僕は、何らかの、自分で欠点と思っていることや劣等感をもっている人は、出来るだけ早く、人生計画を立てる方が得だと考えている。とても今は人生計画なんて考えられないと言う人は、日々の行動を少し変えればいい。大きな計画も小さな行動の積み重ねだから、自分の行動をより豊かなものにしていけば、それは、より豊かな人生へと結びつく。
君がこれから行動するにあたって、僕がこれまで行動する中で考えてきたことを先輩としていくつか提案しておこう。

自分の意志で、複数の選択肢の中から選んだもの

自分が行動するには、自らが自分の意志で選択することだ。周りの人がしているからとか、両親から勧められたからではだめだ。きっかけは、両親や先生から勧められたものであっても、決断はあくまでも自分自身だ。それを明確に意識していないと、他人から言われたから、本当はしたくなかったとか、うまくいかないときに自分で責任をとらないで、他人のせいにしてしまう。

いくつかの選択肢の中から選ぶことが望ましい。選びようがなく、その道しかないというのでは、選んだことにならない。僕たちが悩んでいた時代には、ひとつの選択肢しかなかった。

「吃音は劣ったもので、悪いものだ」

「今のうちに治しておかないと大変なことになる」

「吃音は治る、治さないといけない」

吃音に関する本も、新聞の記事も、両親や先生も、多くの周りの人達も、全てに共通した吃音に対する意識だった。だから、吃音を治さないと僕の人生はないと思い詰め、治ることを夢みた。選択の余地はなかったのだ。僕の知る限りほとんどの人は治らなかった。それでも、治療法が悪いのではない、努力をあまりしなかった自分が悪いのだと自分を責めた。多様な情報がなかったために、吃音は治るとの幻想が生き続けた。

しかし、大勢の吃音者が体験を語り始め、一般に思われているほど、吃音は簡単に治るものではないことが分かった。また、吃りながら自分らしく豊かに生きる人達が発言するようになった。ひとつの選択肢に、もうひとつの選択肢が加わった。

あくまでも、吃音を治すことにこだわり、治す努力を続ける人。吃音を治すことより、自分らしく生きようとする人。いろいろと選択肢はあるだろう。仮に君が吃音を治す道を選んでも、私たちのように、吃音を治すより、どう生きるかを大切にしている人がいることを、頭の隅に置いておいてもらえればいい。それしかないと考え、吃音を治すことだけに専心するのとは、全然違うはずだ。

本音に基づいているもの

他人から押しつけられて嫌々何かをするのと、自分がしたい、しようと思ってするのとでは、している最中の気分もその結果も全然違う。それは、君も経験していることだろう。納得し、自分がしたいことに取り組むことだ。それは、楽しい、楽なことばかりではないかもしれない。時にはつらく苦しいことがあっても、自分が本音で目指す何かの実現のためなら、耐えられるだろう。また耐えられる程度のものがいい。

何の治療においてもそうだが、その治療を信じて取り組むのと、疑いつつ取り組むのとでは、その治療の結果は随分違ってくる。納得ができない時、なぜできないかをよく考え、自分の気持ちを正直に検討してみよう。その上で、納得できればいいし、できなければ、無理をしないことだ。やる気が起こらないことを無理にしても、うまくいかない。自分の本音を大切にしよう。

吃音に対する取り組みも、現在あるいろいろな取り組みを知って、納得いくまで自分で検討しよう。本を読み、人と出会い、いろいろ経験することも必要だ。その結果自分で納得できれば、取り組めばいい。いろいろな情報が必要なときは、僕たちが提供しよう。

他者と係わろうとするもの

人は他者との係わりなしに生きてはいけない。いかに能力が高くても、その人に他者と係わろうとする姿勢が少なければ、その能力も十分に発揮することはできない。

自分らしく、といえばともすれば自己本位な姿勢ととられるかもしれないが、決してそうではない。

吃音についての取り組みは、他人との係わりなしには考えられない。ギリシャ時代の吃音の雄弁家デモステネスは、ひとり海に向かって立ち、荒波の音に負けないようにと、声を出し、発声訓練を続け、雄弁家になったと言われている。ひとり発声訓練していたことばかりが強調されているが、その練習よりも、国を思う気持ちが勝っていたのだろう。また最初はうまくできず、何度も失敗を繰り返すうちに、結果として、雄弁家デモステネスになったのだと僕は思う。

吃る人の中に、ひとりで練習を続ける人がいるが、家の中でいくら練習しても効果がない。ひとりでは緊張もあまりしないし、吃ることへの恐れや不安もあまりない。そんな場でいくら練習しても、実際の生活の場に生かせない。僕が上野の西郷隆盛銅像の前で、また山手線の列車の中で演説の練習をし、そこでは喋れても日常生活の中では自信が全く得られなかったのはそのためだ。

コミュニケーションは常に、相手があって成り立つ。そして、全てを練習して臨めるものではない。人生のある場面は、状況、相手、すべて一回限りのものだ。不安があっても恐れがあっても、おどおどしなからでも、まず出て行くことだ。不安や恐れがなくなってからと思えば、ずっと出てはいけないだろう。人間関係の輪の中で、君の普段の日常生活の中でこそことばは変化していく。

僕は、どもりを隠し、逃げ回っていたから、話さなければならない場面には一切出ていかなかった。日常生活の場で全然話していないのだから、いわゆる言語訓練とは一番程遠い場にいたことになる。人間関係を避けていたのだから、人間関係の技術、コミュニケーション技術を磨く機会も自ら閉ざしていたことになる。人間関係も、ことばも、日常生活の場でこそ磨かれるということを知っておいて欲しい。

自分の人生目標や自己の成長にむすびつくもの

君の取り組みが、自分の人生の目標と結びついていれば素晴らしい。人はものごとに、必要に迫られないと取り組めるものではない。例えば日常の生活の中で、大勢の人の前で話す機会が全くない人に、堂々と人前で話すためにトレーニングをしたって意味がない。 今後の人生でしたいことを大切にしよう。したいことであれば、やる気が出るし、身にもついてくる。ただ単に教養として英会話を勉強するのと、吃音国際大会で世界の吃る人のミーティングで話すために英会話の勉強をするのとでは努力の仕方が全然違う。

体をこわすほどにしてはいけない。スポーツなどのトレーニングでもやればやるだけいいということではない。発声練習でもやり過ぎて、結局声を痛めてしまった人もいる。少なくとも自分のしている取り組みが自分の健康を損なわないようにしたい。吃音を治すためにうさぎとびや跳躍をしながら発声したり、デモステネスみたいに石を口に入れてやってみたりしたら、身体をこわしたり、病気になったりしてしまうかもしれない。

今の今が充実していることが大切だ。将来の楽しい人生のために、豊かな話し方を身につけるために、今は苦労、忍耐で頑張るんだと、学生のときしかできない勉強や遊びの時間に、発声練習を1時間も2時間もやってはいられない。僕は吃音矯正所で半日、呼吸練習と、単純な発声練習を続けたが、僕には苦痛だった。やっていて少しも楽しくなかった。吃音が治るという願いがあったから我慢してしたが、それには限界がある。

取り組みそのものが充実していて楽しいものであることが必要だ。

もう一つ大事なことは、僕らが取り組むことは、いわゆる普通に近づきたいというものではないということだ。吃音者でなければしないような特別な訓練ではない。吃らない人も楽しいというものでないといけない。

僕たちの、大阪と神戸の吃音教室は参加するのが楽しい。吃らない人も参加しているが、楽しくて役に立つと言って下さる。《交流分析》《論理療法》《アサーティブ・トレーニング》《竹内敏晴・からだとことばのレッスン》などの私たちの取り組みは、自分らしく、豊かに生きようとする全ての人に共通のものだからだ。

吃音が治りにくいのなら、何もしないで放っておいたらいいのかと言われることがあるがそうではない。吃音を治す訓練より遙かにたくさんのバラエティに富んだことに取り組んでいる。それは吃音が治ったり軽くなったりすることよりずっと大きな、人間としての成長に結びついていくはずだ。興味がもてたら、一緒に取り組もう。