2014年 ISAD(国際吃音アウェアネスデイ)オンライン会議

 「スタタリング・ナウ」2015.5.20 NO.249 の巻頭言を紹介してから、少し時間が経ってしまいました。その号では、2014年 ISAD(国際吃音アウェアネスデイ)オンライン会議報告がされています。自身が朝日新聞に寄稿した文章(2026年2月1日の伊藤伸二のブログやFacebookに投稿済み)で、掛田力哉さんが『国際吃音アウェアネスデイ』(10月22日)のオンライン会議に参加しました。そのいきさつ、寄せられた反響、反響への答えなどを報告しています。

2014年 ISAD(国際吃音アウェアネスデイ)オンライン会議報告
             報告:掛田力哉(大阪スタタリングプロジェクト・教員)

1.「吃音の理解」とは…

 昨年の「吃音親子サマーキャンプ」で、子どもが、「九九の早読み」を課題にされた苦しみを教師に説明し、吃音を理解してもらおうとしたエピソードを話してくれた。「よくやったね。それでどうなったの?」と問いかける私たちに、彼は「それからは何か変に気を遣われすぎて、ビビられたのか、何かイヤだった」と寂しそうに答えた。
 自分にはよく分からない吃音にはなるべく触れまいとし、目を背けようとした教師の心の内が、彼には透けて見えたのだろう。「吃音の理解」を得るのは、とても難しい。吃音があまりにも「社会で語られていない」からで、吃音に悩む人に初めて出会ったとき、「かわいそうな人たち」との印象を多くの人が持ってしまうからだろう。
 「吃音は、自らの力では変えられない障害なのだから、社会や行政は然るべき支援と合理的配慮を行わなければならない」と強硬に訴える人々がいる。吃音に対する知識や理解が広がらない事態を変えたいと彼らが具体的な主張と運動をするのも、一定理解できる。しかし、彼ら自身が吃音を真に理解しているのかと疑問を抱かせるような主張を繰り返すことに、私は不安を感じている。

 「面接でどもり、内定を得られない」「転職を繰り返した私の退職金は、普通に勤めた人の数分の一しかないとの叫びを、私たちはどう受け止めるべきか」「症状の程度によって温度差があるだろうが、自分自身は就職の機会や収入を得て困ってないので、社会的支援は必要ないとの発言になるのか」
 
 あるグループのホームページはこう主張する。
 まるで「どもっていれば面接には受からない」「吃音は症状が重ければ重い程に困難が増え、社会的不利益を被る」のメッセージが込められているかのようだ。しかし、現実には多くの当事者がはげしくどもりながらも就職の面接に合格し、仕事を楽しんでいるし、いわゆる吃音の「症状」が軽いと言われる人たちが、自らの吃音を苦に社会に出られず苦しみ続けるケースも少なくない。
 大阪吃音教室で学んだこの10年間、私が出会ってきたどもる仲間たちや子どもたちの姿、学び得てきた吃音についての事実は、彼らの主張とは大きくかけ離れている。自らの吃音を「みじめで、かわいそうなもの」に落とし込め、それをまるで印籠のようにかざし「かわいそうな自分たちを理解しろ、支援しろ」と強硬に訴えるかのようなやり方が社会に受け入れられ、吃音の真の理解につながり、どもりに悩む子ども、若者が自信を持って生きていける社会に繋がっていくのだろうか。私はそう思わないし、冒頭に紹介したサマーキャンプの彼も、このような主張の仕方で吃音の理解を得られ、自分も相手も楽しく豊かな関係を築ける方法でないことを、痛い程知っているはずだ。

2.「絶望の果て」に…

 吃音を苦に自殺した若者の新聞記事は、私に大きなショックを与えた。彼が職場で吃音を理解されない事に悩み、自殺したとの記事の内容だけでなく、記事の中であまりにも吃音が悲しく重苦しいイメージで語られ、そのことがメディアを通して広く拡散したことにもショックを受けた。
 彼が自殺した理由は「本当に吃音による問題だけなのだろうか」との疑問も私の脳裏にいつまでもくすぶり続けた。その思いを少しでも社会に訴えたい、吃音の持つ豊かさを一人でも多くの人に知ってほしいと考え、朝日新聞に寄稿した。
 (朝日新聞2014年3月10日『私の視点「吃音の理解一劣ったものではない一」』)

 寄稿文で訴えたかったのは、「人口の1%程度にどもる人間がいる」「吃音の原因は分からない」「吃音は治らない」「吃音について正しく知り、どもる自分を認めさえすれば、どもりながらできないことはほとんどない」という事実だ。そして、どもる人も、どもらない人も吃音の感じ方や考え方は千差万別で、無用の配慮や偏見にしばられず、互いの抱えるものを率直に語り合える社会にしたいとの願いを書き加えた。さらに、治らない吃音の不便さと向き合い、共に生きようとする学びが、人生のあらゆる場面で「吃音以外」の様々な課題と向き合い、豊かに生きる力になり、それはどもらない人たちにも大きな意味を持ちうることを、大阪吃音教室や吃音ショートコースで出会ってきたたくさんの人たちの顔を思い浮かべながら書いた。

 昨年、NPO法人・大阪スタタリングプロジェクトから刊行された吃音体験集『吃音を生きるⅡ―どもる人たちのサバイバル』には当事者の数だけの苦しみや絶望の経験が語られている。己を憎み、他人を恐れ拒み、自暴自棄な人生を過ごした果てに、私たちは、己の吃音と真正面から向き合わなければならなかった。そうすると、あれほど憎んだ吃音は、生きるための様々な知恵や知識、笑いやユーモア、新たな出会いや学びなど、人生を豊かにする多くのものを自分たちに与えてくれる大切な存在だった。行きつ戻りつつでも、したいことやすべきことに真摯に向き合い、「楽しく」生きるどもる人の姿を多くの人に知らせる事ができたら、「吃音の理解」は広がり、他の人生に悩む人にも「新たな知恵」が育つと私は考えていた。

3.オンライン会議へ参加して・・

 国際吃音連盟(ISA)理事の川崎益彦さんから『国際吃音アウェアネスデイ』(10月22日)のオンライン会議への参加を進められた。朝日新聞の寄稿文をオピニオンとして掲載する誘いだ。寄稿すると、質問や感想が世界中から寄せられる。それら一つひとつに自分が答えられるか。不安な私を後押したのは、オピニオン掲載の経験を持つ川崎さんの励ましと、翻訳をして下さる日本吃音臨床研究会国際部長の進士和恵さん、進士さんの翻訳の教え子である宮地大始さんの存在だった。
 世界の吃音(臨床)に対する考え方は概ね「吃音治療・改善」が主流だ。世界中の臨床家や当事者からどんな批判を受けるか分からない。しかし、私は大阪吃音教室で学んだ吃音の事実と真実について、世界中の人たちと話し合ってみたいと思った。自殺の記事をきっかけに私の中にくすぶり続けていた数々の疑問も、何かが発見できるかも知れないと、オンライン会議参加を決意した。

 会議が始まると、予想もしないことが起こった。続々と寄せられるコメントの多くが、私たちの意見に感動した、共感した、もっと知りたいとの肯定的なものばかりだった。この思わぬ事態に驚き、勇気づけられ、次々に寄せる質問に、できる限り答えたいと感じ始めた。仕事を終えたあと、進士さんや宮地さんが翻訳して下さった質問文を読み、回答を進士さんや宮地さんに送る。お二人も大変忙しい中、身を削って翻訳を続けて下さった。
 途中からは、進士さんが教えている同志社女子大学の菅沼幸子さんも協力して下さり、4人態勢での作業となった。2週間の短い期間だったが、メールのやり取りは深夜に及び、4人での共同作業は、非常に骨の折れるが、とても充実した、まるで青春時代のような時間であった。
 4人の皆様には、感謝してもし尽せない思いである。自分では分かったつもりになっていたこと、まだよく分からないことの一つひとつを言葉にしながら、10年間の出会いや学びを振り返る、貴重な経験となった。38通全てには回答できなかったが、終了後、進士さんの呼びかけで同志社女子大学の学生さんたちが、残った12の質問の和訳を続けて下さった。吃音を初めて知る学生さんたちが、吃音について真摯に調べながら翻訳をして下さったと後から聞き、このことも大きな喜びとなった。この場を借りて心より感謝申し上げたい。
 多くの方々の協力を得て、全ての質問文をまとめることができたが、「スタタリング・ナウ」では半分も掲載できないのは残念だ。日本吃音臨床研究会のホームページなどて、全文掲載したい。
 自分なりの理解と持ちうる限りの知識をもって回答したが、的外れな部分もあるだろうが、「自分ならどう答えるか」と考えながらお読みいただければ幸いである。やりとりのほとんどが、大学や大学院で言語病理学を学ぶ学生だった。

◇Dayana Gutierrez
 あなたは私の誤りを気づかせた。教師がよくやる、どもる生徒のために良かれと思ってクラスの前で発表させる間違いについてだ。教師や教育関係者の意識を向上させるためにできることは何か。
【回答】子どもは皆事情を抱えながら、自分らしく表現したいと悩みながら生きている。その思いを無視して、教師が安易に「理想的な」発表や表現方法を押しつけることは、子どもにとって息苦しい。私の仲間の教師は、本人がどのような発表や表現の仕方を望んでいるのか話し合う。子ども本人も、自分の吃音とどうつき合っていくべきか分からず、悩みながら生きている。それに対して、中途半端な知識を基に「指導」や「配慮」する教師の姿勢が、子どもを苦しめる。キャンプに参加する子どもたちは、教師に全てを”分かって”ほしいと望んでいない。「一緒に悩んだり考えてくれることが、とてもうれしい」と言う。教師は全てを理解し、配慮できる存在だとの意識を捨てたい。

◇G・Meredith
 「どもらずに話すことがコミュニケーションのベストな形だと考えるのは間違っている」に同感だ。コントロールしてどもらずに話すことできれば成功だとどもる人自身が思い込んむために、どもらない人にも誤った考えが生まれる。偏った成功観のために、自分にプレッシャーをかけ過ぎて、被害者意識に苛まれて、会話の相手が持つとは思えないネガティブなリアクションやコメントを自ら探してしまう。
【回答】「相手のあるはずのないネガティブなリアクションを探してしまう」は同感だ。どもることを、相手は気には留めていないかも知れないのに、本人はそのことばかりにとらわれ、「何を伝えるのか」のコミュニケーションの本質を置き去りにする。どもるかどうかに気を使い、相手の話を聴かず、空っぽで噛みあわない会話を繰り返すことの方がよほど重篤な問題だと私も思う。
◇Ani Rose Marganian
 自身がどもる、ソーシャルワーカーの講演が掛田さんと同じ視点だった。吃音は「悪く劣ったもの」との固定概念を壊さなければならないと彼女も言っていた。若い時に吃音に対する理解と新しい見方を持ち続けることで、どもることへの恐れが少なくなり、コミュニケーションが自由になり、自分らしい充実した人生を生きることができる。彼女も、この考えを伝えていくべきだと講演した。
【回答】自己表現で最も重要なのは、「流暢さ」や「なめらかさ」の表面的なものではなく、内容にある。どもらず話しても、メッセージのない薄っぺらな話は聞き流される。吃音は、子どもたちが人生を深く考える材料となり得る。悩み考えながら生きる中で発する自分たちの言葉にこそ、深い意味と価値があると、子どもたちに伝えたい。
 どもらずに話せば成功だと喜ぶ人は「今回はうまく話せたが、次はどもるかも知れない」と次を恐れる。「どもらずに話せた」経験ではなく、「どもりながらも、自分の思いや考えを話せた」経験を重視する。その経験を重ねることで、子どもは自分の言葉や表現に自信をつけ、「もっと伝わりやすい言葉はないか」「思いや考えは十分に伝わったか」と内容にこだわる優れた表現者になっていく。

◇Atins769
 どもる子どもに音読させることを、教師は良かれと思って避けるのは過ちだと指摘されたが、では、どうすればいいのか。子どもは一人ひとり違い、それぞれに合った対応をしてほしいのではないか。また、子どもの吃音について教師がすすんで話すのが良いのか、子どもが話すまで待つべきか。将来、言語療法士として対処するのか不安だ。
【回答】「子ども一人ひとりに合った対処」をすべきだ。子ども本人が望む発表の方法、その時どんな支援がいるか、吃音をクラスメイトにどのように知ってほしいのか等、率直に話し合いを重ね、共に考える。子どもと、吃音について話し合うことを恐れないでほしい。彼らのほとんどは、吃音を自覚し、吃音について知りたがっている。話し合いを教師が持ちかけるか、待つかはその子どもによる。「あなたの事が知りたい」と、子どもに率直に聴くことは、教師の姿勢として問題はない。

◇Madison Gwizdalski
 吃音の認識を高めるために、学校で働くスピーチセラピストが、各々のクラスで話すべきか。どもる子どもや当事者が、知識を教えるべきか。
【回答】吃音が世の中で語られなかったり、吃音を「タブー化」する風潮が、当事者を生きづらくさせる。吃音の正しい知識、どもりながら豊かに生きている人が多い事実を、子どもたに分かりやすく伝える良い方法を関係者で研究してほしい。

◇Tanya Le
 「まったく言葉が出ない時、待ってほしい人もいれば、そうでない人もいる」ということだが、聞き手が起こす微妙なリアクションが、どもる人に大きな影響を及ぼしそうだ。どもる人本人にどうしてほしいかを尋ねる場合、どんな聞き方が良いか。文化圏や個人で違うのか。
【回答】文化圏による違いもあるだろうが「聞き方のベスト」はない。相手との人間関係や信頼関係が基本にある。人は皆異なる考え方、感じ方を持っている。「アサーション」は参考になる。
 率直に自分の思いを相手に伝え、相手を不快にさせたなら、率直に謝れば良い。「間違っているかも知れないが、私はあなたが吃音で困っているのではないかと考えている。何かあなたが安心して話せる方法があるなら教えてほしい」と語れる。

◇Irs Fulgencio
 吃音を生徒に理解させることは大切だが、吃音を授業で取り上げた場合、その後にどもる子どもがからかわれるなど、悪い結果になることもあるのではないか。
【回答】伝え方や準備の方法の問題だ。中途半端な知識や伝え方が、却って問題を大きくする。教育は失敗と成功の繰り返しで、自分が吃音について精一杯学び、最善の方法で伝えたにも関わらず、問題が起きたら、何が問題だったのかを改めて考える。からかわれた子どもを最大限にサポートしつつ、なぜそのようなことが起きてしまったのか、吃音の理解についてどのような誤解が起きてしまったのか等について、クラスの皆で改めて真剣に考える機会を作れば良い。

◇Angelina Maria-Rose
 JSP(日本吃音臨床研究会)は論理療法やナラティヴ・アプローチ、交流分析などのアプローチで思考や行動の修正を図るように働きかけているが、これは自己受容に効果があるということか。JSPの人たちは、グループの中でどのように学び、活動しているか。JSPはグループの主張を広めるために積極的に啓もう活動を行っているか。
【回答】「自己受容」と簡単に言うと誤解が生じる可能性がある。吃音に悩む背景には、言葉やコミュニケーション、人生に対する、偏った思い込みである非論理的な思考がある。否応なしに押しつけられた、社会・文化的な価値観もある。そこで形成された、「吃音は悪く、劣ったもの」「どもっていては他者に貢献できない」などの誤った「支配的な物語」を捉えなおし、そこから脱却し、自分が主役の人生を主体的に生きるために、「論理療法」「交流分析」「ナラティヴ・アプローチ」は役立った。あなたもそれらを学んで、あなた自身が、あなたの文化の中での吃音臨床にどう役立てるか、考えてほしい。吃音に限らず、コミュニケーションに悩み、生き難さを抱える全ての人々に有効だ。JSP(日本吃音臨床研究会)にはどもらない多くの人が参加し取り組んでいる。

◇Lia Pazuelo
 どもる子どものキャンプはアメリカにもあるが、親は参加しない。キャンプに親はどう関わるのか。
【回答】親の多くも悩み、自らを責める親も少なくない。親も吃音について学ぶべきことが多い。子どもと吃音についてオープンに話し合い、子どもが自分の課題に取り組む力を信じ、サポートするために、親は心構えを学ぶ。キャンプの最後に、子どもは劇の発表をするが、親も、表現活動を子どもたちの前で披露する。ユーモアに満ちた表現活動に打ち込む親の姿に、子どもたちのまなざしも釘づけになる。表現すること、生きることを、子どもたちは親たちの真剣な姿から学び取る。

◇Katie Kozu
 あなたの記事で、吃音への様々なアプローチが、自己成長のためにも用いることができるのだと思った。どもる人の中には、自分は劣っていると思い、強い恐怖を感じる人もいる。どもる人がどもらない人と吃音について話すことで、吃音に対する考え方が変わることがあるのか。多くの人に偏見なく吃音が受け入れられているとわかれば、その人に良い影響を与えるということなのか。
【回答】その通りだ。「周囲の理解」が必要だが、最も重要なのはどもる本人がまず自分の吃音をしっかり学び、自分の吃音について説明する言葉を持つことだ。「自分はどもってうまく話せない、劣った、かわいそうな人間だ」と考える人間と、人は積極的に話したいと思わない。どもる本人の人生態度が、より良いコミュニケーションに深く関わる。

◇Kimzey Lellis
 アメリカの多くの学校では、吃音を含めてコミュニケーション障害のある人にどのように関わればいいのかを教えていない。だから、どもる人と会話をするときにたいていの人はぎこちなく、不適切なリアクションをするのだろう。学校や社会は、吃音に対する認識を得るためにどうすればよいのか。学校で吃音を直接的に教える方法か、あるいは間接的に、例えばより寛容で開かれた社会を目指す方法のどちらがより効果的だと思うか。
【回答】アメリカと日本の状況はよく似ている。「吃音が社会の中で語られていない」ことが、重大な問題だ。私が日本の新聞に投稿したのも、状況を少しでも変えたかったからだ。どちらの方法も大切だ。日本の学校でも、障害や病気その他様々な事情で「生き難さ」を感じる人々について学び、いかに生きていくか、どのような社会を作っていくかを考える学習は重要視されている。
 そのような学習に、「吃音」はとても適したテーマになり得る。キャンプに参加した多くの子どもたちは、どもりながら生きていく自分をもっと知ってほしいと、クラスや全校生徒の前でスピーチしたり、ラジオに出演したりしている。吃音は悪いものでも劣ったものでもないことを知り、どもりながら、したいことにチャレンジし、人生を楽しく生きる子どもを一人でも多く育てることが、今、私たちが取り組んでいることだ。

◇Crystal Crowen
 あなたが記事で言及していた思考や行動への対処法(論理療法、認知療法、アサーション、ナラティプアプローチ)のそれぞれの違いについても学びたいと思っている。どもる人たちの思考や感情だけでなく、一般の人々の思考や感情も対象にする必要がある。ただ単に吃音の知識がないために、どもる人に否定的な見方をする人もいる。どもらない人に吃音を教育することは、間接的にどもる人が吃音を受け入れる助けになる。一般の人たちが他のコミュニケーション障害も含めて吃音を受け入れれば、どもる人はより受け入れやすくなるとの私の考えが共有できてうれしい。
【回答】その通りだと思う。吃音についての知識や理解が広がらないことは、どもる当事者にとってもどもらない人々にとっても、不幸なことだ。
 吃音は、ただ「言葉が出にくい」という現象を越えて、人生を深く考える大切なテーマとなり得る、豊かな世界を持っていると考えている。このことを多くの人たちに伝えたい。

◇Emily Marie
吃音の原因が不明であることが、効果的な治療法にとって重大ではないと、あなたの文章で気づいた。どもる人への援助で大事なことは、彼らがあるがままの自分を受け入れられるように援助することだ。吃音について、一般の人々を啓発する最善の方法は何だろうか。人々に吃音を理解してもらえるよう自分の役割を果たしたい。言語聴覚士がどもる人たちに関わるときのアドヴァイスがほしい。
【回答】どもる当事者でも、吃音について何も知らず、一人孤独に悩み続けるケースは多い。かつての私がそうだった。どもる子どもやどもる人が、自分の吃音と向き合う時、吃音の正しい知識を持った「同行者」がいることは非常に大切だ。
 私たちの仲間のことばの教室の担当者には、どもる当事者である教師も、そうでない教師もいるが、時にどもる当事者以上に吃音への深い理解と誠意を持って、子どもの指導を続けている。是非あなたも「同行者」として活躍してほしい。
 あなたが専門家だからといって、「全てを完壁に理解できる」存在である必要はない。吃音を精一杯学んだ上で、わからないことは正直に「わからない」と伝え、出来ないこと(=吃音を治すこと)はできないと正直に伝えた上で、その人がより良い人生を歩むために何が必要かを共に考える同行者になっていただければ十分だ。

◇Benand Anderson
 あなたの言う通り、吃音の人とそうでない人がお互いに学び合うことができたらよいと私も思う。あなたのグループには吃音ではない人も参加していてすばらしい。個人の成長に重点的に取り組むグループはみんな誰にとっても有益だ。
 あなたは自分が話し終わるまで他の人に話し始めるのを待ってほしいか、それとも途中でも話に入ってきてほしいか。あなたのグループには言語療法士は何人かかかわっているか。グループに参加してあなたの吃音に変化はあったか。
【回答】私自身は、話の途中で相手に話をされることに抵抗はないが、大切な話を伝えたいときには「少し待ってほしい」と伝える。JSPには、言語療法士の他、言語療法士を養成する専門学校や大学などで言語聴覚士を目指す学生を指導している人もいる。「どもる人はみな辛く、苦しい人生を送っているに違いない」という誤解に縛られ、専門家として「吃音を治療しなければならない」と非現実的な使命感に捉われ苦しむ、言語聴覚士を目指す学生にとって、吃音と共に豊かに生きる私たちの姿は全く新しい道筋を与えるものとして認識され始めている。
 以前の私は、どもる声を相手に聞かれるのを恐れ、下を向いてぼそぼそとしゃべり、内容のない会話を途中で切り上げて逃げ去っていた。会話を避け続けることで吃音への恐怖は続き、相手の話もろくに聴かず、ぎこちない会話を繰り返していた。しかし、JSPでの学びや、人生で様々な経験を通して「自分の言葉には価値がある」ことを確信できた今、私はコミュニケーションを心から楽しめる。吃音がコミュニケーションの問題となるとき、「強いブロック」や「どもる頻度」等の「症状」がその要素として働くこともあるが、最も弊害になるのは、どもることを恐れる当事者に表れる「ネガティブなコミュニケーション態度」だ。

◇Alissa.Acker
 一般の人の吃音理解の向上のために、どのような人を対象に、どんな手法を使っているか。非常に多くの誤った情報がある中で、正確な情報の提供が必要だ。あなたは当事者の一人として、一般の人に向けて、何が一番重要だと思うか。
【回答】社会に浸透すべき最も重要な情報は、「人口の1%程度にどもる人間がいること」「吃音には特定の原因があるわけではなく、親の養育態度や個人の努力不足等が吃音に影響を与えるものではないこと」「吃音は悪いものでも、劣ったものでもないこと」「吃音は治らないこと」「吃音について正しく知り、どもる自分を認めさえすれば、どもりながらできないことはほとんどないこと」だ。
 これさえあれば、どもる当事者はどもりながら社会に出る勇気をもち、人生に対する建設的な努力をすることができる。どもらない人間はもっと気楽にどもる当事者に吃音について聞くことができる。私たちもどのような方法が最も伝わりやすいか試行錯誤している。今回この私の文章が日本のメジャーな新聞に取り上げられたことは、大きなチャンスとなった。また、今年で25回を迎えた「吃音親子サマーキャンプ」の卒業生の多くが、社会の中で時に壁にぶつかりながらも、豊かに生きる実践者として活躍し、その姿が、様々なメディア等で紹介されるチャンスも広がっている。

◇Melissa De Lamere
 どもる人が、ありのままに話すことが楽にできるために、一般の人の理解をどう高めればいいのか。どもる人が自分が尊重されていると感じるには、聞き手の態度は、どのようにすればいいのか。
【回答】あなた自身は、どんなふうに話を聞いてもらえたら、「尊重されている」と感じるか。人はそれぞれ感じ方が違うので、まずそれについて考えてみてはどうだろう。話し方ばかりを気にされ、内容を聞かれていないと感じたら、憐れむように目を逸らされたら、キツイ目でにらまれたら、話の内容について何も反応をされなかったら、自分の話ばかりで、何も聞いてくれなかったらどうだろうか。コミュニケーションがうまくいかない背景には、必ず「まずいルール」が働いている。また、どちらか一方だけが「悪い」のではなく、双方が何らかの努力の余地がある。どもる人と話すとき、あなたが全てを「配慮してあげなければ」との意識を捨てほしい。援助者としてどもる人と向き合いたいと考えているなら、相手は「うまく話せない、かわいそうな人だ」と思いやる前に、「この人は何をどう考え、どのように生きてきて、何を伝えたいと思っているのだろう」と、シンプルに相手に興味を持って会話に臨めば良い。吃音はあなたと相手が理解しあうために、大きな弊害にならないという事実を、あなたは感じ取れるはずだ。

◇Emily
 あなたは、どもる人が会話に加わるとき、自分はどもるということを相手に知らせた方がいいと思うか。そのことが、その場の緊張を和らげると思われるか。私は、打ち明ける方がより自由な会話を促し、聞き手の理解を助けることになると思う。もちろん、どもる人すべてが、ただちにその事実を打ち明けたいと思うわけではないことは分かるが、自分がどもることを伝えた方が聞き手にとっては驚きも少なく、会話がどのように展開するかがわかってくると思う。どもる人が相手にそのことを伝えるということについて、あなたはどのように思うか。
【回答】自分の吃音を最初に相手に伝えるかどうかは、私たちのセルフヘルプグループでもよく話題になる。伝えた方が互いに楽になって話しやすくなり、話がうまくいくという考えの人も多くいるし、職場や学校で効果が出るケースも多い。
 一方、その必要性が出てきたときに、大事な人にだけ伝えるという考えの人もいる。あくまでどもる当事者一人ひとりの判断だ。私たちの関心があるのはむしろその「伝え方」や「伝わり方」の方だ。中途半端な吃音の知識や「被害者意識」をもって、「自分は吃音がある、だからあなたたちは私の話をどんな場面でも最後まで必ず聞かなければならないのだ」と強く主張するような当事者と、あなたは話したいと思うか、だろう。
 人は皆互いにそれぞれの事情を持った対等な関係であることを知っている当事者は、こんな伝え方はしないはずだ。あるいは、どもる人が「自分はどもるのだ」と勇気を出して伝えたとき、「全然どもってないよ」「気にするな」と受け流されてしまい、相手が自分の問題や願いに関心をもってくれなくてがっかりした、という話もセルフヘルプグループの中でよく聞かれる。受け手の側にも、もっと吃音について興味や関心をもってほしいし、どもる人とそうでない人がもっと自由に吃音について話し合える社会になることが、私の願いだ。その思いでこの文章を書いたのだ。

◇Pamela Mertz
 掛田さんの投稿、素晴らしい意見だ。私はどもる当事者で、学校で働いている。長年トーストマスターズに関わってきたので、あなたの「滑らかに話すことよりも意味のあるコミュニケーションを」という考えはまったくその通りだと思う。私は今年のISAD会議にビデオ映像を投稿したのだが、どもりを欠点としてとらえるのではなく、私たちの強みに変える方法を見つけようと呼びかけた。
 ビデオの題名は「心に残る存在」だ。私たちは独特なしゃべり方をするからこそ、よりよい対話者になることができるのだと思う。時間があれば是非見て下さい。きっと共感していただけると思う。

  ISAD翻訳プロジェクト
        進士和恵(日本吃音臨床研究会国際部長、同志社女子大学嘱託講師)

 1998年に始まったISADオンライン会議は今年で18回目を迎える。この会議では、どもる人、臨床家、研究者、教育者など様々な立場から吃音に関する記事が投稿され、それに対するフィードバックと投稿者によるレスポンスが糸を紡ぐように重ねられていく。3週間にわたるこのディスカッションはスレッド(糸)と呼ばれている。ミネソタ大学のジュディ・カスター教授は、大学院の言語病理学の授業に、長年このオンライン会議を組み入れている。院生にとって吃音の現状に直接触れる実習の機会となる。世界のどもる人たちの生の声に触れるオンライン会議の経験は、臨床の仕事を目指す彼らにとって礎になるに違いない。
 実際にオンライン会議が始まると、掛田さんの投稿について相次いで寄せられるフィードバックを翻訳する作業量も半端ではなく、日本吃音臨床研究会国際部のボランティア翻訳スタッフに加えて、同志社女子大学で私が教えている「プロフェッショナル翻訳」の受講生にも授業の一環として翻訳作業に加わってもらうことにした。受講生にとっては、日頃授業で学んでいる翻訳のスキルを教室の外との接点を持ちながら実践するというまたとない機会となった。しかし、吃音が社会で語られていないため、吃音についての知識もほとんどなく、そして、どもる子や人に出会ったこともない中で、内容の理解に格闘し、しかも十分な推敲もなく書かれているネイティブの英文を読みやすい日本語に直すという作業に、「脳みそが溶けてしまいそう」との声も聞かれたが、教える側としては、このような生きた教材が得られたことに、ほくそ笑む思いであった。
 掛田さんの記事に寄せられたアメリカ人の学生のフィードバックは、どれもポジティブで、共感と人間理解に溢れるものであった。どもっているからと自分を否定するのではなく、いかに自己を表現し、自分らしい生き方をするかを考えたいという掛田さんや日本吃音臨床研究会の考え方を良く理解していることや、寄せられた多くの率直な質問からは、相手の考え方を学ぼうとするオープンな姿勢が伺える。ジュディ・カスター教授の人間味あふれる授業の様子が彷彿としてくる。もちろん、これらの学生のコメントがアメリカにおける吃音臨床の流れを代表しているとは言えないとしても、少なくともセラピー一辺倒ではなく、セラピーの役割も認めながらも、どもっていても自分らしい生き方を追求するという彼らのバランス感覚が感じ取れる。
 プロの翻訳者への道のりに王道はない。職人のように地道に修行を積まなければならない。私は授業で、翻訳の仕事を目指すのであれば、私がそうであったように、先ずはボランティア翻訳に携わることから始めてはという話をよくする。今回、受講生は実際に翻訳者がどのようなプロセスで仕事をするのか、そして私が30年近く日本吃音臨床研究会の翻訳を続けてきたことが、翻訳という私の生業のべースとなっていることを知ってもらう良い機会にもなったと思う。今は社会へと巣立って行った受講生たちが、これからの人生において、もしどもる人に出会うことがあれば、今回の翻訳プロジェクトを通して学んだことを思い起こしてもらえればと願う。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2026/03/08

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