第15回ことば文学賞~吃音受容と他力の信について~
毎週金曜日に開いている大阪吃音教室、その講座の中に、「仏教法話」というものがあります。今回の作品の作者である村田さんが担当しています。吃音との出会い、大阪吃音教室で同じようにどもる人との出会い、そこから生き方を変えていったひとりです。ここにも、吃音の深くて豊かな世界があることが分かります。
吃音受容と他力の信について
村田朝雅(会社員43歳)
天王寺にある”一願不動尊”という不動明王像の傍に、「あなたの願いを一つだけ叶えます」と書かれている。私にとっての一願は何なのだろう。本当に大切なものが何であるのか、何一つわからぬのが今の私だ。
吃音も、私にとってわからぬものの一つだ。治すための行動は、どのようなものであれ、得体の知れぬ吃音の前に砕け散り、吃音を自分のものとして受け取らない限り、どのような手段をもってしても私の目を開かせようとする。
引っ込み思案で人見知り、いつも添え物のような存在で、欲求不満の塊だった。中学2年生のとき、友人関係の改善から、吃音症状が軽くなった私は、過去の自分と重ね合わせて、吃音である自分は終わった、どもりから開放されたと思い込んだ。依然として言いづらい言葉や、言葉が出ないなど、難発の症状はあったが、吃音と関係の切れたかのようなそぶりを、以降30年近く続けた。その間、吃音の情報は決して目や耳にするまいと決めていた。ひとたび吃音と対決したら、確実に負ける。それに勝てる精神の力量など、私にはなかったからだ。
心の影におびえて吃音に萎縮している自分を隠すために、ひたすら強がった。「私はどもりではない、なんでもできる、言えないものなんてない」と、無鉄砲な勢いで、いろんなことに挑戦した気になっていた。人前ではあまりどもらなかった故に、妙な自信を持っていたのだと思う。恐怖に立ち向かわず、恐怖を見ないようにしていただけで、能力以上に努力をしたり、何かを成し遂げた訳でもなく、日々なんとなく過ごして愚痴の材料を作るばかりだった。その頃、吃音受容からはもっとも遠い極点に存在していた、思いあがった、いけすかない奴だった。
吃音はそのような者を黙ってはおかない。40歳を過ぎた頃、名前を言えなくなるのではないかと、ある日突然、前触れもなく考えるようになった。予期不安を消すために、「どもりとは関係のない自分」が、吃音を認めない状態で、治すための思案をその日から重ねた。恐怖心を除くには、心の強さを得るにはどうしたらいいのか。答えを求めるために、それまで手に取ることさえ拒んでいた、あらゆる自己啓発本を読み漁り、気功やヨガ、自己催眠など、様々な自力の策を模索し続けた。
その努力の結果、一時的な症状の軽減はみられても、自分の心を、ねじふせねじふせて、成り立つ策ばかりだ。心を解放させない状態を自分に強いていくうち、言葉全てに過敏になって、一日中頭の中で言える言えないを判定し始めた。水を入れた風船がはちきれる寸前のような感覚が身体に充満し、出したいのに出してはならぬ、否定に否定を重ねて心の均衡点を完全に見失っていった。模索を始めて1年が経つ頃には、吃音症状はよくなるどころか、言葉を発すること自体への恐怖、外に出ることや、他人への恐怖にまで広がっていった。これほどの短期間に心はここまで弱るものかと半ば感心すると共に、吃音を治すことをあきらめたら何か突破できるかもしれないと薄々感じながら、納得できる吃音克服の答えをまだ自力で探そうとしていた。
その頃、学生時代に講義を受けていた、梯實圓(かけはし じつえん)氏の講演録を偶然に聞く機会があった。
「自分に嘘をつき、自分を飾らなければ立っていけないような、そんな場所に生きてる訳じゃなくてね、あるがまんまを見通された如来さま、その如来さまのお手の中に生きさして頂いている。だから決して自分を飾る必要がない。また、ええかっこする必要が無い」
五木寛之氏は「真宗は上を向いて光を見ようとするのではなく、下を向いてうなだれているときに私を照らす光明の影を観て光を発見する。これが信心である」と言う。「ああ、そうだったのか、そうでございましたか」と、自ずと頭が垂れていく思いだった。
学生時代、信心がどうにも理解できず、恐らく一生かかわりのないものと決めつけていたが、どもりが私を真宗にもう一度出遭わせ、どもるまんまが落ち着く私であることを気づかせてくれた。同じ時期、「どもりは治らない」と断言しながら異様な活気を感じた大阪吃音教室のホームページをふと思い出し、サイト内の全てのコンテンツを読んで、「今行かずにいつ行くんだ」と大きなものに背中を押されるように、私は大阪吃音教室に参加することになった。
吃音受容、ありのままの自分を受け入れること、吃音を治そうとしないこと、これらは簡単に領解できるようで、非常に深い領域を持っている言葉なので、大変誤解を受けやすい一面がある。これらの言葉を、うつむいたあきらめや放棄と捉えると全てが崩れる。意識を超えた、答えや方程式を持たない言葉ゆえに、そう思おうとしても、自分の中の何かが反発して、「わかっちゃいるけどどもるのはやっぱり怖い」の心情が、ここぞという時にいつもこの心情が登場する。
大阪吃音教室の先輩のみなさんは、「知らず知らずに」「いつのまにか」「どもってもいいんだと思えるようになった」と話して下さった。「しらずしらず」という言葉は、自力のはからいではないことを示す。また、「治そうとしないでおこう」「どもってもいいんだ」と”始めに”思ったのではない。「しらずしらず」は、自力のはからいではない力によって引き出された精神的な転換だろう。言葉をわかっているのと、事柄をわかっているのとは別で、ただただすごい世界なのだろうと想像するばかりだ。
「他力と申し候ふは、とかくのはからひなきを申し候ふなり」(「親鸞聖人御消息」783)。親鸞は他力とは「他(ほか)の力」ではなく、私の計らいをまじえないということを他力と言われている。更にいうと、本願力回向のことで、如来の利他力(りたりき)、生きとし生けるものを救う力を表している。姿、形のない、誰も見たことのないものであるがゆえに、その力を信じてみよと言われて素直に信じられる人がどれほどおられるだろうか。
「自分の納得出来ないことは受け容れないというのは人間の常なんですがね。人間ちゅうのはそうはいきませんで。納得のいかん事でも受け入れにゃしゃあないとこまで追いつめられますがね。それをね、そんなしゃあないさかい受け入れる、そうじゃなくてね。仏様の仰せをまことと受け容れる。如来さまの仰ることに嘘はない。納得しないわしが悪いんじゃ、わからんのはわしがあほやからや、如来さまの仰ることがほんまや、と仰せをすっと素直に、受け容れると、その受け容れたみ教えが新しい世界を開いて下さるんですね。それが信心ということです」
こう梯氏が言われる新しい世界とは、あらゆるものへの視点、見方が変わること、気づきと言ってもよいかもしれない。受け容れたことで、人生を見る目が他力によって少しずつ変えられていく。他力とは、宇宙を生み出すような力、人間の言葉などでは表現しきれないほど大きなスケールのもの、人間の知や想像力では到底理解しえないものだろう。その大きな力が「ある」。「どもってもいいんだ」と思えた方にも、思っていない方にも届けられている、と私は信じている。
「どもろうと覚悟する、決意するその時、その人の生き方は豊かになる(ことが決定する)」と伊藤伸二さんは例会の中で話してくださった。これは真宗の獲信(ぎゃくしん=信心を得る)と限りなく等しいものであった。信心とは疑わないこと、覚悟する=疑わずそれが本当だと受け容れること。どもるもどもらないも一望のもとに見渡す目がそこにあるのだろう。決意から先、その時どもるかどもらないか、は他力におまかせするしかない。吃音をコントロールする力は私にはない。
自分の心は今もって毎日揺れている。「どもってしまえ」と考えた数時間後に「やっぱりどもるのは怖い」、次の日にはまた「もう怖くない」次の日にはまた「怖い」この繰り返しだ。なんと情けない、愚かな存在かと辟易する。他力におまかせするだけでは、努力を怠るすすめにも聞こえてしまうのだが、心は弱くとも、志をはげましていくことはできる。他力への信を、自力の努力で絶え間なく持続させるのだ。毎回の大阪吃音教室の講座は、私に必要な志のはげましそのものだった。
「言い換えが逃げじゃない」だなんて、「どもってはいけない場面など一つもない」だなんて、「どもれ」だなんて。成功や出来事に囚われてそこから抜け出せない、身動きできないでいる現実世界での私に、見事なパンチの連続だった。
教室内でも教室外でも、あちらでもこちらでもどもる、どもる、どもる。どもるシャワーを浴び続けていると、自然慣れてくる。そのうちに、「イカしてるじゃん」と思えてくるのだ。そして、まさに「知らず知らずに」皆さんの前ではどもるかどうかを考えずに話している自分に最近、気づく。これがたまらなく気持ちがよいものだった。自分に嘘をつかない心地よさにハッとする。
吃音受容とは難解なものだと考えていた。突然、或いは、短い時間のうちに「起こす」ものだと考えていたからだ。自分がわからないから、心がけが足りないから受容できないと考えると、きわどい所で踏み外すのかもしれない。主客が逆だったのだと今更ながら気づくのだ。自分で自分が受容しているか、判断しづらいところではあるのだが、無理をしない、ええかっこしない自分が一番落ち着く世界であることを、気づかせてもらった。私が私の力で気づいたのではなく、何かわからぬけれど、とてもつもなく大きな力、他力によって目を開かせてもらったのだと考えている。
人生で最も大切なもの、一願が何であるのか、わかったっもりでしたり顔をして、結局何一つわかっちゃいなかった。「どもりが治ること」では断じてない。その世界にとどまっていては、本当の一願は雲に隠れたままなのだろう。比べ物にならぬほど、大きなものがあるはず。一生かかっても解けない問題を与えられたのは、悪い気分ではない。やっと一願を考える開始地点に指がさしかかったのが、今の私なのだ。
〈選者コメント〉
天王寺に一願不動尊という不動明王像があるとの書き出しで始まるこの文は、学生時代に学んだ宗教に再び出会い、吃音の受容とその学んだ宗教が説く内容が結びついていくプロセスを丁寧に書き綴っている。吃音受容とは難解なものだと作者は述べているが、この文章自体、読み手にとっては、かなり難解な文章になっている。しかし、吃音に萎縮している自分に気づき、そこから解放されたいともがきながら、作者は、真摯に生きている。その作者の紡ぎ出す文は、二度三度と読み返すと、「しらずしらず」、作者の世界に入っていく心地よさを感じる。一編の宗教書を読んだ後のような読後感が身を包んでくれる。
大阪吃音教室はもちろん、宗教とは全く関係がない。しかし、「吃音を治す、改善する」ことを目指して、発音・発声の言語訓練を続ける中では、感じ取ることができない大きなものを感じ取ることができる。ある人はそれを、「吃音は哲学だ」といい、「この考え方は宗教に通じる」とも言う。「どもりを治す努力をやめ、自分を、他者を大切に日常生活を丁寧に生きる」は、自力で吃音と対決するのではなく、生活の中に身を置くことで、人間を超えた大きな力に委ねることだ。私たちのこの考えを、行動を、かって学んだ「他力」に通じると作者は感じたのだろう。
的確な引用と作者独特の言い回しが、作品を奥深いものに仕上げている。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/09/17

