吃音とナラテイブ・アプローチ

 第3回親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会は、斎藤清二・富山大学保健管理センター長をゲストに、「ナラティブ・アプローチを教育へ」をテーマに行いました。
 そのとき、僕は、斎藤さんと対談をしたのですが、その一部を、「スタタリング・ナウ」2015.2.22 NO.246 で報告しています。
 このときの吃音講習会の全体の報告は、年報NO.22「ナラティブ・アプローチを教育へ」で詳細を掲載しています。興味があり、読んでみたいという方は、在庫がありますので、日本吃音臨床研究会までお申し込みください。 郵便局に備え付けの郵便振替用紙をご利用の上、代金:1冊、1000円(送料を含む)をご送金ください。
 加入者名  日本吃音臨床研究会
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  吃音とナラティブ・アプローチ

 「第3回親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会」は、2014年8月2・3日、金沢市で「ナラティブ・アプローチを教育へ」をテーマに行われました。基調講演、講義、模擬面接、実践発表と討議といった多様なプログラムの中から、今回は斎藤清二・富山大学保健管理センター長と伊藤伸二さんの対談の一部を報告します。それは、ここでお二人によって語られたことが、現在の吃音を取り巻く状況の中で、私たちが戸惑い、疑問に感じていることへの明確な解答となっている、そう強く思われるからです。
           〈報告〉栃木県宇都宮市立陽東小学校ことばの教室高木浩明

1 ナラティブ・アプローチの可能性

共通の体験と語りの積み重ね

斎藤:伊藤さんからこの講習会の連絡をいただき、いろいろ送っていただいた資料を拝見し、吃音の方々がどんな体験をしているのかを学ばせてもらいました。これを言うと結論みたいになりますが、まさにナラティブだと思いました。
 現象としては、吃音の苦しさという形で現れていますが、これは必ずしも吃音だけに特徴的なことではなく、様々なことで苦労している、たとえば慢性疹痛(とうつう)の方も、発達障害のグレーゾーンの方も、表面に現れている苦しさは別のものだけれど、吃音を含めて、すごく個別的ではあるが、共有、共通の体験があると感じています。

伊藤:僕たちもそのことをずっと強調してきたように思います。1970年、アメリカの言語病理学者、ジョゼフ・G・シーアンは吃音氷山説を提案しました。いわゆる吃音症状といわれているものは、海面上に浮かんで見えるごく一部で、本当の問題の大部分は海面下に沈んでいるとの主張です。吃音症状からくる、話しづらさよりも、吃音をマイナスにとらえることで起こるマイナスの影響が、いろんなことで、生きづらさや困難を抱えている人に共通する、人間の悩みの普遍的なものだと、僕たちもとらえてきました。
 だから、言語病理学よりも、精神医学、臨床心理学、社会心理学、宗教などにも関心をもってきました。その中の一つがナラティブ・アプローチで、これまで学び、考えてきたことが、ナラティブで説明や整理がつきそうな気がしています。

斎藤:私たちは物語を生きています。その物語を生きていると半分は意識できるが、物語に生かされているという面がある。そうした中で、苦しいことに悩まされたりしますが、吃音という一つの領域の中で、これだけ深く考えられ、交流し、書かれているという点に驚きました。
さらに伊藤さんが、基調提案の中でおっしゃった、「吃音のナラティブは、そのままでは誰にも注目されないで終わってしまう。その表現を受け止めるものが必要で、それをどう作っていくか」に強い印象を受けました。ただ、吃音というフィールドは、非常に長い歴史があり、今、まさにその機が熟しているように思います。ですから、ナラティブの方法論を機械的に当てはめるのではなくて、上手く利用することで、吃音のナラティブを非常に明確に、誰にも分かる形で描き出せる時期が来ているように思います。
伊藤:ほんとに僕たちは語ってきたと思うんです。それを蓄積して積み重ねて、治したい、治せる、治せないという葛藤の中で、治そうとすることが実は自分を苦しめている。さらには、自らの語りの中で、自分自身の甘えに気づき、それがために自分の人生をあやまって送ってきたという洞察にいたった。その語りの集大成として文書に残したのが、1976年の「吃音者宣言」です。

客観性神話、本質主義

伊藤:当事者は、苦しみ、試行錯誤して、ここまで到達したけれども、専門家はやっぱり治した方がいいと言い続ける。それがほんとに根強くて、今、「どもりは治る・治せる」が復活し、歴史は、50年以上も前に戻ってしまったかのようです。再び、治したい、治さなければという大きな波が来て、吃音検査法を使って、どれだけの時間どもったとか、どれくらいの語数でどもったか検査をして、症状を軽減させようという動きが強まっている。
 この吃音検査法については、僕らは当事者として、すでに35年も前から一貫して、吃音は検査できないと言ってきた。検査する人によって、検査結果の数値が変わる。優しい感じの人に、「読んでみて」と言われたら、なんかすっと読めるけれど、怖い人に言われたり、雰囲気や場所が違うと、すごくどもってしまう。それだけでも大きな変動があるし、時期によっても変わる。
 今日の午前中、僕は久しぶりにすごくどもりました。でも、今ここでこうしてしゃべっていると、そんなにどもらない。たかだか、5時間ほどしか経過していない一日の中でも、こんなに大きく変動していくのが吃音です。それを検査しても意味がないのです。
 意味がないだけでなく、吃音の症状の検査をする人も、される人も吃音の症状にとらわれ、吃音を治さなければならない、悪いものだとの意識が強まります。僕たちが、日本音声言語学会の検査法を35年も前に批判したことで、すでになくなったと思った吃音検査法が、当時のそのままの形で去年出版され、「ことばの教室や言語聴覚士は、これを使うように」となったんです。
 さらに、それに連動するかのように、どもっていると看護士とか、医療従事者とか、コミュニケーションを必要とするような仕事には就かない方がいいんじゃないかという、吃音の当事者の方からも流れ始めた。ここ2、3年で一気に50年前に逆戻りの様相を呈している、そんな状況です。

斎藤:いくつかポイントがありますが、ひとつは大学生の発達障害支援の場合と重なるパターンです。大学生の発達障害は、実は非常にとらえどころがなく、成功もしている方に、いわゆる中核的な傾向が見られる。逆に、発達障害と診断されているけれども、それほどそういう傾向は強くない、あるいは、適応障害的な部分が強い場合にも、同じような傾向があるとみなされます。いずれにせよ、最近ではそれを、たとえば知能検査を行って、能力のバラツキなどでアセスメントするわけですが、現実的にはそれほど機能していない。
 ところが、検査は客観的なものであると信じられているので、検査結果がないと、ほんとの発達障害じゃないみたいな話になる。きちっと早くアセスメントして、適切な指導を受けましょうと言われたりする。今のところ、発達障害の場合は、障害概念が社会モデルに基づいているので、治療して治すとか、自分の根性でなんとかしろとは、さすがにならない。そういう苦手さを持つ方は支援しましょう、社会の方が、ちゃんとアクセシビリティを保障しましょうとなっている。
 ただ、検査というものが、発達障害を、この人はほんとの発達障害、この人は違うと決めうるものだという神話は根強くあり、それは一種の客観性神話、発達障害という本質が存在するという本質主義です。それらはナラティブの発想とは、かなりはっきりと対比され、対峙されるものです。

よりよい物語を発信する

斎藤:ふたつ目は先ほど伊藤さんがおっしゃった文脈依存性です。そもそもコミュニケーションの問題は、関係性の中で出現してくるものです。ところが、コミュニケーション障害とか、コミュニケーション能力が低いとかを、個人の属性だと考えるのが、実際には主流になっている。もし個人の属性でないと考えれば、検査も何もないわけで、状況によって変わることはどうしても認めざるを得ないにしても、それは例外的なことであると考える。あるいは、状況を変えることで、多少サポートはできるが、やっぱり発達障害の人はコミュニケーション能力が本質的に低いのだと考えるのが、いわゆる客観主義の考え方です。
 しかしナラティブ・アプローチは、そうは考えません。実際、一対一で対応している限り、全くコミュニケーションに問題のない発達障害の人はたくさんいて、それが圧迫面接みたいな環境になると、モロに全然何もしゃべらなくなる。あるいは、一見、丁寧に話を聞いているのに、何もしゃべらない時には、実は微妙なズレがあって、学生が何かをしゃべっても、学生の論理とは合わない答え方をこちらがしていたりする。そうなると、この人は話が通じないというところで止まってしまい、場合によっては、パニックになったりする。
 実は、その辺のノウハウは、何が起こっているのかを丁寧に見ていけば、かなりのことが分かります。ただ、根本的に関係性の中で問題が起こっているという認識が共有されないと、どうしても、この人はどういう能力の欠損があって、それを客観的に測定して、となる。そして検査の結果から導かれた問題が、個人の属性とされる。そのあたりにすごく吃音と共通性があるように思います。
 これを物語論的に言うと、社会的な物語は、やっぱり語られることを要求する。また物語には、物語論的物語だけじゃなく、客観主義的物語もある。なのでどちらが優勢になるかは、物語をどちらがより多く、より説得力を持って語り、あるいは語るチャンスがどれくらい与えられるかで決まってきます。そう考えると、好ましくない物語を、単に抑えるというのはすごく難しいし、それよりも、よりよい物語を積極的に発信していくのが、多分一番正しいやり方だと思います。
 そのためには客観主義による物語を包括しつつ、それを超えるような物語が必要で、僕はナラティブ・アプローチの可能性がそこにあると思っています。よくエビデンスとの比較で問題になるんですが、なんでもかんでもエビデンス、エビデンスと言うことに非常に弊害があるのは事実です。けれども、「エビデンスと言うのはやめなさい」と言っても、それは無理なわけです。エビデンスを主張するのも一つのエビデンス物語であり、だから、それを包括しつつ超えるような物語を我々が作れるかというところが、むしろ大事です。

2 エビデンスをめぐって

急性腰痛のエビデンス

斎藤:実は、客観的な検査は、あまり当てにならないんです。というのは、ほとんどエビデンスの基準を満たしていないからです。だからエビデンスを丁寧に勉強していくと、むしろこちらに有利なデータがたくさん出てくるんです。

伊藤:「エビデンスにもとづく吃音支援」という本があって、その中のエビデンスがあまりにもいい加減なものだったので、いいイメージがもてませんでした。また、統計的、科学的根拠と言われても、どもる人は、ひとりひとり違うわけで、なじまない。だから、ナラティブは、エビデンスに対抗していくものだと、漠然と思っていました。

斎藤:一番典型的なのは、腰痛です。いろんな方法で治療されていますし、丁寧に何かしてあげれば、それなりによくなったという主観的な体験は得られるが、ほんとにエビデンスがあるのか。エビデンスがあるということは、文脈依存的ではなく、冷やす、温める、何もしないということが独立した状況であった時に、急性腰痛の人の回復日数が変わるということです。
 ところが、これはもう完全に全部同じです。つまり、差はないというエビデンスが出る。そうなると別に絶対温めなきゃいけないでもないし、絶対冷やさなきゃいけないわけでもない。別にどちらをしてもしなくても変わらないということが、エビデンスとしては正しいとなります。
 そうやって調べていくと、急性腰痛の場合、実は安静にさせないことに、エビデンスがあるんです。また、急性期には、たぶん痛みが続くことでの悪循環の形成が防止される意味で、痛み止めを使った方が早く治る。それから、日常生活の運動量を多く維持させる指導に効果があることも分かっています。安静にすると、エビデンス的には、急性腰痛の改善に必要な日数が長くなる。
 でも、これは、我々の常識とは全然違います。手当てしないで普通に動いた方が早く治るというのは、我々の常識とは相容れない。さらに、「何もしなくていいんだから、病院に来る必要はない」と言われたら、患者さんはどう思うか。さすがに、「それは、やっぱりちょっとつらいね」となり、積極的なエビデンスがなくても、患者さんと相談して、患者さんが望むなら、少なくとも害のないことが証明されている方法、たとえば湿布を貼ったりするのは別にいいんじゃないかというあたりに、落ち着いていくわけです。

吃音の治療法に関して

斎藤:だからエビデンスは味方になりうるんです。ただ、エビデンスを丁寧に勉強しないと、だまされる。「これが絶対いいんだ」と、むしろ悪化要因になることに気づかなかったりする。ということで、「腰痛の人には安静を勧めるのがいいんだ」と、誰かが言っている場合に、「それは違うんだ。むしろ害があるんだ」とエビデンスを主張することにはすごく大きな意味があります。
 そこで、吃音の治療法はあるのかないのかという問題ですが、確実に有効な吃音の治療法をエビデンス的に証明するのは、おそらく非常に見込みが低いだろうという気がします。他方、害のある方法というのは、普通、そのエビデンスを作ろうとする人が少ないので、なかなか証明できない。それらを全部ひっくるめて言うと、検査とか新しい治療法を求める動きが、現在の医療倫理に反しない範囲で行われるのであれば、それに対して「けしからん」とは言わずに、それはまあやってもらっておくというのが一つの選択肢です。
 そして、実はそれ以上に影響している、たとえば患者さんのナラティブの変容とか、丁寧な会話の有効性とかを、エビデンスの方法論を使わなくても、今は質的な方法が信憑性を持つことが分かって、評価されているので、それを丁寧にやりながら発信することに、十分見込みがあります。

一つに決まるか、分からないか

伊藤:僕たちがどもる人たちとずっと関わり、吃音について語り続けて思うことは、結局はどもりを治そうとがんばった人は、かえってどもりが治らないだけでなく、いつまでも、「どもる・どもらない」にとらわれて、楽しくない。そうではなくて、「どもっても、まあいいか」と思って日常生活を大切に生きていくと、今までどもりたくないからと話すことを避けてきた人が、日常生活で話す機会が増えていく。そうすると、それが結果として言語訓練になっているのか、どもりを認めて生きる人の方が、吃音症状そのものもずっと変わっていく。また、吃音のとらわれから解放されていく。楽しく生きています。
 これは感覚的には、絶対多いなあと僕らは思っていますが、それがエビデンスとして成り立つのかは自信がありません。どういうふうにして治す、治さなければと主張する人たちに、説得力を持った根拠として示すことができるのか。

斎藤:それについては、いろんな切り口があります。たとえば胃の調子がいつも悪いけど、検査をすると何ともない人がいます。昔は慢性胃炎とか、胃下垂とか言われたんですけど、今はファンクショナルディスペプシア(機能性胃腸症:FD)と呼ばれます。要するに胃の機能障害です。昔だと「胃カメラで異常ないから気のせい」みたいに言われたんですが、本人はずっと胃の調子が悪いわけで、すごく苦しいんです。
 それが、今は、診断基準があり、症状クライテリア(症状基準)でこれと、これと、これが3ヶ月以上続いていれば、FDと診断していいとなっていて、これが一応エビデンスのシステムの中に取り込まれて、コンセンサスがあるわけです。
 じゃあ、病態や治療はどうなっているんだというと、現在、日本の消化器医療学会がGRADEシステムという新しいシステムで、エビデンスに基づくガイドラインを出しています。それを見ましたら、実におもしろいのは、そのFDの病態、病因については「複数要因であるというエビデンスがある」となっています。っまり、一つでは説明できない。胃の運動機能の問題、内臓知覚の問題、それから心理社会的な要因、その他いくつかの有力な要因があり、それも含めて複数の要因が関与しているのは、ほぼ間違いないというエビデンスがあると、ガイドラインに明記されている。
 この「複数の要因にエビデンスがある」というのは、実は論理的にはややこしい、変な話です。今までは、原因というのは一つに決まるか、それとも分からないか、どちらかだった。だから、そもそも原因をどうやって決めるのかというパラダイムの方が、実は変わってきていて、こういう原因が関与していると正当に証明する論文が複数出ているから、要因は複数なんだという結論が、ガイドラインで出ている。じゃあ治療はどうかというと、効くかもしれないみたいな薬もいくつかあるけれど、今一番はっきりしているのは、良好な医師・患者関係の形成が有効であるという確固たるエビデンスです。そういう時代なんですね。

多要因も関係性も当たり前

斎藤:ただ問題は、吃音の場合、たとえば「良好な医師・患者関係にあたるものを保つ介入が、実験群と統制群を比べて確かに効果があるか」といった研究を、ほんとに誰か一生かけてやる気があるかという話なんです。

伊藤:そういう研究をする人はいないでしょうね。

斎藤:だとすると、今できるのは、例えば吃音に関する外国の論文から、要因に関する研究結果を検索して、そのレビューに基づいたガイドラインを作るといったことで、そうすると、先程のFDと似たような結果になる可能性が十分ある。実は、原因も不明だし、有効な治療法が確定していない領域は、いっぱいあるんです。
 でもそうした領域でも大概は、原因も治療法も絶対一つに決まるはずだというパラダイムで研究してるわけです。ところが、もうすでにエビデンス・ベイスト・メディスンの発想は、そこを通り過ぎていて、多要因というのは当たり前、関係性が治療効果に影響するのも当たり前になりつつあるんです。これは、ここ10年ぐらいの進歩です。

伊藤:ああ、10年ですか。

斎藤:ですから、最近の「治す、治さなければ」という揺り戻しの専門家の方々は、もしかしたら依然として10年以上前の発想でやってる可能性があると思います。そうであれば、新しい発想の方を、我々は取り入れればいいわけです。

伊藤:僕たちはどもる人の国際会議をやっていて、その中で外国は、やっぱり、本来吃音はない方がいいだろう、少しでも症状が軽減した方がいいだろうということに、ずうっと凝り固まっていると痛感しています。精神医学をはじめ他の領域では、これまで効果がなかったことに対して反省して、違うことを考えようという動きが出ているにも関わらず、吃音の世界だけが、なんか昔のやり方、自分たちだけで問題を解決しようとする。
 吃音の氷山の下の部分は、人間の悲しみ、苦しみ、悩みの普遍的な問題であり、それらに取り組むためにいろんな理論や考え方が示されている。それなのに、なぜそれらを吃音の問題、不安や恐れの対処とかに使わないのか、僕には不思議でならない。けれど外国の論文は、氷山の上の部分、症状だけを何とか軽減、軽くしように凝り固まっていて、そのことだけに、おそらく終始している。なので、これはもう日本的な、東洋思想を踏まえた、ありのまま、「まあいいか」という物語を、僕たちは丁寧に展開していくしか方法はないのかなあと、ある意味絶望的な感じがしているんです。

斎藤:ちょっと連想なんですけども、意外と絶望的でもないような気がしています。

治そうとしないことのエビデンス

斎藤:エビデンスの動向を見ていると、たとえば精神分析という心理療法は、最近ちょっと旗色が悪いけれど、非常に歴史もあり伝統的なものです。その精神分析にもエビデンスはあるんだという努力をしているんです。ただ、精神分析の人たちは、どうもエビデンスを非常に古い考え方でとらえているように見えます。また精神分析にエビデンスがないから認知行動療法に取って代わられるという政治的な流れがあったりするので、ちょっと無駄な努力をしている感じがするのです。
 一方、認知行動療法は確かに効果はあるけれど、ひとつの問題に対してひとつの治療技術みたいなところで、ちょっと浅いんじゃないかと言われてきました。ただ実際にはそうでもなくて、最近の第3世代の認知行動療法を見ると、マインドフルネスが出てきて、これは仏教の瞑想に近いものです。その仏教の瞑想にエビデンスがあるのかというと、あるんです。ですから、それはスタディ(研究)デザインの問題なんです。あとはどれだけそれをやる気があるかという問題です。
 ただ、私は必ずしも我々が、アメリカと同じような研究をやる必要はないと思っています。なぜならエビデンス・ベイスト・メディスンでは、データーベースが作られれば、それは誰が使ってもいいものです。そうすると、吃音の人を日本で集めてランダム化比較試験をやらなくても、たとえばうつや不安の人にマインドフルネスが効くことに関しては、エビデンスがあるのでそれを利用すれば良いとなります。マインドフルネスは、要するに自分の中に起こっていることを、丁寧に観察し、言語化し、それを治そうとしない方法です。治そうとすることが、実は症状を固定するんです。

伊藤:そうなんです。そのことを一番知っているのがどもる当事者です。どもらないようにしようと思えば思うほどどもってしまう。治そうとすればするほど、吃音にとらわれる。そこで僕たちは「吃音を治す努力の否定」をしたんですが。

斎藤:まさに伊藤さんがおっしゃっていたことです。だから治そうとしないということです。ACT(アクセプタンス・コミットメント・セラピー)では、「今まであなた方は、いろいろやってきたでしょう。ひとつでも上手くいったことがありますか?」と聞く。そして、「ない」と言う人に対して、マインドフルネスを中心とした方法をやっていくわけですが、その効果をエビデンスとして出してるわけです。つまりそういう考え方そのものに妥当性があるという証拠なわけです。
 そこで、絶対に吃音もそうだから、「あんたたちよりも私たちの方が正しい」と、あまりやり過ぎますと、それは向こうも困るから抵抗するわけです。

伊藤:抵抗、そうですね。今すごく抵抗されているんだと思います。最近は名指しで批判されるようになりました。「治るのに、改善できるのに、治らない、治せないと言っている人間がいるのは、けしからん」というような。

斎藤:だけど、「なんかこっちの方が、どうも上手くいきますよ。肩肘張って治療するよりも、マインドフルネスなんかは、ある意味スマートな方法で、エビデンスもあります。だけど古典的な科学、科学と言っている方は、エビデンスが出てないような・・」みたいなことを、ちょろちょろ、こっちが主張してれば、私は何とかなるんじゃないかと思うんです。

伊藤:なるほどねえ。こちらは機嫌良く実践を続けているのですが、どうもちょっかいを出してきます。気になる存在ということなのでしょう。

斎藤:エビデンスというのは、ひとつのスタディデザインなんです。ただ、多くの場合はエビデンスを絶対だと思って信じている人たちがいて、さらに、それを利用している人たちがいて、そのために現場が困るということが、繰り返されているんです。だいたいエビデンスをちゃんとやっている人は、伊藤さんも紹介してくれた『医療におけるナラティブとエビデンス』(遠見書房)に書いてあることを、ほとんど認めてくれます。ですからエビデンスは我々の味方です。ただし我々が、エビデンスのことを中核的にやらなきゃいけないかというと、別にそういうことはない。きちっと理解して、見分けるものを見分けて、主張すべきことは主張すればいいと思うのです。

3 吃音と脳科学、感染症モデル

脳科学は古典的な基礎医学的研究

斎藤:ひとつ、私が聞きたいことは、脳科学と吃音の関係です。これについての最近の流れはどんなふうになっているのでしょうか?

伊藤:どもった時、脳にどういう活性化部分があるか、どもる人とどもらない人を比較する研究がなされていて、両者には違いがあると主張する人はいます。でもそれは、どもる原因として、どもる人の脳に異常があるわけではなくて、どもった時に結果として、脳のある部位の活性化、不活性化が起こるかもしれない程度だと僕は認識しています。かつての「みのもんたの・おもいっきりテレビ」のような家庭医学程度のことです。

斎藤:脳科学は、今、トレンドです。研究しようと思えばやりやすくなっていて、どんどんできるわけです。けれども、結果の解釈は非常に慎重でなければいけないと思います。私が気になるのは、先程の、吃音は治療や検査をしなければいけないという動きと脳科学とが、同じ方向を向いているのか、どうなのかですが。

伊藤:全く同じ方向を向いていると思います。

斎藤:そうなんですか。実はこの辺は理論的に、ほんとは食い違いがあって、恐らく脳科学は敵にはならないと思っているのです。というのは実は脳科学のデータは、ほとんどの場合エビデンスとは認められないんです。
 つまり、エビデンスというのはあくまでも臨床疫学的なデータですが、脳科学の方法は、対象が人間であったとしても、基本的には生物学的基礎研究です。吃音の方をアトランダムに分けて、何らかの介入をしてというスタディデザインではないので、脳科学というのは要するに基礎医学的データなのです。もちろんそれは知見として、あって悪いことはないのです。けれども、それをもって、先ほどの治療法を目指す研究に結びつけるのが、唯一正しい方法だとは全然なりません。
 おそらく脳科学に関して熱心な方はおられるし、その知見自体は、認識論的に誤解しない限りは意味はある。けれど、それは決してエビデンス・ベイスト・メディスンではない。なり得ないのではないけれど、普通の意味で言っているエビデンス・ベイスト・メディスンとは違う話で、むしろ古典的な基礎医学的研究の範疇に入るわけです。
 だけど、そこを一緒くたにしてくる人が結構多い。脳科学の研究は、ひとつひとつのデータは、「あ、そういうことが分かったんだ。それは確かにためにはなるけど、目の前の人に対してどう考えるかは、まだまだ丁寧に見ないといけない」ということです。ですから、あまり脳科学研究を敵に回す必要もない気がします。ただ時々、脳科学研究の結果を拡大解釈して、すべて分かったようなことを言う人がいて、さらにそれが治療法に結びつくと、それこそニセ医学、ニセ科学になっちゃいます。そこを丁寧に見て、きちっと判断していけば、いいんじゃないかなあと思います。

セロトニン物語―薬物療法の限界

伊藤:もし仮に、どもる人の脳に異常が見つかったとして、そこから治療法が展開されたとしたら、どういう可能性がありますか?

斎藤:その点に関しては、今まで上手くいかなかった発想法が依然として残っている気がします。たとえば、うつ病が脳の中の神経伝達物質のセロトニンとかドーパミンとかで決まるという仮説、それをセロトニン物語と私は言ってるのですが、その仮説に立てば、「だからセロトニンを増やす薬をやればよくなるよ」となって、SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)とかの薬が出てきたわけです。
 そして、よくなる人はよくなるけど、一方で副作用もあるし、よくならない人はよくなりません。だいたい半分ぐらいの人には効くけど、それ以上は効かない。若い人にやると害もある。しかもどう考えたってセロトニンだけですべて決まるわけではない。科学的に見ると、セロトニンのレベルが変わっているけれども、脳というのは単独で動いていない。可塑性も非常にある。うつで引きこもっていること自体が、脳を変化させることもある。ということで、やっぱり多要因のネットワークの中で見ていかなければならない。
 今、多剤併用大量処方の薬物療法は、すごい批判があって、おそらく法律レベルで規制される形になりつつある。ですが、吃音を脳のどこかの部位の、何かのトランスミッターの伝達物質の障害と考える人は出てくるかもしれません。それも正常な人と比べたら、何パーセント高いとか低いとかのデータでしかないものを元にして、じゃあそこをちょっと操作するような薬物を使うという発想は、当然出てくるでしょう。でも、そうした古典的なやり方では、おそらく上手くいかないだろうということです。ただ、一生懸命やってる人たちがいるのに、「それは上手くいきませんよ」とこっちから言っても、あまり意味のないことなので、「まあほんとにいいのがあったら、それができたら、使わせてください」と、言っておく。
 今はだんだんそういうところに厳しくなっていて、治験をやるのも大変ですし、捏造の問題もある。見通しとしては、そういう脳の中の単一原因を操作することで、ほとんどの吃音の人にいい効果があるような薬物療法ができると考えるのは、おそらく相当に無理があり、楽観的すぎます。

伊藤:その脳のことを一所懸命やろうという人は、結局薬しかないので、副作用のない薬を開発したい、開発しようとなる。当事者も薬を何とかして欲しいと言う。当事者がこう願っていることに、僕はとっても違和感と危機感を感じています。精神障害の人たちの中では、薬によって大変なできごとが起こっている。それに対して、薬や治療法ではなく、吃音を認めて、ナラティブを変えれば、楽しく豊かに生きられるたくさんの事例があるにも関わらず、そこに薬を求める当事者や研究者がいるというのは、何かすごく悲しいです。

斎藤:やっぱり、ある程度やむを得ないんじゃないでしょうか。そういう夢を追う人がいるのは、まだまだ避けられないですよね。

伊藤:もちろん、そうですね。他人がしていることに止めろとは言えない。

斎藤:ただ、だんだんそういうことは、やりにくくなっています。例えば発達障害でもADHDに対するコンサータは適応がありますが、それも使い方は結構難しくて、そういう薬をやればすべて解決するというわけではありません。もちろんあるところだけに絞って言うと、薬を使うことで、それまで他の方法ではすごく大変だったものが、改善することはあります。ただそれも厳密に言うと、本当にその薬が効いているのかどうかを証明するのは非常に難しいのです。
 そこから、いわゆる夢の治療法みたいなものを求めたくなるのも、ある程度仕方のないことです。ただそのために、インチキ療法みたいなのが出てきたりするので、そのへんを丁寧に、当事者の方が害を受けないような主張をしていくことが、大事だと思います。

感染症モデル

斎藤:僕はやっぱり感染症でない限りは、夢の一発療法みたいなのはあり得ないと思っています。ただ、実は変な話ですけど、私自身、消化器の医者で、胃潰瘍、消化性潰瘍をずっと研究していたんですが、それがまさかと思っていたら、感染症だったんです。胃潰瘍はストレスだとか、性格だとか、たばこだとかいろいろ原因が言われていたわけですが、ヘリコバクター・ピロリの感染症、少なくともそれが一番の要因だったんです。
 感染症は、病原体がいても発症しない人もいるので、それだけが要因とは決まらない。だけど、病原体がいなければ発症しません。なので、北里柴三郎の時代に感染症は大当たりしたわけです。感染症と分かることで、今まで全く分からなかったものが分かって、劇的な効果を上げるわけです。そのせいで今でも、感染症モデルは非常に強力で、何か未知の感染症が見つかれば、今まで苦労していたものが一気に解決すると考える。それが実際起こったのが胃潰瘍で、ピロリ菌を除菌すればすべて解決するとなった。
 じゃあ、何かの菌を除菌したら、吃音は解決するのかということですが、これは、まあ可能性は非常に低いですね。ゼロとは言いませんけど。だから、単一の原因を探して、その原因を取り除く最良の副作用のない薬物なり、ひとつの方法なりを確立すれば、どもりが解決するというのは、まさに感染症モデルで、この感染症モデルは医学の中から、ちょっと消し去れないものです。
 ガンに対して感染症モデルがどの位役に立つかが、我々の世代の大きなテーゼでした。そのうち一部、肝がんはC型肝炎とか、肝炎ウイルスとか、今ワクチンで話題になっている女性の子宮頸がんのかなりの部分がパピローマウイルスだとか、そういう意味での感染症モデルは一部成功しています。でも大多数のガンは、感染症モデルでは説明できず、未だにガンは解決していないわけです。
 じゃあ、精神疾患の中で、感染症モデルが通用するものがどれくらいあるかと言ったら、全然ないわけではないけれど、非常にまれです。もちろん吃音は精神疾患とは言えませんが、慢性頭痛なども含めた複合的な苦しみであろうと考えると、この複合的な苦しみ、疾患群、疾患と呼べるどうかも分からないですけれど、そういうものが感染症モデルで一気に解決するというのは、これはまさに正月の正夢みたいなものだろうと思います。(続きは日本吃音臨床研究会の年報でお読みください)

《斎藤清二教授のプロフィール》
富山大学保健管理センター長・教授。新潟大学医学部卒業。県立がんセンター新潟病院、東京女子医科大学消化器病センター、新潟大学医学部付属病院、富山大学医科薬科大学歯学部などを経て、1993年、英国セントメリー病院医科大学へ留学。1996年、富山医科薬科大学医学部第3内科教授、2002年より現職。(内科学、心身医学、臨床心理学、医学教育学)
著書に『はじめての医療面接コミュニケーション技法とその学び方』医学書院、『ナラティブ・ベイスト・メディスン臨床における物語りと対話』
金剛出版、『ナラティブ・ベイスト・メディスンの実践』金剛出版、『ナラティブと医療』金剛出版、など多数。(了)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2026/02/23

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