。
 ホテルと間違っていたのが病院だと分かったり、自分の病気についても分かってきたので、ここにいるのが嫌だから、土日は家に帰りたいとお願いしました。
 「家族がしっかり世話なさるんだったらいっぺん帰らせて下さい。ただし、ひとりで外へは絶対出さないで下さい。必ずここへ迎えに来て、ここへ送りに来て下さいね」
 と、きつく念を押され、金曜日の晩に、娘らが仕事が終わって迎えにきてくれました。タクシーに乗っている時、ビルが車に覆いかぶさる見えたり、駅について歩こうとしたら、下は道なのに、川のように水が流れているみたいに感じ、さわっても水じゃない。こわくてこわくて歩けない。娘にへばりっいていました。
 ところが、家に帰ったとたん、玄関、台所、トイレ、おふろと、分かったんです。ここはトイレや、カギはここやと。月曜日に、そのことを担当医に主人が言ったら、「そうですか。分かったんですか。やっぱり早く家に土日くらい帰らせる方がいいかも分かりませんね。これからひとつの例として考えときます」と言われたそうです。たいがいは、家に置いておくのは大変だから、家族が病院に置いておいて下さいというのが普通なんです。金曜日に帰ってきて、土日はずっと家の中にいるから、料理をしようとしても全然できない。嗅覚がおかしいから、ものを焼いていても気づかないで、真っ黒にもやしてしまいました。それがだんだんと分かるようになり、「タマネギ」、「みじん切り」とは言えないけれど、ちゃんと切っている。ちゃんと切って、いためて、焼き飯を作りました。
 担当医はやりたいと思うんだったら、やって下さいと言いました。家に帰って、今度病院に戻ってきたとき、ものすごく変わり、全然別の人になっていたから、担当医も、早く家に帰らせた方がいい、脳には早くリハビリしないといけないなどと言い出しました。

あいうえおの学習
 退院して、スピーチセラピーの専門家からの言語訓練は受けないで、辞書で日本語の勉強をし直そうと思いました。
 「あいうえお」から新たに一歩一歩勉強していったら、破壊された脳を使わなくても、残っている脳のどこかに勉強したことが入るだろうと、私は思っていました。私の方針を話しましたら、言語療法士は、それはだめでしょうとはっきり言いました。しかし、担当の医師は、脳のことはまだ分かっていないことが多いので、私には分かりません。全然できない人もあれば、だんだんできてくる人もある。どこの脳が壊れてどこの脳に何が入っていたのか、ということがひとりひとりみんな違うからおやりなさいと言ってくれました。
 担当医は女医で、優秀な人でした。尊敬しています。何でも分かっているという態度をする医者の権力みたいな人が多いから、「分からないんです」と言ってくれる医者ってほんとに素敵だと思いました。
 小学校1年生の勉強の本、国語や算数や理科の本を買って、勉強を始めました。
 不思議ですね。「あいうえお」、「かきくけこ」、「さしすせそ」、「たちつてと」までの単語は、それをひとつひとつ覚えていくのは、それは血のにじむような思いでした。覚えられなくて、できない自分に何度も涙を流しました。ところが、「なにぬねの」くらいから、すすすっと出てくるようになりました。辞書も「なにぬねの」あたりからすーっと頭に入ってきた。
 ひらがなはなんとかマスターし、次に漢字も辞書から勉強しました。しかし、新聞は読めません。人の名前や国の名前がたくさん出てくるからです。カタカナを勉強しないと、新聞が読めないんです。カタカナ語事典も買ってきて勉強しました。
 単語を覚え、辞書でことばを勉強しても、それが何か分からない。「ひ」で覚えた、「ひたい」「ひじ」「ひざ」が、体の部分とは分かるのですが、自分のからだのどこか分からない。「さんま」「さば」「さより」は、国語辞典の「さ」で覚えているので、実際に買い物で、「さんま」を「さば」と言ったり、なすびを見て、「なんきん、ちょうだい」と言ったのか、「えっ?」と言われた。それをきっかけに、本物と照らし合わせて覚えないといけないと思いました。
 ほんものを見て、百科事典で調べ、それを絵に描いていきました。百科事典は、娘の勉強のために買っていたものですが、一番使ったのは、私だったんです。そして、話さなければ買えない小売店を探して、「さつまいも」とか「にんじん」と注文して、勉強していきました。
 こうしてことばはある程度回復したのですが、嗅覚は回復しません。嗅覚がゼロだから、食べ物がおいしくない。匂いは、ことばを覚えるのにも影響します。レモンの匂いで「レモン」を覚えていたのが、匂いはないから、形や色だけで覚えていかないとだめなので、すごい努力をしてきました。
 私は脳をやられたので、記憶もおかしかったんですけど、だんだん記憶するようになってきたし、ゆっくりゆっくりでも脳に入ってくるようになりました。(「スタタリング・ナウ」2002.6.15 NO.94)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/11/11

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