子どもと語る、肯定的物語~吃音を生きて、見えてきたこと

 今日は、「スタタリング・ナウ」2014.9.23 NO.241 より、第42回全国難聴・言語障害教育研究協議会全国大会鹿児島大会(2013.7.30)での〈記念講演〉を紹介します。
 巻頭言という形ではなく、1面から、記念講演の概要を紹介しています。このとき、僕は69歳とあります。少数派だと自認している僕が、全国難聴・言語障害教育研究協議会全国大会鹿児島大会で記念講演をする、このような場をいただいたこと、とてもうれしくありがたいことでした。13年前、大勢の参加者を前に一生懸命話している自分の姿を思い浮かべています。

第42回全国難聴・言語障害教育研究協議会全国大会鹿児島大会(2013.7.30)
〈記念講演〉
  子どもと語る、肯定的物語~吃音を生きて、見えてきたこと
                        日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 昨日、鹿児島市内に入り、とても懐かしい感じがしました。48年前に、私の吃音との旅が鹿児島市から始まったような錯覚を覚えました。
 私はそれまで、吃音に深く悩みながらも、真剣に考えることも、治す努力もしませんでした。1965年の夏、新聞や雑誌などで「どもりは必ず治る」と宣伝しており、子どもの頃から行きたかった、念願の吃音治療所「東京正生学院」に行きました。そこでまずやらされたのが、上野公園の西郷隆盛の銅像前での演説です。「突然大きな声を張り上げますが、私のどもりの克服にご協力下さい」と、西郷さんが見下ろす下で、毎日演説しました。西郷さんが見守り、応援してくれているような気がしました。
 今、鹿児島市内のあちこちで西郷隆盛の銅像を見たとき、私は、ここを出発し、今またここにようやくたどり着いたなあという感じがしたのです。
 吃音については様々な考え方があります。「吃音に悩み、治したいと考えている子どもに、完全には治らないまでも、少しでも症状を軽減してあげるのが、ことばの教室の教員、言語聴覚士の役割ではないか」との主張があります。一般的な考え方かもしれません。しかし私は、少しでも治そう、軽減しようと考えることでとても辛い人生を歩んできたので、吃音症状に焦点をあて、軽減しようとする取り組みには反対してきました。
 午前中の岩元綾さんの講演の、ダウン症を否定しないでほしいとの心の叫びは、私の、どもりを否定しないでほしいと結びつきます。「吃音を治そう、軽減させよう」とすることが、吃音否定につながらないことを願っています。
 私は今年69歳になりました。吃音と向き合った48年の人生で、いろんな人と出会い、いろんなことを学びました。セルフヘルプグループ、交流分析、論理療法、アサーティヴ・トレーニング、認知行動療法、アドラー心理学などから学んで、考えてきたことを90分の講演で話すのは難しいのですが、当事者研究、ナラティヴ・アプローチ、レジリエンス、リカバリーの概念でこれまでの取り組みを整理し、今後の吃音の新しい展望を話します。4つの概念について、少し説明します。

 当事者研究 生活の中で困っていることを自分一人で、あるいは、周りの人と一緒に研究して、対処法を見いだす。
 ナラティヴ・アプローチ 物語・物語るの意味で、人は「ストーリーを生きている」と考え、自分を苦しめてきた語りを、自分が生きやすい語りへと変える。
 レジリエンス 困難な状況にあっても、生き残る力、回復力、しなやかに生きる力。
 リカバリー 病気や障害が治らなくても、自分が求める生き方を主体的に追求する。

 吃音に当てはめると、吃音に振り回されずに自分が幸せに生きる主人公になることです。
 吃音を治したい、軽減したいと願うことで今の自分を否定し、悩みを深めた私や、多くの人の経験から、「吃音を治すではなく、吃音と共に生きよう」と主張してきました。その私の考えに、「吃音を治そう、軽減しよう」としても、吃音を否定しているわけではない、吃音を肯定して生きることと、吃音症状の軽減を目指すことは両立する、と主張する人からは、私は偏った意見の持ち主とだと思われているようです。
 上野公園の西郷隆盛の銅像の前で、「吃音を治そう」と必死に演説していた青年が、48年の年月を経て、西郷隆盛のふるさと鹿児島市で、どもる子どもを援助することばの教室の先生の全国大会で「吃音を治そうとしないでほしい」と講演をしていること、感慨深いものがあります。

3期に分かれる私の体験

 3歳から小学2年の秋までは、悩むことも困ることもなく平気でどもっていました。小学2年生の秋、私は元気で、成績が良く、クラスの人気者だったので学芸会で主役をさせてもらえると思っていました。ところが、教師の配慮なのか不当な差別なのか、私は学芸会でセリフのある役を外されました。初めて吃音に対するマイナスの意識を持ちました。「どもりは劣った、恥ずかしいものだ」の吃音否定のレッテルを担任の教師から貼られたのです。学芸会が始まって終わる1ヶ月ほどの間に、私は全く別人になっていました。からかいやいじめが始まり、冬頃には友達が一人もいなくなりました。教師から押しつけられた吃音否定の価値観によって、「吃音否定」の物語を語り続けて、私は21歳まで吃音に深く悩みました。
 アドラー心理学では、劣等性、劣等感、劣等コンプレックスを区別します。どもるのは客観的には劣等性があっても、劣等感をもたない人はいます。私は強い劣等感を持ったがために、劣等性を言い訳に人生の課題から逃げる、劣等コンプレックスに陥りました。「私はどもるから~できない」と、勉強も遊びもクラスの役割からも逃げ、不本意な学童期・思春期を生きました。
 この経験から、どもることは何の問題もないが、吃音をマイナスに意識し、吃音否定の物語を語ることから問題が起こるのだと確信するようになりました。そこで私は、吃音をこう定義します。
 「話しことばの特徴をマイナスのものと意識して初めて言語病理学の研究臨床の領域の吃音になり、症状を治す、軽減する対象になってしまう」
 私は吃音さえ治れば、私の未来は開けると、吃音治療矯正所に行きました。東京正生学院の院長は「わーたーしーはー」とゆっくり話すどもらない話し方を教えてくれました。午前中は呼吸・発声練習、午後は毎日100人に、ゆっくり、やわらかく発音して、「郵便局はどこですか」と声をかける街頭練習。精神力を鍛えるために、西郷隆盛さんの銅像の前で演説をしました。日常生活でも使うように指導され、喫茶店で、「カーレーラーイースーをーくーだーさーいー」と注文すると、「カカカカカレー」と言っていた時よりも笑われました。
 一方、息子の副院長は、アメリカの言語病理学の最新の治療法を教えてくれました。どもらないようにしようとすると却って、どもる不安や恐怖が増すから、どんどんどもって話そうと、わざと意図的にどもる「随意吃音」や、「軽く、楽にどもる方法」を教えてくれました。1か月、一所懸命治す訓練をしましたが、300人全員が治りませんでした。治らなかったけれども私にとって良かったのは、吃音治療所での人との出会いでした。
 私は、どもっていれば人から愛されない、社会人として生きていけないと、将来に大きな不安を持っていましたが、吃音に悩みながらも社会人として教師や営業職など、むしろ話すことの多い仕事に就いている人と出会いました。また、自分で自分が大嫌いだった私を愛してくれた初恋の人と出会えました。これらの出会いから、私は、吃音が治らなくても、生きていけると思いました。
 吃音は言語訓練で治り、軽減できるものではないと、治すことをあきらめました。吃音を言い訳にした逃げの人生はやめようと思いました。この転換には、私の家がとても貧乏だったのが、今から思えば幸いでした。学費から生活費まで全部自分で稼ぐために新聞配達店の住み込みから始めた大学生活ですが、吃音治療のために新聞配達店をやめて1か月寮に入りました。その後、新聞配達には戻らずに、別のアルバイトで生活しようと考えました。その時、ふたつのルールを決めました。
 どんなにつらくても1か月は我慢する。どんなに人間関係や条件が良くても1か月でやめることです。ふたつのルールは厳しく、辛い苦しい体験をしましたが、逃げずにアルバイト生活ができたのは、生きるためには働かなくてはならなかったことと、治らないとあきらめて、どもる覚悟ができたことと、どもる仲間がいたからでした。
 1965年の秋、セルフヘルプグループ「言友会」をつくりました。リーダー経験のない私が、創立した会なのでリーダーになりました。一所懸命活動する中で、人前で話し、人の話をしっかり聞き、文章を書き、企画して運営するなど、様々な力が身につきました。人の役に立つことがなかった私が、この社会には私の居場所があり、社会は安全で、私もこの社会に貢献できるという、アドラー心理学の共同体感覚が身についてきました。自己肯定・他者信頼・他者貢献の感覚が循環になって、私は吃音と共に生きていけると確信できました。
 縁あって大阪教育大学で聴覚・言語障害児教育を学び、その大学の教員になりました。私の研究室には全国からどもる人が集まり、これまでの吃音の悩みや、吃音が人生にどんな影響を与えたかなど、吃音の人生を語り合いました。その時、ある青年からこんな体験が出されました。
 「私は、何かをしなければならないことでも困難を感じると、何かと自分に言い逃れをして逃げ、それでも自分はどもりだから仕方がないと思い込もうとしてきた。そんな自分が恥ずかしい。責任逃れをしながら、自分に甘えてきた。今まで私は、どもりそのもので苦しみ悩むよりも、どもりを理由に意に反して、してきた行為に対して思い悩んできたことの方がはるかに多かったかもしれない。でもそこから一歩も踏み出せないままに、その悪循環の中にどっぷりと浸っていた。どもりについて真剣に考えてこなかった気がする」
 この体験を私たちは徹底的に討議しました。これが今から言えば「当事者研究」の始まりでした。「どもる人の悩みが深いのは、治るかもしれない、もっと軽くなるかもしれないと考え、治ったら、改善したら何々しようと考えることだ」と考え、また、「吃音症状が軽減されれば、さらなる軽減を目指してしまい、完全に治るまでどもる自分を認めることができない」と思い、一切の治す努力はやめようと、「吃音を治す努力の否定」を提起しました。
 8年をかけて到達したこの考えは、セルフヘルプグループの活動や、仲間との話し合いでできたことで、仲間や相談機関がない地方の都市で、受け入れられるか、私は検証の旅に出かけました。
 1975年、3か月かけて、35都道府県で全国吃音巡回相談会を開きました。吃音に深く悩む人だけでなく、「私は労働組合の書記長で、どもっても自分たちの主張はする」「町役場の助役で、答弁の時に私はどもりますと言い始めたら、楽になった」など、どもりながら豊かに生きている人たちがたくさん相談会に参加してくれました。私が深刻に悩んだ経験から、「どもる人は、吃音に悩んでいるはずだ」と考えていましたが、私の主張が好意的に受け止められただけでなく、吃音と共に豊かに生きている大勢の人と出会いました。大学の研究室の中だけでは発見できない、私の最大の収穫でした。

吃音者宣言

 私は、担任の教師からの吃音否定の物語を、自分のものにしてしまいましたが、社会の中にある「どもりは治る、治さなければならない」の考え方にも、強い影響を受けました。
 中学2年生の時に手に入れた『吃音は必ず全治する、吃音の正しい治し方』(浜本正之・文芸社)には、自殺をしたスポーツ選手、金閣寺に放火をした僧などの悲劇の物語が掲載されていました。この本を読んだ人は、吃音が治らないと、こんな悲劇が起こると、「どもりは治さなければならない」と考えるでしょう。当時の新聞や雑誌の情報のすべてが「どもりは努力すれば治る、軽減できる。どもっていると幸せになれない」の物語でした。ところが、全国巡回相談で会った人たちは、豊かに生きていました。また、私たちのグループの中でも、吃音は軽減されないのに、豊かに生きる人が育ってきました。これまで吃音否定の物語しかなかった中に、吃音肯定の物語を伝えなければならない。私は体験を文章にすべきだと思いました。
 私たちの体験をもとに、吃音は、どう治すかではなく、生き方の問題だとしたことを、「吃音者宣言」文として書きました。

世界の吃音治療の歴史

 私たちは、吃音と真剣に向き合い、話し合い、10年をかけてここに到達しました。世界の吃音の治療の歴史はどうなっているのでしょうか。
 1903年、東京音楽学校(現・東京芸術大学)校長・伊沢修二が「どもらずに、ゆっくり話す」方法を提案しました。1930年代、アメリカではアイオワ学派の人たちが「どもらずに話す」にとらわれることが、どもるかもしれないとの不安や、どもることへの恐怖を高めることになるから、むしろどんどんどもろうと「随意吃音」という、わざと意図的にどもる方法を提案しました。以来、アメリカ言語病理学は、「どもらずに流暢に話す派」と、「楽に流暢にどもる派」が激しく対立しました。
 1950年、ウェンデル・ジョンソンは、吃音は症状だけの問題ではなく、聞き手や、本人がどう受け止めるかも含めた問題だと、言語関係図を出しました。どもる症状だけにしか目がいかなかった吃音の歴史上、画期的な提案でした。
 1970年、ジョゼフ・G・シーアンはさらに進んで、表面的にみえるどもっている状態は、氷山の水面上のごく一部で、吃音の本当の大きな問題は、水面下に沈んでいる、吃音を隠し逃げる行動、吃音は悪いものだとの考え方、不安やみじめな気持ちなどの感情こそだと、吃音氷山説を提案しました。私たちが10年の活動の中で到達した考えと同じでした。その後、私たちは氷山の水面下にある問題にアプローチしてきました。交流分析、論理療法、認知行動療法、アサーティヴ・トレーニング、演劇表現、笑いとユーモアなど、精神医学、臨床心理学、社会心理学などいろんな分野から学んできました。それらはどもる覚悟を決め、吃音と共に生きることに役立ちました。
 世界最新の吃音治療について、カナダの大学院で学び、カナダの大きな病院で言語聴覚士として働き、アイスターという世界のトップクラスの吃音治療所で治療に携わっていた言語聴覚士が報告して下さいました。3週間の集中プログラムは、詩を40%スピードダウンで読んで、60%、80%、と自由にスピードコントロールできるようにして、会話は、ゆっくり、そっと、「わーたーしーのーなーまーえーは」と話すことを徹底的に身につけた後、3週間の終了時には自然なゆっくりさに変えていくというもので、「ゆっくり話す」がすべてです。彼女が担当した青年は、15年間、500万円を使い、これらの方法でがんばったが治らずに、今は吃音を認めて生きているそうです。この報告には驚きました。1965年、私が東京正生学院で受けた治療法、さらには1903年の伊沢修二の方法と全く同じだからです。効果も限界もその経過も全く同じです。
 また、バリー・ギターが提案する統合的アプローチの「ゆっくり、そっと、やわらかく」の流暢性促進技法も、1903年から、ほとんどの日本人が失敗してきたものです。「ゆっくり、そっと、やわらかく」など、子どもたちは、教えてもらわなくても知っています。どもりそうな時にちょっとゆっくり、そっと言ってみたり、ある子どもは、クレヨンしんちゃんの話し方を真似たり、それぞれに工夫をしています。
 「ゆっくり言えばいい」は、どもる子ども、どもる人の誰でもが知っていても、できないことです。この程度の治療法しかない、吃音治療の歴史の100年をどう考えるか。根本的な方向転換をするには、十分すぎる100年です。吃音は、治らない、治せないと認めて、ここから大きく展開していく必要があると思います。いつ転換をするのでしょうか。「今でしょう」と私は言いたいのです。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2026/02/02

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