逃げの人生の始まり

卓球

「部長、私、一身上の都合で卓球部をやめさせていただきます」。

吃りながらこれだけ言うのが精一杯だった。「なぜだ?」の部長の声を背中で聞きながら、それに答えることもなく足早に体育館を去った。もう振り返りはしない。しかし、一足ごとに淋しさが、悔しさがこみ上げてくる。このときほど、吃音を恨んだことはない。 高校入学と同時に、当然のように卓球部に入った。中学校の県大会で競いあったライバルと、今度は仲間として磨き合う。高校時代の僕の唯一の救いとなるはずだった卓球。その卓球に今日サヨナラをする。

期待よりも不安一杯の高校生活のスタート。入学式のとき、気になる一人の女生徒がいた。清楚な姿にひかれ、式の間中、僕は彼女の横顔を見つめていた。

卓球部に入部して初めての練習日、僕の胸は高鳴った。あの彼女も卓球部に入っていたのだ。嬉しかった。不安におびえるだけの授業も、放課後の卓球の練習で会える彼女のことを思うだけで我慢ができた。隣の女子コートの彼女の姿が、僕の視界に入ってくるだけで幸せだった。

しかし、その幸せな気分も長くは続かなかった。四月中旬、新入生歓迎の男女合同合宿の計画が部長から話された。まさか男子と女子が一緒に練習するなんて思いもよらなかった。合宿となると、自己紹介がある。彼女の前で吃っている惨めな自分の姿が思い浮かんだ。好きな彼女の前では吃りたくない。吃音であることを知られたくない。

合宿だけをやめようか。しかし、その適当な理由が見つからない。それなら卓球をやめるしかないのか。あれだけ好きで唯一の楽しみであり、救いでもあった卓球をやめたくはない。それから毎日毎日、そのことばかりに思いをめぐらし、勉強も卓球もまったく手につかなくなった。

そして、合宿の前日を迎えた。決意をしていたわけではない。直前まで迷っていた。しかし、もう迷うことはできない。合宿は明日から始まるのだ。その日の放課後、練習服に着替えることなく、学生服のまま体育館に入った。部長を見つけ、つかつかと歩みよった。

「部長、私、一身上の都合で卓球部をやめさせていただきます」

この時から、私は一層落ち込んだ。勉強に打ち込むでなく、学校生活を楽しむでなく、唯々、自分の吃音を恨んだ。片思いであったにせよ、恋を失い、卓球を失い、私は暗い暗い高校生活へと転落していった。

私の逃げの人生のスタートであった。

この体験を、<逃げる>でまとめて考えよう。小学校、中学校の時代は吃って嫌なことがあっても、学校を休むなんて考えなかった。逃げたくても、逃げることができなかったという方が正確だ。とにかく我慢をして、日常生活をなんとかこなしていた。しかし、高校1年の時、この<逃げる>体験をしてからは、<逃げる>ことに抵抗がなくなった。そして、ちょっとでも困難にぶつかると、すぐ<逃げたい>と思うようになり、そして逃げた。逃げ癖がついてしまった。

僕は、吃音が問題となるのはこの現実生活から<逃げる>ことだと考えている。

吃るのが嫌さに、したいことをしないのは、自分を殺しているのだから、いきいき生きている状態にはほど遠い。しなければならないことをしないのは、人との関わりを自分から断つことになり、社会生活をしていないことになる。そして、「どもりが治ってから~しよう」と、吃音が治ってからの人生が本当の人生で、今は、仮の人生だと考えてしまう。こうなると、何事にもあきらめが早くなる。辛抱して、何かをやりとげる気は起こってこない。吃ることによる恥ずかしい体験を避けることが何よりも優先する。学校の授業は、とことんさぼった。クラブをやめてから、クラスの役割も一切しなくなった。友達もなく、学校生活を楽しむでなく、勉強に励むでなく、ただ吃音を恨み、吃音が治ることだけを夢みた。針のむしろのような学校は、早く卒業したかった。

自分を否定する

僕は、吃音が大嫌いだった。その吃音である自分自身も大嫌いだった。

僕の場合、吃り始めたのは3才頃らしいのだけれど、吃り始めてすぐに吃音が嫌いになったわけではない。小さい頃は、吃っても平気でしゃべる明るくて元気な子どもだった。それがどうして吃音に悩むようになったのだろう。

吃音に悩む人は、急に吃音を意識をし始める出来事があり、それをよく覚えている。僕の場合は、小学校時代の学芸会だった。僕は吃るからとセリフのある役を与えてもらえず、学芸会の練習の間中、言いようのない屈辱感を味わった。

この学芸会をきっかけに、僕は吃音に強い劣等感をもつようになった。いじめやからかいが始まり、喧嘩をする度に「どもりのくせに」と言われる。それまで形勢が有利な時も、こちらが正しいと思える時も、このことばで喧嘩はいつも僕の負けで終わった。そのうち、喧嘩をしない、できない子どもになっていた。そのようになったのは、僕だけのせいだろうか。周りの大人のせいもあると僕は言いたい。まだ自分で考える力に乏しく、親や教師に逆らえない、大人から与えられるストレスに耐える力がまだなかったから、簡単に周りに影響されてしまったのだ。

悩み方のまずさ-水漏れ症候群-

悩みごとは誰にもある。また悩むことは、苦しく辛いことだけど、一方で人を成長させるものでもある。しかし、ますます人をだめにしていき、成長に結びつかない悩み方もある。僕の悩み方がそうだった。僕がまだ自分に自信が持てなかった頃、こんな経験をしている。

21歳の時、僕にもガールフレンドができたが、半信半疑だった。「どもりの僕が好かれるはずがない。これは何かの間違いで、すぐに相手は僕を嫌いになるだろう」と常に思うようにしていた。失恋が現実のものになった時、「やっぱりだめだった。僕の予想した通りだ」と自分を納得させた。ショックが少なくてすむよう自分を守っていたのだ。吃音のせいにすれば楽なのだ。自分の人間としての魅力のなさをつきつけられるのが怖かった。いつも適当にごまかし、慰めてしまう。精一杯ぶつかって、そこで失敗して、悩んで、もう一度なんとかしようという悩みではない。悩み切れずいつも不完全燃焼だった。こんな状態を水漏れ症候群という。水道の栓がゆるんでいて、いつも水がポタポタと落ちている。栓がきちんとしまっていない。失恋経験が経験として完結せずに中途半端な恋を繰り返す。このように不安や恐れを先取りをして逃げ、後から悩むのは損だと思う。友人が僕と同じ頃失恋をして、打ちひしがれて2か月ほど酒浸りになっていた。悩み切る友が僕はうらやましかった。

過小評価と非現実的な展望

<逃げる>は、壁を前にした時、ぶつからないのだから、本当の自分の力が分からない。豊かな体験をしないから自分の成長を実感できず、自信が育たない。すればできるかもしれないことでも、できないだろうと過小に自分を評価しあきらめてしまう。一方で、実際に行動や体験をしていないから、すればできるだろうと未来に非現実的な夢をもつ。

今は吃っているからできないが、吃音が治ったら弁護士になろう、また出来るとも思っていた。子どもでも、司法試験が難しいとは知っている。厳しい勉強に耐える忍耐力、勉強をする習慣がついていなければならない。普段全く勉強をしないで、そのうち勉強するようになると思うだけだった。現実の生活がみじめだから、法廷で流暢に弁護し、正義の味方になっている姿を夢見ることでバランスをとっていたのだろう。そんな夢やプライドでももたないと生きていられなかったとも言える。

後になって、このようなことは、他の吃音者にも多かれ少なかれあることを知った。それを、ギリシャ時代の人で、吃音を治し雄弁家になったデモステネスに吃音者が憧れるところからデモステネス・コンプレックスと名付けられた。

自分の力を低い線で引かず、また過信もしない。現実的な人生の計画や目標をもつことは、吃音に悩んでいる人ほど必要なことだ。しかし実際は、吃音によって、自分自身が見えなくなってしまう。

失敗恐怖から無気力に

デモステネス・コンプレックスをもつと、いつでもどこででも流暢にしゃべることに憧れる。それが講じて全てに要求水準が高くなってしまう。

国語の朗読ができず、その他の発表ができない。級友からからかわれ、先生からも叱られる。そんな経験ばかりしていると、できるだけ失敗はしたくない。だから発表も、朗読もできるだけ避けた。失敗は話すことに限らない。全てのことに失敗したくなかった。失敗しない一番手っ取り早い方法は、何もしないことだ。

小学校2年生の秋から、失敗を恐れ何もしなくなっていた。学級の行事にはまったく参加しなかった。残念な思い出として残っているのは、高校時代の文化祭だ。クラブ活動もせず、一切の役割をもっていないので、参加のしようがない。僕たちの高校は仮装行列などが名物で、とても派手な文化祭で、数日前からは夜まで準備してもいいことになっていた。学校に夜まで残れるのは滅多にないことで、みんなでわいわいがやがや楽しそうに準備をしている。ひとり僕だけは授業が終わると寂しく帰るしかなかった。

小学校、中学校、高等学校とひとりの友達もなく、楽しい思い出のない、つらい時期を過ごした。みんなと何かを一緒につくり上げて喜ぶ感動を、僕は味わうことなく、学童期、思春期を生きた。こんな僕に明るい未来はあるのだろうか。友達がひとりもいなくて、人間関係を作ってこなかった僕が社会に出ていけるのだろうか。とても不安な思いで、成人式の日を迎えたのをはっきりと覚えている。