吃音について考え、表現する活動への取り組み~ナラティヴ・アプローチと当事者研究の視点から~ 2
昨日のつづきです。提案者の溝上茂樹さんは自身がどもる人です。子どもたちと溝上さんのやりとりを読んでいると、手探りでどこへ行くか分からない対話の道を、対等に、そして何より楽しんでいるのが分かります。こんなことばの教室があったら、僕も通いたかったなあと思います。では、「スタタリング・ナウ」2014.10.20 NO.242 より、昨日のつづきを紹介します。
吃音について考え、表現する活動への取り組み
~ナラティヴ・アプローチと当事者研究の視点から~ 2
溝上茂樹(鹿児島県知名町立知名小学校ことばの教室)
4 吃音を外在化する―Bさんとの実践―
Bさんは5年生の女子で、話すことが好きで、人前で発表したり、表現したりすることに積極的で、率直に自分の思いを語ることができる。吃音の影響をあまり受けず積極的に行動しているように見えたが、吃音に対する考えは「どもらなかったら、学校生活はもっと楽しい」「大人になってもどもっている人はかわいそう」「どもりはぜったいに治さなければならない」など、否定的にとらえているものが少なくなかった。自分から吃音のことは話せないが、どもるのがわざとしていることだと誤解されたり、最後まで話を聞いてもらえなかったり、まねされたりすることが嫌なので、身近な人には自分の吃音のことをちゃんと知ってもらいたいと思っていた。
(1)出来事を外から見る、考える
Bさんと吃音で困った場面について、4コマ漫画的なイラストを描きながら話し合った。彼女はイラストが得意で、また描きながらの方が話も活発になることから、まずはたくさん話すことを目的に行った活動である。何度かこの活動を行っていくと、イラストにする前と後では、問題に対してのとらえ方や困り感が違ってくる様子が見えてきた。
これは、彼女の中にある問題を、自分の外に出し、担当者と一緒に眺め、考えるという、ナラティヴ・アプローチの技法である「問題の外在化」をしているような経験だった。そして、それまではどうにもできないと思っていた困った場面が、担当者との共同作業の中で、自分の力で何とかできるかもしれないものになっていった。
例えば、横断歩道で交通指導の人にお礼を言う場面について話し合った。最初の頃は「ありがとうのことばが出なかったのが嫌」と話していたが、イラストを描きながら一緒に振り返ると、自分自身をその場にいた登場人物の一人として見たり、まわりの人の気持ちや考えを想像しやすくなった。そして、声は出なかったけれど、ちゃんと会釈はしてたし、ありがとうの表情もできたことが確かめられた。最後には「7人の中に混ざっていたから、ありがとうの気持ちは伝わったと思う」と話していた。
外在化しただけで問題がとらえやすくなるわけではない。ここでのポイントは、○○の問題で困っているBさんから、問題と自分を切り離し、その切り離された問題を、あたかも誰か他の人の問題のように眺め、自分以外の人と一緒に、同じスタンスから考えることにある。すると、自分の中にある時はどうすることもできないけれど、外に出して眺めていく中で、新たな気づきが生まれ、その分ちょっと前に進むことができる。これは、自分の問題を、誰かに任せるのではなく、自分が中心になって「当事者研究」することでもある。
(2)自分の吃音をキャラクターにする
このような取り組みをする中で、Bさんは自分の吃音を「もっちい」というキャラクターに外在化した。私が「先生は自分のどもりのことを親友みたいに思って、『どもちゃん』と名前をつけているんだよ」と話したことがきっかけだった。自分のどもりを嫌なもの、やっつけてしまわなければならない悪者のような存在と考えるか、いつも身近にいて寄り添ってくれる親友のような存在と考えるかでは、吃音に対する向き合い方は違ってくる。
Bさんは、児童代表として全校児童の前で発表する日の朝、練習をしてた時のことについて次のように話した。
担当:今日の朝、練習するときはどうだった?
B:緊張しすぎて、おなかが痛かった。「目がきょろきょろしてる」って言われた。
担当:そんなときに、もっちいは、「やめといた方がよかったんじゃないの」とか言ってこないの?
B:言う。言う。でも「やっぱりやる」と言うと、「まあ、やめた方がいいと思うけど、がんばって」と言ってくれる。
担当:Bさんがやりたいと言えば、[じゃあ、がんばって」と言ってくれるんだ。
B:そう。応援団みたいな感じ。
Bさんは、「もっちい」を日々の悩みや課題について一緒に語り合う相手としてとらえた。どもりをキャラクターに外在化して話し合うことで、自分のどもりに対する新たな気づきが生まれた。
5 おわりに
自分の考えや思いをなかなか話せなかったAさんは、「自分のどもりをクイズにする」の学習を通して、少しずつどもりのことを話し始めた。そんな彼女に、「仕事をするようになって、Aさんのことを知らない人が増えた時にどうする?」と問いかけると「友だちがいる会社に入って、その友だちにどもりのことを教えて、忘れるかもしれないから、もう一回教えて、知ってもらう。そして、友だちの知っている人とかに言ってもらう」と返答してきた。そう言えるようになったのは、彼女がどもりのことを知ってもらうことは簡単ではないが、何とかできるかもしれないと考え始めたからだろう。
自分からどもりのことは話せないと言っていたBさんは、宿泊学習での自己紹介に不安を抱いていた。宿泊学習には他校の子どもたちも参加していたからだ。どうしたらいいか考えたBさんは自己紹介の前に、自分がどもることやどもることへの不安を、他校の子どもたちに話した。そして少し安心して自己紹介をすることができた。
AさんもBさんも自分のどもりのことについて語ることで、自分が生きやすい周りとのかかわりを自分自身が主体となって作ることができた。二人との実践を通して、どもりが、豊かに生きるためのテーマになることを改めて実感した。
二人とも、どもっていても、何とかやっている自分に気づいている。「まあ何とかなる」、「今までも何とかやってきたし、これからも何とかなる」と思っているが、やっぱりどもりを強く意識する場面では、すごく不安を感じることがある。そんな子どもたちと今後も語り合うことで、「このままでも自分はやっていける」という確信を揺り起こし、子どもたちと共有していきたい。
6 質疑応答(会場での発言に追加して)
Q ナラティヴ・アプローチと吃音を話し合うことの違いは何か。
A 吃音を話題に話し合うことは、アメリカ言語病理学でもしている。しかし、その内容は、吃音の症状や、どんな時どもるか、どんなことに困っているかなど、吃音を話題にしているが、話がどう進展していくかの展望を担当者は持っていない。
ナラティヴ・アプローチの担当者の質問を通しての語りは、意図をもっている。吃音からくる影響を明らかにしたり、吃音に悩みつつも自分がこれまでサバイバルしてきた、自分自身のもっている生きる力に気づき、自分が吃音に取り組む主人公になって欲しいとの期待、目的をもって語り合う。いろんな物語をすりあわせることで、よりよい物語を、子ども自身が作っていくの手助けをする目的をもって語り合う。ある意味、操作的だ。
Q 発表者自身の吃音への考え方と、子どもや保護者のニーズの違いをどのようにすり合わせていくか?
A 吃音に対する思いは、どもる人、どもる子どもひとりひとり違うが、共通する思いはある。それは幸せに生きたいということだ。しかし、その幸せに生きることを吃音が阻んでいると考えていることが「吃音を治したい」のニーズの奥にある。だから、どもりを治したいとはっきり言う子どもとは、語り合いやすい。
「治したい気持ちになったのは、いつから?」「そのとき、何があったの?」などの質問を繰り返す中で、その子どもが「治したい」となぜ思ったか、その強さなども分かってくる。「友だちが欲しい」「友だちにからかわれる」「発表がうまくできない」などが出てきたら、「どもりは治せないけれど、その問題なら一緒に考え、うまくいくよう取り組むことができるよ」と伝える。一緒に研究して取り組む課題が明確になってくる。
そのような対話を繰り返していく中で、最初違っていた吃音についての考え方やニーズが、徐々に一致してくる。そのときに大切にしているのは、吃音について、自分が知っている情報は全て、惜しみなく、遠慮なく真実を伝えることだ。吃音は原因が分からず、治療法がないことや、どもりが治らなくても、どもる大人は、様々な仕事に就いて幸せに生きている事実を伝える。
私は自分自身がどもるから、自分の経験で感じたことを話すが、どもる経験がなくても、「吃音と共に豊かに生きている」成人のどもる人に会って、「どもりは恐ろしいことではない」と知っておくことが必要だと思う。吃音の知識やどもる人の情報を共有することがニーズのすりあわせに役立つ。
7 発表を終えて
今回の発表では、ことばの教室の担当であり、吃音の当事者でもある私が、吃音とともに豊かに生きていくために、語る力を育成する事がなぜ必要だと考えたのか、その背景にある自分自身の経験や哲学のようなものをしっかり伝えたいと思っていた。
発表の後、自分が大切だと思っていた自分自身を語ることについて、ことばの教室の担当者の仲間から、「よかったよ」と温かいことばや感想をもらうことができた。
私の転機となった吃音親子サマーキャンプから今回の発表まで、語ること、そして、それを聞いて反応を返してくれる仲間の大切さを十分感じてきたつもりだったが、改めて、その大切さを強く感じた機会になった。
発表の前には、鹿児島の、普段一緒に研究会で活動する仲間だけでなく、吃音親子サマーキャンプで知り合った、全国のことばの教室の仲間が励ましのことばをかけに来てくれた。他の二人の発表者は「先生の応援、すごく多いですね」とびっくりしていた。
発表は少し力んでしまったことが幸いしたのか、普段よりもゆっくりと、間を置いて話したことが、余裕のある態度とみられたようだ。前列に座っていた、たくさんの仲間のうなずきや温かいまなざしの中で、あまり緊張することなく発表することができた。
今回の発表を糧に、子どもたちとそして、仲間とこれからも語り合いながら、吃音としっかり向き合っていきたい。
8 「もっちい」のその後
最近になって、Bさんは「もっちい」について、このように話した。
担当:人前で一人で発表するとき、緊張する?
B:前よりはしなくなった。
担当:「もっちい」は、人前で話すときに、今iどんなことを言ってくる?
B:「もう応援しないよ、自分でできるでしょう」と言ってくる。
担当:もう応援がなくてもできるということ?
B:「私の応援、必要ないわね。ははは」と言っている。「バイバイ」って。
B:「友だちに助けてもらいなさい。私の仕事は今日で終わり」って。
担当:もう周りに分かってくれる友だちがいっぱいできたから、もう「もっちい」は必要ないということ?
B:そう。バイバイって、自分で言って、自分でどっか行った。
担当:「もうBには、私は必要ないわ」と言って?
B:そう。「もう応援しないよ、自分でできるでしょう」と言ってくる。
Bさんのこの一連の語りを、どう意味づけていったらよいのか、私は瞬間的には分からなかった。もしかしたらBさん自身も分かっていないかもしれないが、私が意味づけたいくつかの中で、Bさんが多分そうだと言ってくれたのは、「もう周りに分かってくれる友だちがいっぱいできたから、もう『もっちい』はいなくても大丈夫」ということだった。
「もっちい」は最初、自分がどもることをキャラクター化したわけだが、ここでの「もっちい」は、もう吃音そのものを言っているわけではない。あるいは、どもる自分のことを言っているわけでもないだろう。「応援団みたいな感じ」と話した時点で、自分を受け止めてくれるというか、直接支えてくれる存在として変化したのだと思う。それを今回、改めて意識したということかもしれない。
応援団と話した時点では、「どもっても大丈夫」とか「どもってもあなたはいいんだよ」と自分を受け止め、支えてくれる存在がBさんには必要だったのだろうと思う。Bさんがイラストを描いていく中で、また「もっちい」を通して話をしていく中で、最初はどもることだった「もっちい」が自分を直接受け止め、支えてくれる存在に変化した。今はその「もっちい」がいなくてもやっていけるようになったということなのだと思う。
「もっちい」の物語の背景には自分がどもることに対する不安感というもう一つの物語があるように思う。それは物語をずっと一緒に作っていく中で見えてきた物語である。それがナラティヴ・アプローチなのだと思う。表面に浮かんでくる物語だけではなくて、物語の背景にあるものを一緒に見つめていくことがやっぱり大事なのだと思う。
先日、「もっちい」について話し合う中で、ふと「私、この時は強がりを言ってたかもしれない」「でも、先生に強がりを言うはずないしね」とつぶやいていた。子どもはいろいろな思いをもっていて、いろいろなことを話すけれども全部を理解して話しているわけではないと思う。子ども自身も分からずに話している物語を一緒に追っていく中で、実はこのような思いから話したであろうということが見えてくる。それが実は吃音に対する向き合い方だったりする。
子どもが語る物語の中から新しい世界を作り、吃音と豊かに生きることを目指すためのアプローチの仕方として、担当者が何かを教えるのではなくて、子どもたちが持っているものを一つ一つ確かめていくというのが、ナラティヴ・アプローチや当事者研究のやり方なのだろうと思う。(了) 「スタタリング・ナウ」2014.10.20 NO.242 より
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2026/02/08

