ナラティヴの困難さ
初めてナラティヴ・アプローチに出会ったとき、僕は、これは僕たちがセルフヘルプグループで実践してきたことそのものだと思いました。セルフヘルプグループの意義を、理論的に説明してくれているものだと、うれしくなったことを覚えています。だから、医療・看護、心理臨床、福祉、教育、それぞれの領域での、ナラティヴアプローチの導入の困難さを聞いて、不思議に思いました。
「スタタリング・ナウ」2015.3.22 NO.247 は、当時、ニュージーランド在住だった国重浩一さんをゲストに、たっぷりとナラティヴの世界を味わいました。吃音とナラティヴ、相性がいいと改めて思いました。今日は、巻頭言です。
ナラティヴの困難さ
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二
「ナラティヴ・アプローチの困難と喜び」と名づけられた、ナラティヴ・アプローチのシンポジウムに参加した。ナラティヴ・アプローチが日本に紹介されて、15年ほど経つ。領域によって導入の時期や発展の仕方も違うが、それぞれが抱えている困難を互いに報告し合い、今後の展望を開いていこうと企画されたものだった。
医療・看護の領域の人たちは、ナラティヴに熱い視線を注いで、関心は高く、学ぶ人も多い。しかし、安易にナラティヴを使われることもあり、大きな進展はないとの状況が話された。
心理臨床の領域では、ナラティヴ・アプローチは、心理療法のひとつとして取り入れられたが、家族療法学会と、ブリーフサイコセラピー学会では活発に議論されているものの、臨床心理全体では、ひとつの理論、技法として紹介されるにとどまっている。カウンセリングに「語る」は当然のことであり、パーソンセンタードアプローチの「傾聴」とどこが違うのかとの思いもあって、取り入れるのが困難な状況にあるようだ。
福祉の領域では、知識、理論としてはソーシャルワークの教科書で紹介され、方法論としては受け入れられているが、実践、臨床の場面ではほとんど使われていないという。論文や学会発表のレベルではほとんど見当たらないという。
教育の領域では、学校教育の現場ではなく、福祉系専門職者への教育にナラティヴ的手法を使っている報告だった。教育学でナラティヴに関心をもつ人はいても、広がりはない。
4つの領域からのこれらの報告で、ナラティヴ・アプローチが大きな流れとならない、悲観的な、ため息のような思いが伝わってきた。その後の参加者を含めての議論を聞いて、15年ほど経ってのこの現状報告に、なぜこれらの領域に普及しないのかとの不思議な思いがすると同時に、新しいものの浸透は難しいものだと、ある意味納得もした。
議論の中では、ナラティヴ・アプローチの基本姿勢である「無知の姿勢」と「専門性」、「エビデンス」と「ナラティヴ」などが対立するものと受け止められたり、狭い意味での専門職者意識から抜け出ることができないことが、ナラティヴ・アプローチの普及を妨げていると感じられた。そして、ナラティヴ・アプローチが、それぞれの領域の既存の理論や技法の大きな流れからすれば、マイノリティーであり、マイノリティーであり続けることに対する悔しさも感じ取れた。ナラティヴ・アプローチがいまだに混沌とし、実践が困難な要因について、次の4点を挙げるシンポジストがいた。
①ナラティヴ理論(社会構成主義)がわかりにくい ②実践のかたちがわかりにくい ③成果をどうとらえ、どう表現するか、その方法論が明らかにされていない(研究論文としてまとめにくい) ④専門家としての脱構築の困難
私はナラティヴ・アプローチに初めて出会ったとき、これは私たちがセルフヘルプグループで実践してきたことそのものであり、セルフヘルプグループの意義を理論的に説明してくれているものだと考えたためか、困難な要因として挙げられているこれらのことは考えなかった。私が、研究論文としてまとめる必要がない気安さからだろうか。
そしてそれは、2014年秋、ニュージーランドのワイカト大学大学院で、ナラティヴ・セラピーを学び、『ナラティヴ・セラピーの会話術』(金子書房)の著者である国重浩一さんから、吃音ショートコースでナラティヴ・アプローチを学んだことで、さらに身近なものとなった。
理解が浅いのかもしれないが、「人はストーリーを生きている」「オルタナティヴ・ストーリー」「その人が問題ではなく、問題が問題なのだ」「問題の外在化」「その人が人生の主人公」「その人の力を信じる」「無知の姿勢」「対等性」などのナラティヴ・アプローチの基本は、何も難しいことではなく、対人援助にかかわる者にとって、むしろ常識ともいえるものだと、私には思えるのだ。
シンポジウムでナラティヴ・アプローチの実践の喜びが出されなかったのは、残念なことだった。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2026/02/24

