新たな吃音臨床への招待 3 ―「第1回親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会」
昨日のつづきです。2012年8月に行った第1回親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会の2日目の報告です。この日、昼食後の実践講座が圧巻でした。この吃音講習会の名前が「親、教師、言語聴覚士のための…」となっているのにふさわしい時間でした。参加するだけでもハードルが高いであろう臨床家のための講習会で、初めて参加して、突然、僕と公開の対話をしませんかと言われて、簡単には登壇できるものではありません。それを押して、登壇してくれた3人の保護者に敬意と感謝の気持ちでいっぱいになりました。
保護者は、これまで聞いていた、あるいは信じていた、吃音に関する話とはまったく違う話を1日目に聞き、そうだったのか…と思いつつ、やはり治るものなら治してやりたいという親心が消えない、その正直な気持ちをすなおに、みんなの前で語ってくださいました。公開相談会となった、大勢の参加者の前でのやりとりを通して、保護者に変化が現れるのを、参加者が温かくそっと見守りました。そうして、会場の参加者が、登壇者を、そして、この時間を支えてくれました。
すべてのプログラムが終わって、最後のティーチイン。通り一遍の感想とは全く違うひとりひとりの語りに、心を打たれた時間になりました。
新たな吃音臨床への招待 3
―「第1回親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会」
2012年8月4・5日 千葉県教育会館
坂本英樹(どもる子どもの親、教員、NPO法人大阪スタタリングプロジェクト)
2日目シンポジウム(ミステリー・ツアー)
前日のグループの話し合いの報告と、質問の時間。初日の伊藤さんの話を初めて聞いて、自分がそれまで依拠していた訓練や考え方との根本的な相違に混乱する、言語聴覚士からの戸惑いの声が紹介されたが、伊藤さんは吃音をコントロールするための言語訓練と吃音を認めることの両立は可能かの質問に、議論を繰り返した結果、両立はしないこと、世界のどもる人のほとんどはどもりながら手持ちの力で生きているという否定できない事実の中で、どもることに不本意なまま生きるのと、どもる覚悟を決め納得しながら生きるのとでは全然違うのではないかとコメントした。
シンポジウムのメンバーはことばの教室の教員として奥村寿英さん、渡邉美穂さん、高木浩明さん、溝上茂樹さん、現在は通級指導教室担当の佐藤雅次さん、言語聴覚士として野原信さん、どもる子どもの親として私、坂本英樹、当事者としてNPO法人大阪スタタリングプロジェクト会長の東野晃之さんである。この企画は当初、それぞれが実践発表してから論議する予定だった。それを急遽変更し、シンポジスト個々の実践、提案の詳しい内容は事前資料に譲り、それを前提に吃音の臨床にとっての「語りの実践(ナラティヴ・プラクティス)」のもつ意味を伊藤さんを道案内役として語り合う、どこへたどり着くか分からない、ミステリー・ツアー、大喜利となった。
ナラティヴ・アプローチはまず、問題と人を分け、問題そのものを外在化、目に見える形にして考察するところから始まる。東野さんは吃音に悩んでいた頃はその問題をどう整理したらいいのか、自分の中の否定的な思いをどう語ればいいのかがわからず、セルプヘルプグループに参加しても当初は話ができなかったと述懐し、問題を明らかにする、取り出すためには自分を分析する、語るための小道具が必要なのではないかと示唆した。
ことばの教室の教員もその小道具を自らの実践の入り口に置いている。奥村さんは子どもに吃音について知っていること、わからないことを紙に書いてもらう学習活動を始め、高木さんの実践は積み木で言語関係図をつくることや吃音氷山を描くことを通じて、子どもが形、大きさ、重さを感じることができるだけでなく、それらが変化することまでの洞察を含んだものだ。渡邉さんは「どもりカルタ」が子どもが心身を働かせながらの自分の気持ちの確認になること、さらには自分自身のどもりカルタをつくることで表現する力、伝える力を身につけることができるとして、カルタを友だちに見せて自分のことを語る子どもの姿を紹介。人と人とを結びつけるどもりカルタの可能性を提示した。溝上さんの絵を書いている子どもといろいろ語るという話は、要項表紙のどもりキャラクター「もっちい」の絵に私たちの目を釘付けにした。どれも外在化の好例だ。
ここで、会場の当事者からまだ語られていない物語を聞くという「聞く」は、AAなどのアノニマス(匿名性)のセルプヘルプグループの原則である「言いっ放し、聞きっ放し」の「聞く」とどう異なるのかとの質問が寄せられた。語りは語りと出会い、対話となることを要請する。教員、言語聴覚士も自己を語らなければ子どもとの対話は成立しない。伊藤さんはナラティヴ・アプローチでは相手に対する「好奇心に支えられた対等な語り合い」から、新たな物語が紡ぎだされるという意味で、「共著者」という考え方を紹介した。傾聴という受容的な聞き方との相違は明らかだろう。
野原さんからは言語聴覚士として結果を性急に求めてしまう自分がいるとの話があったが、語りが熟成されるのを待つのも、ひとつのスキルである。聞き方を学ぶ、質問の仕方を修養することが語りを豊穣にするための要件なのである。これからその課題に取り組もうとして、伊藤さんは「ナラティヴ元年」を宣言する。
当事者の発言がこのシンポジウムを構成した。当事者こそがその問題の専門家なのである。
実践講座「親の公開相談会を通して、親との関わりについて考える」
3名の保護者と伊藤・高木・渡邊さん
昼休憩の時間は、第11回(2000年)の吃音親子サマーキャンプの記録を上映した。竹内敏晴さんが子どもたちにレッスンをしている映像は貴重なものだ。映像の中のかつての自分と対面した何人かの人に当時の思いを振り返ってもらった。
公開相談会は、親として子どもとの関わりをどう考えるのか。教員、言語聴覚士にとっては保護者の思いをじっくり聞く経験になること、また保護者と対話をする伊藤さんの姿を話し方、聞き方のひとつの事例として参考になればとの思いからの企画である。前日のグループの話し合いで、「やはり子どもの吃音を治したい」との思いを持ち続けるお母さん、初めて参加したお母さん、吃音親子サマーキャンプ経験のあるお母さんの3人に、当日公開相談会にしてもいいかと提案し、それを受けて下さった3人にまず感謝したい。
自己紹介を兼ねての子どもの話から始まった。小学1年の男の子をもつAさんはそのうちに治るだろうと思っていたのだが、学校医に「吃音はほっておいてはいけない」と促され、療育センターの言語聴覚士を訪ね、そこですべての生活場面で「わーたーしーはー」とゆっくり話すという統合的アプローチを指導された。しかし、毎日の生活の中でその話し方が維持できるはずもなく、治らないのはそのせいかとも考えてしまうという。この講習会では初めて聞く話ばかりで驚きと戸惑いの連続だったが、肩肘張って治そう、治そうと思わなくてもよいのかと少し楽になった。しかし、夫の吃音が小学4年の時に治ったので、その父親の子どもだから、治ることへの期待を捨てきれないと揺れ動いている気持ちを率直に話してくれた。
Aさんは子どもにゆっくりと話しかけ、嫌がらなければ訓練もしたいとの考えがあることに、伊藤さんは子どもとのゆったりとした時間をもつことは大切だが、親の治るかもという期待は子どもを傷つけることになる、吃音に対する親の否定的な思いがちょっとした表情となり、子どもに罪悪感をもたせ、親の前で話すことを避けるようにさせてしまうのではないかと応じ、高木さんは幼い子どもでさえ親の思いは敏感に感じ取るものだと述べた。当事者で教員でもある佐々木和子さんもどもるのがつらいのではなく、治るという思いで見つめられること、治らないのはかわいそう、劣っていると思われることがつらかったという。治るはず、かわいそうというまなざしで傷つくのだと体験を語った。
また、Aさんは「治らない」と言うことに子どもが傷つかないか心配だと話した時、たとえ傷ついたとしても、そこから手持ちの力で立ち直るのは成長のプロセスとして必要なことだろう。担うべき課題は子ども自身が担わなければならないのだろうと、まさに、ナラティヴ・アプローチ的な対話が展開していった。
Bさんが語ってくれたのは吃音をサバイバルする話である。Bさんの家族は小学5年の男の子の吃音に関わるエピソードを笑い飛ばす日常を送っているという。ナラティヴ・アプローチではユーモアのセンスを大事にする。ユーモアはその状況を違った角度から見ることで生まれる高度なサバイバル・スキルであり、ドミナント・ストーリーの外に出ることを可能にするものだ。彼はスポーツに親しむ少年として成長しているが、母親としてはこれからの受験、就職、結婚までのことを思うと心配は尽きないから、今回参加したという。
この話を受けて、Cさんがマイクを握った。二人のどもる子ども、中学3年の男子と小学4年の女の子のお母さんであるCさんは吃音親子サマーキャンプにも継続して参加し、吃音を通して子育てを見つめてきた保護者である。Cさんはどもり自体に対する否定的な意識はなかったが、からかいなどの二次的な問題は気になることとして考えてきた。Bさんと同様、得意なスポーツをもってほしいとの願いから彼に剣道を勧め、習わせたのだが、それは学校以外のつながりが彼の支えになることもあるとの思いからだ。中学に入ると親が提供した選択肢からではなく自分の好奇心、価値観からやりたいことを見つけてきた彼は音楽部に入り、居場所を拡げている。確実に自分をつくっている彼のことを輝きが出てきたと感じている。
小学4年の女の子は兄の場合とは違う課題があるかもしれないが、時が来たら心配し、悩んでいこうと、そう考えられるようになったところに親としての成長を感じるとCさんは語る。
親の成長ということに関して、渡邉さんは自分が人生を楽しむこと、その姿を見せることが子どもが人生を切り開いていく力につながる、何事かを為していく子どもの姿を信じようと親としての思いを語り、伊藤さんは障害や何らかの課題をもつ子どもの親として大切なことは何かと問いに、親自身が自分の人生を楽しむこと、子どものためにといって自分の人生を諦めないことだと答えた。社会の圧力、世間の目というドミナント・ストーリーを内面化し、子どもの犠牲になるとやがては我が子を恨むことになるかも知れない。それは子どもにとっても不幸なことだ。親の人生が拡がれば子どもの世界も拡がっていくのである。
3人の子どもの年齢も、タイプも違う保護者の率直な生の声が対話を繰り返していく中で変化していく様子を聞けた、貴重な時間だった。
ティーチイン「2日間をふりかえって」
2日間、私たちは実によく語り、よく笑った。最後は輪になっての全員の感想の交換である。通常、研修会などの感想は、「勉強させていただきました」という形だけのものになるのだが、次々と語られたのは「楽しかった」、「この場にいることが心地よかった」の言葉だった。その中に、これまで誰にも言えなかったことを、今語らなければと決断した勇気ある自己開示があった。参加者全員でつくりあげたこの場を信頼してくれたからだろう。どもりというテーマがいろいろなところで生き難さを抱えている人とも出会えるものだということを教えてもらうことができた。感想の交換が、交感、交歓へと変化していく時間はこの場がナラティヴ的な空間であることの証明で、それは得がたい体験だった。(「スタタリング・ナウ」2012.10.22 NO.218)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/08/14

