あれだけみじめな学童期・思春期を送った僕がなぜ今、自分らしい豊かな人生を送ることができるのだろう。僕が言う、豊かな生き方とは、世間でいう、良い大学に行って、良い会社に入り、経済的に豊かな生活をする意味ではない。社会的成功も豊かさのひとつだろうが、それだけではないはずだ。本当に自分自身にとって何が大切かを考え、自分らしい人生を生きることだ。自分の価値観を大切にすることだ。これは僕の体験だから、一般化することはできないが、少しでも参考になれば、僕が悩んだことが、生かされることにもなり、こんな嬉しいことはない。ひとりよがりな体験談になるが読んで欲しい。

悩んでいるのは僕だけではなかった

高校時代、勉強をほとんどしなった僕がストレートに大学に受かるはずがない。2浪の末にやっと東京の大学に合格した。大学よりも、東京にある民間吃音矯正所に行くことが目的であるかのような東京行きだった。

ところが、あれほど憧れた矯正所の門の前で、僕は躊躇する。この門をくぐると、吃音を認めたことになり、吃音と向き合うことになる。逃げてばかりいた吃音との直面に尻込みをする。何度も何度も建物の周りを回りながら、僕はこのような所に来る人間じゃないとさえ頭に浮かんでいた。意を決して門をくぐったのは、1時間後だった。

門の中は別世界だった。吃る人だらけだ。全国から大勢の人々が集まり、その夏だけで300人ほどが治療を受けていた。吃音に悩んでいたのは僕だけではないと、まずほっとした。僕は、吃ることだけでなく、《どもり》ということばが大嫌いだった。《いもり・やもり》など、少しでも《どもり》を連想させることばは全て嫌だったが、そこでは《どもり》ということばが否応無しに飛びかう。

いたずら電話と間違えられて切られた。

得意先から、「電話を代われ」と怒鳴られた。

吃るために結婚を反対され、好きな人と別れた。

学科試験ではいい成績で合格したが、面接でどもりを治せと言われた。

どもりを治さないと首にすると社長から言われて来た。

どの話を聞いても、「僕もや、その気持ち分かる」という話ばかりだ。これまで、消極的、無口と言われていたのが嘘のように僕はしゃべりまくった。しゃべることが、話を聞いてもらうことがこんなにうれしいことか。人と一緒にいることで、こんなにやすらぎが得られるものなのか。楽しくて、うれしくて、毎日がお祭りのようだった。

元気が出て、朝から夜遅くまで、必死に訓練にも励んだ。朝は呼吸練習と発声練習、昼は上野の西郷隆盛の銅像の前での演説、山手線の車中での演説練習。吃音が治れば生まれ変わることができると必死だった。

1か月の入寮生活、3か月の通院と懸命に努力したが、僕の吃音は治らなかった。それは僕だけでなく、一所懸命訓練に励んでいた全ての人がそうだった。当時の本や、雑誌、新聞の情報は全て「どもりは治る」で、この矯正所も、「必ず治る」と宣伝していたのだった。治ると宣伝しながら、治らない現実に僕は反発するが、同じような人と出会い、誰にも言えなかった吃音について話せ、友達ができたことで満足した。それほど、同じ悩みをもつ人々との出会いはうれしかったのだ。

遅れて始まる僕の学童期

この喜び、安心感をもう失いたくない。4か月の治療が終わり、この矯正所を離れると、みんなと離れ離れになってしまう。仲間と別れたくなくて、また新しい仲間を作りたくて、僕は吃る人達のセルフヘルプ・グループ、言友会を作った。吃音を治すことが目的で、週に1度、例会で練習に励んだが、民間矯正所で治らなかったように、会でも治らなかったが、元気がだんだん出てきた。大勢の仲間と活動することが楽しかった。例会では司会をし、会の宣伝のために電話もかけ、多くの人にも会った。吃っていたら絶対できないと思っていたことが、吃りながらでも結構できる。吃っても人は話を聞いてくれる。大学の授業よりも、会の活動に熱中した。いつしか僕は、どもりを治すことよりも会の活動が楽しくなっていった。夏の合宿、文化祭などは、学童期、思春期に、僕がしたくてもできなかったことだった。

友だちと一緒に何かを作り上げる喜び。リーダーとなり、責任ある役割を担っていく喜び。自分を一杯表現することの喜び。多くの人が小学校時代に味わってきたことを、僕は21歳になってやっと味わうことになる。21歳から25歳までの4年間で、僕は学童期を卒業し、思春期に入っていった。そして、吃音を受け入れ、自分を受け入れることで、僕のアイデンティティが確立し、思春期の課題も達成された。

高校時代は朗読ができずに、人前で話すことをほとんどできなかった僕が、大学の教員になり、講義や講演をするようになった。ある夢の実現のために大学を退職してカレー専門店を開いた。その店を10年経営した後、ことばの相談室を開設した。このように職業は変わったが、吃音については常にライフワークとして取り組んできた。

念願だった国際大会を大会会長として世界で始めて開催したし、国際吃音者連盟という吃音者の国際組織を創設した。吃音と上手につきあうプログラムを作り、吃音教室を大勢の吃音者と取り組み、吃音親子サマーキャンプでは大勢の小学生・中学生・高校生と話し合い、楽しく劇に取り組んでいる。

今では、場に慣れたためか、人前で話すときは比較的吃ることは少ない。ところが、特定の音、例えば「た」行がなかなか出ない。今でも、寿司屋で「トロ」と注文するときは、「と・とととと」となってしまう。だからマグロやイカなど言いやすいネタを食べることが多い。今でも君は逃げているのかと言われればそうだが、これだけは言いたい、言わなければならないことからは逃げずに、吃りながらもしゃべっている。

吃音と上手につきあうことができている今、21歳までのあの悩み、苦しみ、孤独は一体何だったのかと思うくらいだ。悩みながら、消極的に生きることも「悪い」ことではないが、もし君が今よりも楽に、自分らしくより豊かに生きたいと思うのなら、今がチャンスだ。君への応援歌となるかは自信はないが、僕の経験をもう少し話そう。

自己概念くずし

自分を否定し、自分が嫌いになるとこんな考えが浮かばないだろうか。

「僕はだめな人間なんだ」

「どもりであれば楽しい生活など送れっこない」

「友達ができないのも、勉強ができないのも吃音のせいだ」

僕はいつもこう考えていた。こう考えてしまうと、ちょっとでも困難だと思う場面には、立ち向かえない。この状態からどうしたら脱却できるだろうか。まず、この考え方が妥当かどうか点検するのもひとつの方法だ。そのことは吃音でなければできたことだろうか、また吃音であってもできたのではないかなどと考えたい。

私たちは日々、様々な人、出来事と出会う。同じ体験をしても、その体験についての感じ方、受けとめ方は、人それぞれに違う。これは、個々人が違った自己概念をもっているからだ。「私は~である」「私は~が好きだ」「私は~苦手だ」「私は~についてこう思う」など、自分自身をどう受けとめ、どのように思っているか、自分自身に対して持っている概念を自己概念と言う。これらの自己概念が、行動や思考の枠組みをつくる。

自分の自己概念を知り、それがどう行動に影響しているかを知る。それが自分を生きづらくさせていれば、その自己概念を崩し、新たな自己概念を作り上げる。僕たちの場合、吃音の受けとめ方が自己概念の中核だ。

吃音親子サマーキャンプで、中学3年生から大学1年生までの7人と話し合った時、職業選択が話題になった。彼らは、「吃っていては、話すことが多い仕事に就くべきではない」という自己概念を持っていた。この概念は、その後のより豊かな生き方につながらない。これを崩し、新しい自己概念をつくることが大切だ。

私たちは、彼たちに、自分たちの体験を話した。話すことの多い仕事に多くの人が実際に就いていること。私たちが逃げてばかりいて、つまらない中・高生時代を送り、損をしたと考えていることなど。若い人が、ひとりで吃音に悩んでいては考えつかないことが、話し合いの中で明らかになっていく。彼らにとって、私たちとの出会いは、これまで持っていた自己概念を検討するいい機会となったようだ。

次に彼らに必要なのは、行動することだ。行動してみて、私たち吃音の先輩の言うことが、間違っていないことを知るだろう。行動を通して、新たなに自己概念が作られる。そんな例を、僕の体験から話してみよう

「吃っていては、人から好かれない。まして異性から好かれるはずがない」

僕は、これまでの経験から、この固い思い込みをもっていた。「そんなことはない、吃っていてもその人が魅力的ならもてる」と多くの人から言われたが、信じられなかった。そんな僕を、吃音の先輩は、吃っていてもダンスはできると、ダンス教習所に連れて行ってくれた。その教習所は、レッスンの後、自由に踊る時間がある。そのうちレッスンでは踊れるようになったが、自由に踊る時間には踊れない。自分でパートナーをみつけなければならないからだ。吃ることへの不安と恐れから申し込めない。他人が楽しそうに踊っているのを、指をくわえてながめているほどばかばかしいことはない。何日もそんな日が続いたが意を決して申し込む。何度も断られる日が続く。それでもめげずにチャレンジした。数日後、踊ってくれる人が現れた。不思議なもので一度自分で吃りながらも申し込み、踊れると自信がつき、積極的に申し込めるようになった。

次のステップとしては、踊ってくれた人を喫茶店に誘いたい。自分ひとりではできなかったが、大学のクラスメイト4人で女子学生3人と喫茶店に行くことができた。皆は楽しそうに話し、2時間はあっと言う間に過ぎた。僕は、ほとんど話すことなく聞き役に回っていたが、少なくとも場の雰囲気を壊さないよう心掛けた。後で分かったことだが、べらべらしゃべり、場を盛り上げていた吃らない友達よりも、静かに聞き役になっていた僕が一番好感を持たれたらしい。その中のひとりとつき合うことができ、そのことを知った。

この経験で、長年もっていた「吃っていては、人から好かれない。まして異性から好かれるはずはない」との自己概念を崩すことができた。頭の中だけで考えていたのでは、自己概念を崩すことはできない。行動することが大切なのだと気づいた。

自己を受容する

自分を受け入れないで、自分を嫌いな人間を、どうして他人が好きになってくれるだろうか。自分で自分を好きになることを考えたい。自己を受容するときに僕たちには、吃音受容という関門がある。吃音受容に大事なことを挙げたい。自分がこれまでマイナスと考えてきた価値を広げることだ。ではどのように考えればいいか4つについて考えよう。

1.価値はいくつもあると考える

価値はひとつではない。流暢にしゃべれることもひとつの価値かもしれない。でも、人に対して優しいとか、一所懸命何かに努力をするとか、勉強は全然だめだが絵をかくのが得意とか、運動は得意とか。自分が持っていない価値もあるけれど、自分がもっている価値もある。その価値を自分で認めようということだ。

京都精華大学教授で漫画の大学院博士課程を作ったヨシトミ・ヤスオさんが私たちに話をして下さった。ヨシトミさんは子どもの頃から体が弱く、学校へも行けず、布団にこもっている子どもだった。でも漫画が好きで得意だった。大人から見れば漫画などに大した価値はない。学校の勉強に比べたら、そんなもの何になるのかと思う人もいるかも知れない。ヨシトミさんにとっては漫画が描けることは非常に大きな価値だった。 学校を休んでいても、寝ながら布団の中で漫画を描き続け、その力が伸びて、ついには漫画で仕事をするようになった。人間の価値は、限られた特定のものではなく、いろいろたくさんあるのだということを認識することだ。これが吃音受容の一つの大きなきっかけになるのだと思う。

2.障害のもつ影響を過大視しない

何かできない障害がひとつあると、もうそれですべてがだめになったように思ってしまう。吃音の場合は、ことばがつっかえるだけのことです。たしかにそれは不便で不自由なこともあるが、吃って言ったところで、話は通じるのだ。

僕は吃るから朗読ができない、発表ができない、自己紹介ができないと全て吃音のためにできないと考えていた。しかし、それらのことは全て吃ッテモできたことなのだ。自己紹介が嫌なために、新しい出会い避けていた。吃るから、出来るはずがないと、決めつけて、吃音の影響を過大視すると、何も出来くなってしまっていただろう。

吃るからできないと、役割を果たさない。ひとの集まりに出さないなどをしていると、その吃音の与える影響はどんどん拡大していく。人間関係がうまく結べない。社会性が身につかないなど、ただことばが流暢に話せないことから、このような別の問題まで引き起こしてしまうのだ。

3.外見を一次的な価値としないこと

車椅子に乗ったり、松葉杖をついたりして歩いている人より、ハイヒールをはいてタッタッタとさっそうと歩いている人の方がかっこよさからいうと、価値があると思われるかもしれない。しかし、こんな外見の価値を第一においてしまうと、吃音の受容が難しくなる。ペラペラと立て板に水のように喋れる人間と、つっかえ、つっかえ、ある時には二分以上言葉が出てこない吃る人の場合、外見から見たら、流暢に喋れる方が価値があると一般的には見えるかも知れません。しかし、それよりももつと大事なことは、その人が何をいいたいのか、内面にどれだけ言いたいことを持っているのかが、その人の価値と考えることができる。

また、吃音者は気持ちのやさしいところがあると、よく言われる。そのように気持ちがやさしい、人に親切で思いやりがある。こつこつと努力するなど、内面的な価値の方が、外見的な見た目よりも価値があると、認識することだ。

ついつい、僕たちは、世間の価値観に合わせてしまいがちだ。自分の持っているこの内面の価値を認識したいものだ。外見に価値がないといっているのではない。むしろ内面的なものに、より価値を置くことが重要なことだと思うのだ。

4.比較しないこと

人の悩みの源泉は、比べることにある。僕も吃るっている自分と、吃らずに滑らかに話す友達を比べ、劣等感を募らせた。経済状態でも、自分よりあの人の方が豊かだと、常に比較するところから妬みが起こる。

戦争で両足をなくし、だるま禅師とよばれた小沢道雄というお坊さんがいる。目の前でその人の話を聞いたとき、僕は涙が溢れて止まらなかった。この出会いは今でもの心の中に生き続けている。こんな話だった。

敗戦を迎え、シベリアから帰ってくる途中。凍傷のため両足を切断しなければならなくなった彼は、これから義足をつけて歩けるだろうか、仕事に就けるだろうかという不安に悩み苦しむ。結局両足を切断することになる。そのベッドに横たわる自分の姿と、将来への不安で、いらだち、絶望の中で、「私はどうしたらいいか分かりません。どうか生きる道を教えて下さい」と観音様に祈る毎日だった。ベッドの中で4か月目、「観音は私を見捨てた。観音は私を裏切っている。もう祈ることはやめよう」と心に思いを決めたとき、その心の底の方から、ひらめきにも似たひとつの思いが沸き上がってきた。

「苦しみの原因は比べることにある。比べる心のもとは、27年前に生まれたということだ。27年前に両足をもって生まれたその日と比べるから辛く悲しく切ない。ならば、27年前に生まれたということをやめにしてしまえ。そして、両足を切断したまま、歩けないまま、足の痛いまま、今日生まれたことにするのだ。今日生まれたものには一切が真っ新なのだ。そうだ。本日ただいま誕生だ。本日ただいま誕生だ。それで一切文句なし。たとえ、両足がなくても動けなくても足のないまんま、動けないまんま、生まれたのだから、何も言うことなし。この足のない動けない状態が始まりなのだ。私は、身体中に力をみなぎらせ、心に叫んでいました」

この話を聞きながら、僕がいかに人と比較しながら生きてきたかを思い知らされた。他人と比較するのでなく、自分自身のもっているものを個性として認めていくことの大切さを教えられた。吃っている自分を、個性あるものと認めた時、随分と生きる勇気がわいてきたのだった。

この話を聞きながら、僕がいかに人と比較しながら生きてきたかを思い知らされた。他人と比較するのでなく、自分自身のもっているものを個性として認めていくことの大切さを教えられた。吃っている自分を、個性あるものと認めた時、随分と生きる勇気がわいてきたのだった。