吃音とナラティヴ・アプローチ
ナラティヴ・アプローチをテーマとした、2014年秋の、第20回吃音ショートコースのゲストである国重浩一さんが、「スタタリング・ナウ」に寄稿してくださいました。
国重さんと初めてお会いしたときのことを思い出します。2013年1月、恒例の東京でのワークショップが終わった後、お会いしました。国重さんは、僕たちの考え方、活動に興味・関心を持って、どんどん質問されました。意外な展開に、僕たちは驚きました。講師依頼をした講師から事前に、こんなに関心をもってもらったことは初めてでした。国重さんは、もうすでにそこで、ナラティヴ・アプローチの対話を実践されていたのでしょう。
その初めての出会いから1年9ヶ月後に、吃音ショートコースが実現しました。
そして、今回、「スタタリング・ナウ」に寄稿いただきました。ありがたい出会いに感謝しています。(「スタタリング・ナウ」2015.4.19 NO.248)
吃音とナラティヴ・アプローチ
国重浩一
ダイバーシティ・カウンセリング・ニュージーランドマネージャー
鹿児島メンタルサポート研究所 研究員
日本臨床心理士 ニュージーランド・カウンセラー協会員
はじめに
吃音ショートコースで「ナラティヴ・アプローチ」の講師として、3日間の研修に参加させてもらいました。
3日間一緒に過ごすというのはたいへん貴重な体験になるものだとつくづく感じているところです。そのため、その時の感想やその後考えたことを述べようかとも考えましたが、あえて、理論的な側面から吃音について書いてみます。
特に、ナラティヴ・アプローチが吃音に対してどのように取り組むことができるのかという点から考察を加えてみます。なぜならば、このことを二日目の夜におこなわれた伊藤伸二さんとの対談で問われたのですが、私がしっかりとお答えすることができなかったのではないかという思いを今も尚持っているからです。
私たちを取り巻くさまざまな常識とされる考え方
私たちは社会生活を送る上で、常識、あるいは当たり前とされる考え方や発言、ふるまい方にしたがって生きているといえるのではないでしょうか。そのことによって、社会生活を円滑に送ることができるからです。
ところが、その当たり前とされることができないと、大きな重荷になって私たちにのしかかってきます。「みんなできていることができない」、「ほかのすべての人はできるのに、できないのは私だけだ」という思いは、たいへん苦しいものです。
このようなことが、私たちの人生の中に生じてしまうと、生きている価値もないというような感情に襲われることもあります。
ところが、同じようにできないので苦しんでいる人は、たくさんかもしれないのです。ただ、できるように振舞っているだけかもしれません。そのため、私たちの目につかないだけなのかもしれないのです。
ところが、当然であることや当たり前のことが私たちを取り巻いています。そして、これらは私たちの考えかたや、発言、行動に多大な影響をあたえています。このように私たちに影響をもたらしているものを、ディスコースと呼ぶことにします。私たちは、社会に存在するディスコースに添って日々の生活を送っていると言えるぐらいです。
特に、常識と化して、他の見方を許さないものを「支配的なディスコース」と呼びます。ディスコースは文献によっては、「言説」とも訳されることがあります。
ナラティヴ・アプローチでは、このような「支配的なディスコース」によって、私たちが苦しめられていると考えます。特に、自分は「みんなと一緒」「みんなと同じ」と思うことができない人たちに相当な重圧をかけてきます。そこからのメッセージは次のようなものがあるのではないでしょうか。「お前は、変だ」と。
支配的なディスコースは真実を伝えているわけではない
支配的なディスコースの言うことは、本当っぽく聞こえます。誰が聞いても「ごもっとも」と言いたくなるようなことを言ってきます。
それは、偉そうに見える人たちや、賢そうに見える人たちの口を借りて、語りかけてくるので、一層厄介です。そのため、なかなか反論しづらいものです。
ナラティヴ・アプローチとは、そのような支配的なディスコースに反論するための考え方や手段を提供してくれる、と考えています。
それはどのような考え方かというと、世の中にある説明や解釈、常識、科学的な知識は、ひとつの考え方あるいは見方でしかないというものです。ナラティヴ・アプローチでは、ひとつのストーリーであると見なします。つまり、正真正銘の「本当」または「真実」でなく、多くの人がひとつのストーリーを「本当」または「真実」として受け取っているだけなのだというのです。
つまり、今はそのことが「本当」または「真実」と見なされているかも知れませんが、場所が変わったり、時代が変われば、多くの人が同意する「真実」は別のものとなってしまうということなのです。
皆さんを取り巻く常識は、江戸時代とか明治時代のものとはかなり違います。また、アフリカ、南米、あるいは中東に行けば、常識が変わることだってあるのは理解できるのではないでしょうか。
「真実」とは、1+1=2となるぐらい、場所が変わろうが、時代、文化が変わろうが、変わらないものを指してほしいものですが、私たちを取り巻く「当たり前とされるもの」はそのようにしっかりしたものではないのです。
分類していくことによって見失うこと
近代では、特定の状態像だけを取り上げて、それを持っている人たちを分類化して、判断するということが行われるようになってきました。つまり、「どもり」ということだけを取り上げて考えるということです。
ところが、このように分類して考えることがだんだん難しくなってきています。何故ならば、人間はそれぞれが大変個人差の大きな生き物なので、分類しようとすればするほどきりが無くなるという事態に遭遇するからです。実際、DSMという精神障害を診断するためのマニュアルに収録されている診断名数も版を重ねるごとにふくれあがっています。
「どもり」という症状だって、これだけさまざまな状態像を持っているのですから、どもりを研究すればするほど、いろいろな種類のどもりを分類し、区別していくことだってできそうです。このような考え方はメリットがあるかも知れませんが、人間を理解するときに当てはめてしまうと、大きなものを見失ってしまうのです。
それは、その人を全体として見てあげるということが難しくなるということです。まさしく「木を見て森を見ず」ということが起こってしまうということです。
そして、分類し命名していくことのもっとも大きな問題点は、その人のたった一部について述べているだけの名称がその人の他の部分までを覆い隠してしまうことにっながるのです。「私はどもりです」という表現がその代表でしょう。【どもり】だけの人はいません。つまり「人=どもり」ではないということです。もっと言い換えれば、どもり以外のこともたくさんあるはずなのに、【どもり】という名称に覆い隠されてしまうということです。これを、ナラティヴ・アプローチでは、人を「ひとくくりにする描写」と呼びます。
そこで、ナラティヴ・アプローチは、その名称の陰に隠されてしまっているその人のことをもっと語ってもらうように働きかけていくのです。そして、その人らしさを表現できるような豊かな描写を求めていくのです。
問題を外在化する語り方
ナラティヴ・アプローチでは、問題を外在化することによって私たちがその問題に対処しやすいようにします。その際に、その問題を擬人法を使い、描写していくのです。
それでは、【どもり】という問題を考える際に、この擬人法を使って表現してみましょう。
たとえば、どもりに苦しんでいる人に、「【どもり】は、どのような方法であなたを困らせているのでしょうか?」と問いかけることができます。
普通の表現を用いると、その状況をうまく対処する責任がその人自身に向けて問いかけられることになるのですが、ナラティヴ・アプローチの会話では、その責任を問題そのものに帰すのです。
すると、人びとは、自分はどのように苦しめられているのだろうかという視点で、自分の状況を考えることができるようになります。
このような話し方は多くの人にとって救いとなります。吃音症状を持っている当事者だけでなく、保護者だって苦しまされているし、それをうまく治療することができない先生だって苦しまされているからです。
ナラティヴ・アプローチでは、基本的に誰かを名指しで責めることはしないのです。皆、その問題によって苦しめさせられていると考えるのです。典型的な例をあげるとすれば、【どもり】は、母親や父親がその症状の責任者であるように、周りの人たちをけしかけると見ることができます。また【どもり】は、治療することができない先生たちにも、苦しい言い訳を考えさせるようにするのです。
そして、ナラティヴ・アプローチでは、「その問題がどうしたら困るのだろうか」と一緒に考えていきます。
「何が【どもり】を困らすことができるでしょうか?」ナラティヴでは、どうやったら問題を弱らせることができるのかを一緒に考えていくのです。たとえば、どもりがあっても、全然気にしないでしゃべれる子どもには、【どもり】はたいへん手こずっているかも知れません。また、【どもり】があっても、全然気にせずに話しかけてくれる友だちも、迷惑と思っているはずです。それから、【どもり】がいるのに、その子どもが持っているよいところを伸ばそうとする親も面倒だと思っているでしょう。そして、【どもり】がどのようなことをされると迷惑だという秘密を、まわりの友だちに伝えていくような先生も嫌だと思うのでしょう。
人によって状況が違いますので、その人が置かれている状況をしっかりと理解しながら、その人を苦しめている【どもり】について一緒に考えていくのです。
問題を支援してしまうもの
逆に、問題が喜ぶようなことは何かを一緒に考えることもできます。問題が問題として末永く居座ることができるように、どのようなことが手助けしているのかを調べることができるということです。または、その問題はどのような手口を使って、私たちを出し抜こうかとしているのかを見抜くこともできます。
【どもり】は、みんながいろいろと困ってお互いにいがみ合ったり、喧嘩したり、困っていると、一緒に協力することができないので、ホッとしているかも知れません。【どもり】は、その症状をいろいろと変えることによって、私たちの目をごまかそうとしているのかも知れません。また、【どもり】は自身を無くそう、無くそうとする努力を意外にも喜んでいる可能性もありそうです。もっと注目してもらえれば、もっともっとそこで目立っていられるからです。
このような視点から私たちが見聞きする言葉(ディスコース)を分析することができます。身近な人が話す言葉だけでなく、専門家が話す言葉についても、同じように分析することができるのです。
この人が言っていることは、私たちが人として生きていくことを支援しているのだろうか、それとも、【どもり】がますます問題として居座るのを助けているのだろうか、と考えることができるということです。
つまりは、このように問題を分析するときに、専門家の視点からでは不十分なのです。当事者の視点というものが必要となります。ここで「当事者研究」にかなり接近していくのではないかと考えています。
その問題がなくなること
【どもり】に苦しまされている人にとっては、どもりがいなくなってくればと思うのは当然のことです。ところが、残念なことに、【どもり】がなくなることで、すべてが解決するわけではないのです。
これを、アルコール依存症の自助グループであるAAを引き合いに出して少し説明してみます。
アルコール依存症という問題は、当然のことながらお酒を飲み過ぎるということです。そのため、お酒をやめるということが、最も重要なことになるのは誰でも想像するのではないでしょうか。
しかし、AAでは、「断酒のキャンペーン」はしないと明言しています。それよりも、飲まないでどのように生きるのかということが重要なのだとしています。実は、何かをやめるだけでは、人生を歩んでいくことができません。お酒をやめたのであれば、飲まない時間をどのようにして過ごすのかの課題が残ります。また、イライラしながらやめても、まわりの人は依然として迷惑です。
吃音症状を持っている人から吃音がなくなれば、みんな人前で話すことができるというのでしょうか、みんな友人とうまくやれるというのでしょうか。そうであれば、吃音症状のない人は、すべて人前で上手に話ができていなければならないことになります。また、友人関係もうまくいっていないといけません。しかし、そのようなことはありません。実は、何かがなくなっても、他の何かをするために必要なことが別にあるのです。つまり、友人とうまくやりたければ、コミュニケーションの技術が必要となるわけです。
すると、何かを無くすように努力することは、何かができるようになることとつながっていないことに気づきます。何かが無くなることは、そこになにもない隙間が生じるだけです。何かが生じることにはならないのです。
ここで、ひとつ前向きに検討してもよいことが見えてきます。何かを生じさせるための努力は、いつ始めることができるのかということです。つまりは、それは、【どもり】が無くならないと、始められないものなのでしょうか、という問いかけなのです。
そして、ナラティヴ・アプローチではこのことを個人の問題だけに留めることを避けていきます。つまり、個人がそのことに取り組めるためには、周りの人たちはどのように貢献できるのだろうかという問いかけを忘れないようにするということです。
どのようにやりとりしていいのか、まわりの人は分からない
今回、3日間、吃音ショートコースに参加してたくさんのことを学びました。私が学んだことについて、相当量の文章を書けるような気がしています。
その中で、吃音がある人とのやりとりをする方法について学んだことは相当大きな収穫であったと考えています。
吃音がある人とやりとりする機会はまったくなかったわけではなかったのですが、これほどまでにしっかりとその現象を出してくれる人と話をした経験がありませんでした。
吃音がある人とやりとりする方法とは、次のようなことです。相手に吃音があるときに、相手にどのぐらい話をしてもらっていいのか。相手が発語に詰まっているときに、どの程度待ってあげたらいいのか。相手の言いたいことが分かっているときには、こちらが言ってあげた方がいいのか。詰まっているときに、自分は視線をどうしたらいいのか、などがあります。
このことを学んだことは、私の中でかなり大きなことです。たぶん、これから吃音がある人と話すときに、戸惑いを感じる度合いがかなり少なくなるであろうと思えるからです。
このことから言えるのは、吃音がある人が他の人に話すときに遭遇するいろいろな否定的な感覚は、実は相手がどのように話をしていいのか分からないということに由来している可能性があるということでしょう。
この可能性をもっと推し進めていくと、実は、吃音がある人ができることと、まわりの人ができることが見えてきます。その会話を妨げる要因について語ることによって、双方が取り組めることとしては見えてきます。つまり、「吃音」あるいは「どもり」について、関係している人たちが、お互いどのようなことができるのかについて語ることが必要だと言うことでしょう。そのような場を提供する役割を、【どもり】の問題に直接影響を受けない人(教員や専門家など)が担うべきである、と私は理解しています。
【どもり】という問題を、その当事者とその問題がなくなることだけに取り組むだけでは、十分とは言えないだけでなく、【どもり】がという問題、つまりはどもりが否定的なものであると言うことを存続させていくディスコースを放置することにもつながるのです。このことは、何よりも重要なことであると、ナラティヴ・アプローチでは考えます。なぜならば、その問題が問題であるとされるのは、関係性の中で生じるからです。関係性を扱うこと、それがナラティヴ・アプローチで重要なことになります。
「ダメなもの」というディスコースに取り組む
現在、私たちを苦しませる問題についての理解をめぐって大きな転換期を迎えています。
それは、問題は個人の中に閉じて、まわりからの影響を受けることなく、その形を留めることはできないという理解です。人の苦しみは、人と人との関係性の中でっくられ、維持されます。
子どもがそのことで苦しむのは、そのことがダメだとする考え方を特に大人が提示することによって生じます。
しゃべるときに他の人との違いとして感じ取ってしまいますので、大人が何も言わなくてもそのことは伝わってしまいます。大人が何も言わないというのは、否定的なことが伝わることに抵抗していないということを意味します。
当然、それは大丈夫だと言われても、何とかしたいと思うのは人情でしょう。言われても、依然としてしばらく苦しんだり、もがいたり、悩んだりすることが続くことがあります。
しかし、それが決してダメなものではない、他にもそのような症状を持っている、と伝えることによって乗り越えることが大切になります。自分の持っている力を、【どもり】をなくすことに努力するのではなく、何かを生むことに向けることができる可能性があるのではないでしょうか。
しかし、【どもり】が否定的なものであると伝えるディスコースが優勢の中で、どのぐらいの人たちが「それがダメなもの」というディスコースから離れていけるものでしょうか?
多くの人が具体的な答えはないと感じるかも知れません。しかし、私は、この質問に対して、ある答えを持っています。
それは、「できる人はいる」と言うことです。その程度は分かりません。しかし、伝えられたことをしっかり受け取り、否定的なものであるということを乗り越えていくことができる人が必ずいるのです。そのため、そのことを伝える価値はあるのです。そしてもうひとつの答えは、できる人が多くなればなるほど、そこに追従してできる人も多くなるということです。そして、これが支配的なディスコースに取り組むということなのです。
【どもり】に生じる別の意味合い
【どもり】という問題に取り組む際に、ナラティヴ・アプローチとして狙っていく方向性があります。
それは、「どもり」という言葉をめぐる意味づけが変化するように取り組んでいくということです。
「それがダメなもの」という意味づけから離れ、当事者にとってだけでなく、保護者、友人、教員にとっても取り扱いやすい意味づけが生じることが大切になります。
なぜならば、否定的な意味合いを持たない問題は、「問題」ではなくなるからです。その現象を表現するための言葉は今後も必要となるでしょう。ところが、その現象を伝える言葉に否定的な意味合いがなければ、人とは異なる話し方をしていたとしても、人は悩むこともできないのです。
どうしてそのように話すのと言う問いかけに、自分はどもるのだと、たとえば、自分に関西のなまりがあることが当然のことであるかのように答えられることができる可能性があるということなのです。
つまり、支配的なディスコースが支持する【どもり】という言葉を、自分たちが生きていくうえで必要となる、自分たちにとって好ましい意味を持つ「どもり」を再獲得するということなのです。同じ言葉でありながら、まったく異なった意味合いが生じると言うことです。その文脈は、「私はどもりで良かった」と思えるように支援してくれるということなのでしょう。
この文章を校正し、完成させていく過程で、伊藤伸二さんに意見を求めました。その時に、吃音を「症状」として記述することをめぐっての感想をもらいました。「症状」とは、広辞苑によれば「病気の状態」という意味です。そのため、吃音という特徴、現象、あるは状態像を述べる際の表現についても、意識しておくことが必要であると気づきました。それでは、「症状」という言葉を使わないとすれば、どのような表現が適切なのでしょうか。これは、当事者を交えながら、新しい意味の生成に取り組むという過程で検討していくことなのでしょう。
関心を分かち合うコミュニティ
支配的なディスコースに立ち向かうのは簡単なことではありません。しかし、支配的なディスコースからの影響を回避する場をつくるのは、実は難しいことではありません。
このような場は、通常、当事者たちのグループに見出すことができます。当事者たちが、自分たち自身のことを受け入れ、そこで支配的なディスコースが提供しない意味合いを新たに生み出すことができるのです。
その場が生じていることを私たちは決して軽視してはいけないのだ、というのが私の信念です。
【どもり】をめぐる支配的なディスコースの影響は依然として大きなものであるということを、吃音ショートコースで理解しました。それと同時に、どれほど強大なディスコースも、その影響が及ばない場をつくることができるのだということも、再確認できました。
自分の「声」を取り戻すこと
ナラティヴ・アプローチが大切にしていることは、立場上、語る機会をあたえられない人びとの声に積極的に耳を澄ましていくことです。そのためには、積極的に問いかけていく必要があります。
ここで「声」とは、支配的なディスコースが主張する「常識」「当たり前」をそのまま繰り返すようなものではなく、その人自身が体験したなかからの思い、考えなどなのです。
吃音ショートコースで、吃音がある人たちに対しては、もうひとつの「声」を取り戻す必要があると気づきました。吃音があるということで、その人本来の話し方を否定され、矯正されてきたという事実を目の当たりにするとき、その人の「声」とは、もはや比喩的なものではなく、実際の「声」のことだと気づいたのです。どもる話し方がその人の話し方である以上、しっかりと「どもる声」を持って、語ってもらうことが重要になるのだと、今回気づかせてもらいました。
謝辞
日本吃音臨床研究会とNPO法人大阪スタタリングプロジェクトのみなさんと、3日間(人によっては4~5日間)一緒に過ごすことができたことは、たいへん貴重な機会となりました。
心理カウンセラーとして、さまざまな問題に苦しんでいる人と関わる機会があります。この職種は当然、人に何から支援を提供する職業です。通常は、私たちが何かを得ることが、主たる目的とはなりません。ところが興味深いことに、私が得るものが大きいと感じるとき、相手も得るものが大きいと感じるのだということに気づいています。
この吃音ショートコースは私にとってたいへん大きな学びの場となりました。気持ちよく講師の役をさせてもらうためには、良き生徒を必要とします。ナラティヴ・アプローチはかなり理解するところが難しいところもありますが、みなさん、本当に熱心に聞いてくれただけでなく、質問し、私の言葉が足りないことを補ってくれました。
この会で共有されている思想に私はたいへん魅力を感じています。それは、【どもり】という表面上の問題に囚われないようにする姿勢であるともいえるのではないでしょうか。
専門家でも、問題のあるなしに囚われすぎることによって肝腎なことを見失ってしまうことがあります。それを、この会から学ぶことができるのではないでしょうか。そしてそれは、当事者だからこそ言える「覚悟」に基づいたことだと思うのです。
そのような言葉を、当事者ではないものは言葉にすることもためらうかもしれません。たとえば、「治す努力をやめるべきだ」と。その言葉が意味することを、その言葉がどこから生まれてきたのかの文脈を追うことでしかしっかりと理解できないでしょう。その文脈をしっかり理解するまで、当事者の声に耳を傾けること、これがナラティヴ・アプローチの根底にあるものなのだと思っています。
このような機会を頂き本当に感謝しています。
ここにみなさんに感謝の意を表して原稿を締めくくりたいと思います。
国重浩一さん
ニュージーランド国立ワイカト大学カウンセリング大学院修了。ニュージーランド・カウンセラー協会会員。日本臨床心理士。鹿児島メンタルサポート研究所研究員、鹿児島県のスクールカウンセラーを経験。東日本大震災の時は、被災地に入り、スクルーカウンセラーとして、子どもたちの支援にあたる。
著書・訳書『ナラティヴセラピーの会話術』(金子書房)、『ナラティヴ・アプローチの理論から実践まで―希望を掘り当てる考古学』『ナラティヴ・メディエーション―調停・仲裁・対立解決への新しいアプローチ』『心理的援助職のためのスーパービジョン―効果的なスーパービジョンの受け方から、良きスーパーバイザーになるまで』(北大路書房)など。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2026/03/02


