劣等感の補償~吃音サバイバル~ 2

 小林悠太さんと厚美さん親子の吃音の旅を紹介しています。
 悠太さんは、2013年10月から、ウィーン国立音楽大学大学院でヴァイオリンを専攻するため、留学しました。悠太さんが小さい頃からの知り合いの家の2階で、新しい生活が始まったのですが、その知り合いの医師であるドイツ人は、親切に治療をすすめてくれます。必要はないといくら悠太さんが言っても、しつこく治療をすすめるので、自分の吃音に対する考えをはっきり伝えるため、悠太さんは、ドイツ語で文章を書き、読んでもらうことにしました。ドイツ語の手紙を、悠太さん自身が日本語に訳したものを紹介します。(「スタタリング・ナウ」2015.1.20 NO.245 より)

―悠太さんがドイツ語で書き、それを日本語に訳した文章―
ゲルハルト様
〈前略〉

 さて、とにかく(吃音に対する私の見解の提示を)始めてみましょう。まず、私の見解の結論部分を前もってお示ししようと思います。

1 私は、基本的には自らの吃音を治そう、あるいは消そうという気はありません。吃音それ自体は、私にとっては大した問題ではないのです。
2 恐らくあなたもすでにご存知の通り、吃音には(調子の)波があります。ときにはそれは良く(症状が軽く)なり、またときには悪化します。そしてその上で、私は、自らの吃音が悪化する時、自らが一体どのような状態にあるのかということを、すでに心得ております。それは決して(*発話それ自体の生理学的要素とは無関係であるというほどの意味で)表面的な事柄ではありません。
3 上記の内容も含めて、我々の会話が必ずしも円滑に運ばない理由は、大抵の場合私の吃音それ自体の問題とはほとんど関係がありません。(2で述べたこと以外の)それの主たる要因は、私のドイツ語力やコミュニケーション能力の不足であり、私のせっかちな性格であり、そして私の対人恐怖症にあるのです。
 さあそれでは、順を追ってこれら諸結論の内容を説明していくことにいたしましょう。

1 (ここでは結論1で述べたこと(吃音を治す気がないということ)の理由を示す)
 まず第一に、発話(吃音)の問題と仕事や勉学の問題とははっきり峻別されるべきものであり、どう考えても(absolut)後者は前者に優先されるべきであります。映画「英国王のスピーチ」をすでにご覧になりましたか? 彼、英国王は、自らの吃音が原因で(国王の職務の一つである)演説を上手くこなすことができず、そしてそれが故に、彼は常に王職から逃げ続けていた。しかし彼は、彼の友人の手も借り(mit seinem Freund)、ついに自らの困難を克服し(王としての職務を引き受け)、自身の最後のスピーチを見事成功裏に終わらせます。しかしながら、このエンドの部分に関して、多くの人々が完全に誤解しているように見受けられます。彼の吃音は(*多くの人々の見解に反して)決して治ったわけではないのです。その証拠として、あの(最後の)スピーチの直前(の練習中)、彼は凄まじくどもっていたではないですか!
そう、彼も彼の友人も、決して吃音それ自体を治したわけでも消したわけでもないのです。そうではなくて、彼らは“職業上の困難”としての彼の演説の問題を解決したにすぎないのです。そして彼は、自らのハンディキャップから逃避することなしに、自身の職務、義務を全うした。これがこの映画の核であり、最も重要なポイントです。
 自らのハンディキャップ(彼の場合は吃音でした)を理由に自らの職務(彼の場合は演説でした)や勉学から逃避すること、これはたしかに大変よろしくないことであります。しかしながら、もしそれらのことを全うしているのであれば、その時彼は自身のハンディキャップを“精神的”に克服しているのであり、そうしたものはすでに彼にとっては取るに足らないものとなっているのです。そして実際、私はすでにそうした状態に至っております。
 第二に、それに加えて、吃音それ自体の問題に拘わり続けるのは、(私にとっては)時間の浪費に思えてなりません。(先ほどの例を引きますと)英国王の場合は、演説の練習に熱心に取り組むのは、非常に大切なことでした。言うまでもなく、演説とは彼にあっては職業そのものだったのですから。しかしながら、私は残念ながら国王ではありません! 私の場合、何としても果たさなければならない事柄が山のように存在します。学問や芸術の世界はあまりにも(無限に)深く、広い。人はどれほど学び研究しようとも、この終わりなき観念の世界を網羅することなど、とてもできそうにありません。こうした(観念)世界が私たちの現前にひろがっていながら、どうしてそうした世界から(あえて)目を逸らすことができましょう、どうして(私自身はどうでもよいものとみなしている)発話に関する治療などというものに、この貴重な時間を費やすことができましょう!?
 ゲルハルトさん、あなたならこんなことくらいは理解できるはずです。最も重要なことは「いかに話すか」ではなく、「何を話すか(考えているか)」である、ということを! (ですが、私があなた方の「歌と体のケア」に関するレッスンには完全に満足しているということは、どうか忘れないで下さい。というのも、そうしたレッスンは私のヴァイオリン演奏に、また私の生(健康)それ自体に深く係わっているのですから!)
 第三に、これまで私は、たとえどもっていようとも、他人に何かを伝えてきましたし、また彼らとコミュニケーションを取ってもきました。少なくとも大学生になって以来、私は他者とコミュニケーションを取ることにさほど困難を感じてはいません。発話の外に、人間はもう一つ別のコミュニケーション手段を持っています。
 すなわち、「書くこと」です。私はこれまで、長く重要なことがらは文章(手紙)で伝えてきましたし、多くの人々も大抵は(とりわけ賢い人々は)そのことに理解を示してきました。そして私自身も(他者とのコミュニケーションに関しては)それで充分だと思っております。
 最後に、私はもう24歳です。立派な大人であります。私はもう、自らの問題や課題を自らの手で決定しなくてはならないのです。(たしかに)私は医学を専門とする者ではありません。ですから、あなたの吃音に関する主張が医学的にみて正しいのか否か、私には存じ兼ねます。ですが、たとえそれが科学的に全くもって正しいものであったのだとしても、それでも尚、あなたによって提示された治療の数々を私が受け入れるか否かは、やはり私の権利あるいは自由に属するものであり、(少なくとも)あなたの権利ではありません。
 また(逆に)、たとえ吃音のせいで私が酷な経験をすることになったとしても、それは何らあなたの責任ではなく、(純粋に)私の責任、私の問題であるのです。そして、それに対する覚悟もすでにできております。そんなわけで、この問題に関してあなたがそれほど気を遣われる必要はないのです。
 こうした諸理由にしたがって、私は吃音それ自体のための専門的治療(デモクリトス・セラピー、ましてや催眠療法など!)を受ける気はありません。
 しかし、そうは言っても私は、吃音というものが何らかの外的要因からの作用によって「変化」するのだということ、また場合によっては良くなっていくのだということ、こうしたこともまた知っております。以下に私は、こうした事柄の数々をお示ししようと思います。

2 すでに書きましたように、吃音には多くの、そして様々な様態、状態(=波)が存します。ここではそれらの諸様態を簡便に「二通りの形式」に分けたいと思います。すなわち、「重い吃音」と「軽い吃音」です。
 軽い吃音にあっては、私は容易に(難なく)会話に集中することができますし、そもそも(そうした時には)吃音のことが全く気になりません。いずれにせよ、私は軽い吃音を寸毫も問題とは看 していないのです。しかしながら、重い吃音にあっては、私自身がまた非常に苦しい思いに苛まれております。このようなとき、私は自らの感情を自身でコントロールできなくなり、会話におけるあらゆる要素が制御不能の状態に陥ります…。
 かくして私は、このような状態(重い吃音)は改善することができるのではないか、いや(あるいは)改善“すべき”なのではないか、…こう考えるわけです。(少なくともう私は、こうした状態に陥ってしまう主な要因を、自らの感情や洞察を通して、すでに何となく分かっているのですから。そこで、ここではそうした要因について書き下していきたいと思います。
 しかしながら、その前にあなたに対してある重要な前提(条件)を提示しなければなりますまい。以下の文章が有意義なものになるか否か、それはひとえにこの前提に対するあなたの反応(態度)にかかっております。

前提:発話の中にしばしば滞り、吃が生じるが、会話それ自体は明らかに成立している、そうした「軽い吃音」は全く問題ではない。なぜなら、私はそれを何がなんでも治し、改良しなければならないような代物とみなしていないからである。((1)を参照!)したがって、我々はこれ以上「軽い吃音」に拘わるべきではない。
 いかがでしょうか、これに同意することができますか? できない、と言うのでしたら話は簡単です。あなたが私を見限ればよいだけです! そして、以下の文章を読む必要もない。しかし、もしあなたがこの前提を受け入れられるのであれば、「重い吃音」に関する対策について共に考えていきましょう。

 さて、話を元に戻しましょう。私の吃音が重く(ひどく)なるとき、一体どのようなことが起こっているのでしょうか?
 このような状態になるとき、きまって私は頭の中が整然としておらず、むしろ混乱している。そしてそうした折には、私は自ら発する言葉に対して自信が持てなくなるのです。言ってみれば、こうしたとき私は、何かを「迷いながら」話さざるを得なくなります。この表現方法は正しいのだろうか、この言い方は文法的に正しいのか否か、私の意見・主張は果たして的を射たものであるのかどうか、等々、私は常にこうしたことに疑いを抱きつつ言葉を発しているわけです。こうした疑いとともに話し続けているわけですから、私の発話にも私の思考にも滞りが生じてくるのは、当然の理でしょう。そしてこうした要素や傾向(内的葛藤、懐疑の念)が、(恐らく)私の「重い吃音」に直接反映されているのです。
 事実、多くの日本人が(多かれ少なかれ)こうした傾向を有しております。ただし、私はそれの極端な例であるのでしょう。そんなわけで私は、発話それ自体ではなく、是非ともこうした点を改善していきたいのです。そして、そのためのいくらかの対策が、すでに念頭にあります。第三章で、私はそれらの内容を提示していきたいと思います。

3 第一に、(そうした改善のために)ドイツ語力の向上は非常に効果的であります。これは今更言うまでもないでしょう。私が自らのドイツ語に自信を持つようになれば、我々の会話もまた、自ずと淀みの無い自然なもの(fliessend)となりましょう。そして(兎にも角にも)、私は現在ドイツ語を勉強中の身であります。
 次に、コミュニケーションを取る上での能力(いわゆるコミュニケーション能力)もまた、私にとって必要とされているものでしょう。ある事態を分かりやすく表現するのが、私の苦手としている能力であります。私はともすると大変回りくどい言い方をしてしまうことがあって、それが我々の会話を困難にしていることは言うまでもありません。こうした傾向もどうやら改善する必要があるようです。
 第三に、あなたもすでにご存じの通り、私はかなりせっかちな人間です。もちろん私とて、「待つこと」や「落ち着きを得ること」が全てのことがら(とりわけ発話)に対して非常に重要な役割を担っているということは、十分承知の身であります。そして、そうした面を改善するためにも、あなた方の「歌と体のケアに関するレッスン」は、私にとって非常に助けになるものなのです。あなた方のレッスンのこうした側面は、私は喜んで受け入れるつもりです。
 最後に、私は、自らの吃音を気にすることなく、より多種多様な人間と付き合い、彼らとより積極的にコミュニケーションを取る必要があります。私は対人恐怖症を患っており、実際そのために薬を服用したりもしています。そして、こうした心の病が原因で他人と上手く接触できないこともあるわけで、それが直接私の吃音に何らかの影響を及ぼしているのは間違いないでしょう。ですが、他者と出会い、コミュニケーションを取るという経験をたくさん積み重ねることによって、こうした問題を解決できるということを、私は固く信じております。

〈後略〉

 この悠太の文章に対して返事が来た。
 「これを読んで今まで以上に君を近くに感じる。しかしどもりを治すということを元医者として諦め切れない」
 その後ほとんど変わらない悠太の吃音に諦めたのか色々な治療の勧めはなくなった。良好な関係は維持できている。
 大学院での個人レッスン、授業の中での発表など人前で話すことはもちろん日常的にある。しかし、今の悠太は吃音で困っているようには見えない。自分をよく知り、コントロールしていると思う。何よりいつも学びたいこと、知りたいことがたくさんあるらしく、毎日をとても忙しく過ごしている。(了)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2026/02/20

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