第15回ことば文学賞 甘えの構造~祖母に捧げるバラード~
第15回ことば文学賞の作品紹介の最後です。どの作品も、作者の書きたいテーマがしっかりあって、吃音に向き合い、自分に向き合い、丁寧に綴られています。真剣に悩んだ分、濃い時間を過ごしているといえるのかもしれません。「スタタリングナウ」2013.1.20 NO.221 より紹介します。
甘えの構造~祖母に捧げるバラード~
丹佳子(市役所職員41歳)
母が小学校の教師をしていて忙しかったため、私はこの母の母である祖母に育てられたといっていい。祖母は、戦後は落ちぶれたが大正の時代はお金持ちのお嬢様だったプライドをずっと引きずっていたところがあり、世間体を非常に気にする人であった。「人に笑われるようなことをしたらいかん」というのが口癖で、特に私には「あんたは先生の子だから、あんたが恥ずかしいことをしたら、あんたの母さんの評判も悪くなるからね」とよく言っていた。だから、私の成績が悪かったら教師をしている母が恥をかくと思っていたようで、祖母は私に勉強を叩きこんだ。学校から帰っても、友達と遊びに行くことはほとんどなかった。たまに誘われても、「絶対に4時までには帰ってきなさい。帰ってこなかったら心配し過ぎて、ばあちゃん死んでしまうかもしれん」と、半ば脅しとも受け取れるような文句で私を送り出すものだから、ほかの友達が「もう帰るの、うちの母さんはまだいいって言ってるよ」という時間に、帰らなければならなかった。実際5時を過ぎて遊んでいたら、本当に迎えにきたこともある。「うちのばあちゃんが心配するから」と、子ども心に恥ずかしい言い訳をしながら、私は遊び仲間からぬけ出した。しかし、その実はほっとしていた。勉強の方は祖母にやらされたが、外に出たら危ないという理由で運動をしてこなかった私は、運動はからきしだった。鬼ごっこもドッジボールも苦手だった。そして、勝ち負けのついてしまうトランプもオセロも好きではなかった。高学年になるにつれ、祖母の心配性がうっとうしくなってはきたが、「うちのばあちゃんが心配するから」は、常に私にとっての免罪符だった。
「先生の子だから、しっかりしなくてはいけない」というのが、いつしか私の中で呪縛のようなものになっていたのだろう。クラスでは成績のいいまじめな生徒であり、臨海学校や修学旅行では班長になり、年に一度は学級委員を務めた。しかし、そういうリーダーの役をするにはしたが、みんなをまとめてなにかをうまくやったという記憶はない。臨海学校ではオリエンテーリングで迷って、班の子から文句を言われ、キャンプファイアーの出し物では、みんなが出るのを嫌がったので、先生に相談したら、「班長がなんとかしなさい」ということになり、結局私一人が歌を歌ってその場をごまかした。後ろで大勢にまぎれて、私を見て笑っている班の子がうらやましかった。それでも「長」の付く仕事を引き受け続けたのは、もう一つ理由がある。姉に対するプライドである。姉は祖母の言うことなぞ聞かず、子どものころから外に遊びに行き、友達も男女間わず大勢いた。運動神経もよく、水泳やバスケットの選手にもなり、学級委員や部活のキャプテンにもなっていた。姉がそうなのだから、祖母も母も私にそれを期待すると思った。運動のできない分、他のところでがんばらないといけないというのは、脅迫観念に近いものだったのかもしれない。でも、しんどい……弱い人間だったら、誰かに甘えても許されるのか、そんなことを考えた。それだけが原因というわけではないのだろうが、小学校高学年から中学校に入ったころ、私の吃音は始まった。
それまで、班長や学級委員を務めていた私は焦った。普段の発表のときにも、司会のときにもどもり、その度に真っ赤になってうつむく私を見て、みんなはくすくす笑った。意地悪な子は、休み時間に私にわざとどもって話しかけてきて、それを見てみんなはまた大笑いした。わかると思って手を上げた問題で、いざ答えを言おうとすると最初の一音が出ず、困って「忘れました」と言ったら、先生に「からかっているのか」と怒られ、しばらく立たされたこともあった。吃音がひどくなってからの学生生活は悲惨なことが多かった。
それでも、一つほっとしていたことがある。「これで弱い人間と思ってもらえる」これで私は甘えられる。実際、どもるからグループの発表のとき私を外してほしいと言ったら、外してくれた。どもるから、スピーチはできないといったら、他の子がしてくれた。どもるから、人前で話をしなければならない先生にはなれないと言ったら、教師になることを期待していた母はしょうがないと言ってくれた。吃音が私の免罪符になった。どもる度に落ち込んだり、恥ずかしい思いをしたりはしたが、吃音がない人生はもっと恐ろしいと思った。
そんなこんなで吃音を理由にいろいろ逃げまくったが、やがて逃げきれないときがやってきた。就職活動である。ときはバブルの崩壊直後の就職氷河期で、そんなときに面接で名前からつっかえて言えない、話すことから極力逃げ、人前でしゃべってこなかったので理路整然にしゃべれないような人間を拾ってくれる会社はなかった。「そんなにどもって大変ですね」と言ってくれた面接官もいたが、「どもってかわいそうだから拾ってあげる」というところはなかった。好きな語学に未練があったため、なんとなく文系にいたのだが、何の資格もとっていなかった。公務員試験では面接で全て落ちた。吃音に甘えた私は、自分を全く磨いてこなかったため、個として誰かに向かい合うことのできない未熟者だということが露呈したのだ。全部に落ちたとき、私は自分にも吃音であることにも絶望した。
結局、母のコネで、母の知り合いが経営している小さい会社に就職できた。このときに「どもるんだから、うつむいて小さくなって生きていけばいい、傷つかなくてすむように」と思った。実際、最初のころは、小さくなって、何かあったら「すみません、すみません」と言うばかりだった。でも、この会社は小さかったけれども勢いのある人が多く、「失敗するのはいいことだ。失敗してもそこから学べばいい」という社風があった。朝会の当番でどもっても、電話でどもっても、「ドンマイ、ドンマイ」と言ってくれる人もいた。そんな中で私は、ここで必要とされる人間になりたいと思うようになっていた。設計会社だったので、トレースから簡単な機械設計まで教えてもらい、資格もいくつかとれた。自分の図面について現場の方と話をしなければならないときは、どもっても逃げずに話した。そして、給料を貯めて、車を買うこともできた。休みの日に友達と遠くまでドライブに行ったときに、自由を感じた。もう祖母は追って来られない。
このあと10年しないうちに会社は不景気の中で倒産した。しかし、今の仕事の面接で、以前の仕事で自分が役に立つ人間だったことをどもりながらではあったが主張すると、採用してもらえた。ここで出会った方が、大阪吃音教室を紹介してくれた。どもるのは仕方がないと思ってはいたが、もしかしたら治るかもと思って参加した私は、大阪吃音教室の「吃音と共に生きる」の理念にすっかり共感することになった。今もどもる度に困ったなと思うこともあるが、生きるのは遥かに楽になった。
「どもるんだから、うつむいて小さくなって生きて行けばいい、傷つかなくてすむように」
こう思いながらも、うつむいたままでも小さくなったままでもいられなかったのは何故だろう。傷ついてもあきらめきれなかったものは何だろう。どもるということで、自分の全てが否定されるわけではないのは、どこかでわかっていたからか。では、誰かの役に立つ人間になりたいと思ったことや自由へのあこがれが、前を向いて生きようという原動力になったからだろうか。でも、誰かの役に立つ人間になりたいのは、結局誰かに認められたり、ほめられたりしたいからで、甘えていることにならないか。自由にあこがれるのは、本当はもっと友達と遊びたかったことを引きずっているからか。いろいろ考えは巡るが、うつむいて、小さくなったままでいることがなかったのは、祖母がいつも身体にいい、おいしいものを作ってくれ、慈しんでくれ、守っていてくれていたおかげかもしれないと、最近思うようになってきた。
小学校高学年になってくると、家に祖母といるよりは、一緒に音楽を聞いたり好きな漫画や歌手について語り合ったりするような友達との時間の方が好きになっていたが、祖母の心配性は私にとっては凶器で、友達とは自由に遊べなかった。だから、祖母に甘えながら、一方で殺したいほど呪わしくも思ったこともあった。でも、落ち込んだ臨海学校の夜、瞼を閉じたとき浮かんだのは、祖母の笑顔だった。就職活動に失敗し絶望した後、死にたいと思い何度か自傷行為をしながらも最終に至れなかったのは、私が死んだら悲しむかなあと思う人達のことが思い浮かんだからだが、このとき祖母の悲しそうな顔が脳裏に浮かんだ。祖母は私に愛情をいっぱい与えてくれ、私はそんな祖母に甘えて育ったのだと、つくづく思う。
これからも、集団の中で生き残るために、弱いフリをすることはあるだろう。でも、吃音に甘えることはもうない。今、吃音は私にとって、祖母の思い出と共に私を形作っている私の大事な核なのである。
〈選者コメント〉
かつて私は「吃音者の甘えの構造」という文を書いたことがある。吃音に悩む当事者が、自分自身の甘えに気づいたり、またそれを表現するのは心地よいものではない。しかし、「私を生きる」とき、吃音に真摯に向き合ったとき、甘えに気づかざるを得ない。吃音であることに絶望しながら、「吃音のない人生はもっと恐ろしい」と思ったと作者は言う。吃音をいつも免罪符にしながら、作者なりの生き方で、生き延びてきた。免罪符にしなかったら、生き延びることができなかったし、今の作者はなかったのだろう。
人は、逃げてはいけないと言う。逃げてばかりでは何も始まらないとも。そうかもしれないが、逃げることで生き延びることができるのも事実だ。私もいっぱい逃げてきた。この作品は、甘えるのも悪くない、逃げるのも悪くない、人は生き延びるためには、人それぞれのやり方があっていいと言っているように思える。生き延びるためには「弱いフリをする」に、彼女のしたたかさを感じる。そして、これは、これまで自分を守ってくれていた吃音への甘えとの別れにもなっているのだろう。恨んだこともある祖母と吃音への感謝の思いに、ほのぼのとした読後感が残る。(「スタタリングナウ」2013.1.20 NO.221)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/09/18

