肯定的な物語の力 2

 昨日、紹介した、2014年1月28日付けの朝日新聞、「吃音 理解されなくて 就職4カ月、命絶った看護師」の記事への反響は大きかったようです。その多くは、「吃音が社会に理解されること」が緊急の課題と論じていました。
 その記事を読み、僕たちの仲間のひとりが、朝日新聞の「私の視点」に投稿し、2014年3月10日付け、《吃音への理解 「劣ったもの」ではない》のタイトルで掲載されました。

 彼は、「吃音が社会に理解されること」の必要性については同感しながらも、「言い終わるまで待ってあげてほしい」「生徒の心理に配慮し、無理に読ませたり言わせたりしない」という指摘は、真の意味での理解とは言えないのではないか、むしろ、どもる私たちヘの無用の配慮や偏見を生むのではないか、と危惧していました。そして、その後投稿された朝日新聞の「読者欄」の記事は、「スラスラと流ちょうに話すこと」こそが優れた言語コミュニケーション能力だということを言っているのと同じではないかと指摘しています。これまで、就職や進学の面接、スピーチ、商談など、真剣勝負の場で、どもりながら臨んできて知り得たのは、ぎこちなく訥々とでも、相手への想像力を働かせながら自身の学びや経験、夢や希望を率直に語るとき、多くの人は耳を傾けてくれるという事実だと彼は続けます。吃音の問題は、ひとりひとり違い、千差万別なのです。
 何より、吃音の最も深刻な問題は「どもること」そのものではありません。吃音を「悪く劣ったもの」と捉え、どもることを恐れ、様々な行動を回避する否定的な思考、行動、感情にこそ問題の根があります。吃音を治す方法はないけれど、このような思考や行動を客観的に見つめ、変えるための学びや方法はそれこそたくさんあります。
 投稿した彼が、「スタタリング・ナウ」に寄稿してくれた文章と、どもる当事者の看護師と、どもる子どもの保護者2人の体験を紹介します。(「スタタリング・ナウ」2014.8.23 NO.240 より)

  人生と向き合うこと
                      掛田力哉(37歳、教員)
 私は朝日新聞で紹介されていた、彼の手帳に書き残された言葉がずっと気になっています。
 「どもるだけじゃない。言葉が足りない。適性がない」「全てを伝えなければいけないのに、自分にはできない」。彼はもう、気づいていたのではないでしょうか。自分の苦しみ、生き難さの原因は「吃音だけにあるのではない」ということを。
 大阪吃音教室に「1分間スピーチ」という例会があります。それは、どもらずに話す訓練をするものではありません。吃音教室の初参加者には、吃音の悩みや現在抱えている問題等について話してもらいます。セルフヘルプグループの重要な柱の一つが「思いの分かち合い」なので、私たちも真剣に耳を傾けます。
 初参加者の切実な言葉に、心揺さぶられる場面が幾度となくあります。しかし一方で、結局本人が何を伝えたいのか分からないような話が延々と続くこともあります。これは吃音に関わらず、人との関わりを避けていた人の多くが陥りやすい場面です。
 コミュニケーションの経験が少ないために、自分の思いを的確な言葉にまとめる術がなかったり、そのための語彙が少なかったり、また相手を意識して話すという姿勢を身につけていなかったりすることが原因です。「1分間スピーチ」は、自分の言葉や表現のありように気づき、何を学んでいくべきかを考えるきっかけになるものです。
 大阪吃音教室での10年間、私は吃音を通して自身の人間としての問題、課題について多くを学ばされてきました。例えば、「いつも完壁でなければならない」というような非論理的な思考が、失敗を極度に恐れさせ、行動を縛ってきたこと。相手との違いを極度に恐れるあまり、自身の思いを率直に相手に伝えられず苦しんできたこと。またそういった思考を形づくってきた自身の育ちや学びの課題についても多くの発見をしてきました。
 吃音と向き合うことは、正に自分の「人生そのもの」と向き合うことでした。それらを通して、自分の吃音に対する考え方もまた大きく変わっていき、どもりながらもやりたいこと、やるべきことを行い、楽しく生きるということが少しずつ分かってきました。
 「吃音をテーマに生きる」とは、吃音についての事実を知ることと同時に、どもる自分という人間についての事実を知り、いかに生きるかを考え続けることだと気づかされてきたのです。
 自殺した彼の本当の胸の内は分かりません。しかし、残された彼の言葉を見る限り、彼は吃音が理解されない事を悩む以上に、仕事人としての自分の力量を高めていくために、何をどう努力すれば良いかが分からず悩んでいたのではないかと私には思えてなりません。
 しかしながら、彼が相談した、どもる当事者の仲間たちの中で、「吃音さえ改善すれば」、或いは「周囲の人間が吃音のことをもっと理解し、配慮さえしてくれれば」と、彼の抱える問題が単純で表層的な「吃音問題」に落とし込められてしまったのだとしたら、とても残念で悲しいことです。
 どもる人にももちろん様々な人がいますが、人の喜び悲しみを想像する感受性にあふれ、苦労したからこそ、人の様々な事情に「土足で踏み込まない」優しさを持つ人が多いように思います。そんなどもる当事者たちの姿をもっと知ってほしい、私たちの抱える様々な苦労を少しでも知ってもらいたいと願い、私は、朝日新聞に投稿しました。
 吃音について、どもる人とどもらない人がもっと自然に、自由に話し合える社会になれば、との思いで新聞に投稿したわけですが、一部の言友会の人たちからは強い反感を買っているという話を聞きました。本当だとすれば、同じ吃音に悩んできた当事者として、何とも残念でなりません。
 しかしながら、これに懲りることなく、私はこれからも、大阪吃音教室で教えてもらった吃音についての事実と真実を、一人でも多くのどもる若者たち、子どもたちに伝えていくため、「どもりの語り部」の一員として微力ながらも語り、発信し続けていきたいと考えています。

  自分の中の吃音
                      山本直美(執筆時 35歳 看護師)
 物心がついた頃から、どもっていた。厳格で、潔癖な母は、何とか私のどもりを治そうと、私の異常な発音に注意深くなっていた。母の前で話すときは緊張し、ついどもってしまった。どもるたびに、困惑し、悲しそうにする母の顔を見るのが辛かった。
 小学校、中学校時代は男子生徒から馬鹿にされたり、はやしたてられたりし、何度となくみじめな思いを味わった。しかし、それでも、学校を欠席することは、その後の学校生活を含めて一度もなかった。自己紹介、国語の朗読、研究発表、与えられたことは、皆と同じようにしてきた。どんなにひどくどもっても苦しくても逃げることはしなかった。本当は辛いと言って泣きたかった。逃げたかった。でも、それをしなかったのは、逃げる勇気がなかったからかもしれない。
 母は、「どもりは必ず治る」と、私を勇気づけ、私もそれを信じて疑わなかった。どもりが治ることが、母の、そして私の共通の願いだった。
 高校一年のとき、民間吃音矯正所へ行った。期待して行った吃音矯正所は、劣等感、罪悪感を更に植えつけただけで、多くのどもる人たちが経験したのと同じ結果となった。
 どもるというハンディを持つ私に、何がしかの資格を持たせたかった母に言われるまま、看護学校へ進んだ。そして、免許を得た私は、単身で大阪へ出た。友人も知り合いもいない、働くのも初めて、更に重いどもり、何とも言えない不安を感じつつ、私の大阪での都会生活が始まった。
 看護師としての生活は、毎日スタッフ間の申し継ぎ、電話の応対、病棟内放送、緊急時の医師への連絡等、話さなければならないこと、伝えなくてはならないことばかりで、どれもが辛い仕事だった。
 毎日毎日、どもり続け、そして悩み続けた。日毎に、朝の来るのが辛くなった。何度も退職しようと思った。それでも学校を休まなかったように、仕事を休んだり逃げたりはしなかった。皆の前でどもり続けた私は、ことごとく、自分を責め、そして辛くて逃げようとする自分も決して許さなかった。どもれば嘆き、逃げようとすれば自分を責める繰り返しだった。結婚、育児と生活環境が変わっても、それは同じだった。
 今まで話すことから逃げずに、毎日毎日あんなに話し続けているのに、私のどもりは消えない。どんなに人前で話し続けても、どもることへの恐怖心は増すばかりだった。私はだんだんと疲れてきた。どうすればいいのか。前へ進むことも引き返すことも、逃げることもできない状態に自分自身を追い込んでいった。
 途方に暮れていたときに、大阪吃音教室と出会った。高校生の時に通った、吃音矯正所とは全く雰囲気が違った。「どもりは必ず治る」と信じてきたのに、ここでは、「どもりは治らないよ」とあっさりと言われた。これまで、背負ってきた大きな荷物は何だったのだろう。ここに通い続けたいと心底思った。しかし、家族をもち、看護師という仕事を持つ身に、毎週金曜日の夕方からの吃音教室への参加は大変なことだった。それでも、無理をして参加し続けて、私は大きなものを得た。
 「吃音と正しくっき合う講座」の中で、吃音について、吃音の原因や治療の歴史について、また他のどもる人の体験など、多くのことを学んだ。その中で、どもりは治らないかもしれないこと、治らないのは自分のせいではないこと、自分を許し、認めることの大切さを知った。
 なんとか治そうと必死になっていた頃の、肩に大きな荷物を背負っていたのが軽くなった。もう自分を苦しめることはやめよう。どもりを治そうと必死になることはやめよう。そう思えたら自分をあれほど苦しめていたもう一人の自分がいなくなった。大阪吃音教室と出会えたこと、これは私の生涯で劇的なことだった。これまでどもることで苦しいことばかりの連続だったけれども、生きていてよかったなあと、今は思える。
 これから先、もっと苦しいことに出会うかもしれないが、今度からは、少し気楽にやってみようと思う。そしてやっぱり逃げないで生きていこうと思う。
【長年、看護師としての経験を積み、現在、看護師長として、後輩の指導にあたっている】

  消防士として、吃音と共に生きる息子へ
                                 兵頭潔(66歳)
 雅貴、君が大学を卒業後、どのような仕事に就くのか、親として心配しながらも、どうすることもできませんでした。幸い小学4年生から「吃音親子サマーキャンプ」に連れていったことで、君は、大阪のどもる先輩を相談相手に選びました。消防士になりたいけれど、無線連絡や報告など、常に緊急の場合が多く、どもる自分にできるか悩んでいた時、親としてどう答えていいか分からず、大阪のどもる先輩に委ねました。吃音に悩み、生き抜いてきた先輩はこう言ってくれました。
 「どもる苦労は、いつもついて回る。どっちみち苦労するなら自分の本当にしたい事で苦労した方がいい。したい仕事なら、多少の辛さや苦労に耐えられるが、あまり好きでない仕事だと、どもる苦労は辛い。
 どもっていたら、緊急の対応がある消防士になるのは無理だと世間では思われるかもしれないが、大阪スタタリングプロジェクトの仲間には、消防士は何人もいるし、海上保安庁、警視庁の刑事もいる。看護師は、それこそ、たくさんいる」
 この、同じように吃音に悩んできた当事者、たくさんの人と出会ってきた人でなければできないアドバイスは、親にはできないものです。
 大阪府の消防士の試験では、面接でひどくどもったとかで、不合格でしたが、君は落胆もせず、次の受験を考えていました。私たち親も、何年かかっても好きな仕事に就ければいいと考えていました。次に受験した東京都の試験は、大阪と同じくらいどもったのに合格しました。
 吃音親子サマーキャンプにスタッフとして参加して、君は、保護者の前で、「面接で、あれだけどもったのに、僕を採用したのだから、仕事に就いて、どもることで不都合が起こっても、それは東京都の責任だ」と、笑いながら報告していました。保護者も勇気づけられたことでしょう。その時、小学5年生の時に参加した吃音親子サマーキャンプの作文を思い出していました。
 「ぼくは吃音で、いやなことがたくさんあります。本読みや自己紹介でどもると、みんなクスクス笑うことです。バカにされたようでとてもいやです。マネをされることもいやです。その中でも、一番いやなのは、最後まで話を聞いてくれないことです。ぼくがどもると、他の人の話が優先されます。ぼくが話すと2倍は時間がかかるからです」
 このように書いていた君が、小学4年生から、吃音親子サマーキャンプに参加し、吃音としっかり向き合い、吃音と共に生きる覚悟が育っていったから、消防士という、仕事を選ぶことができたのだと思います。吃音親子サマーキャンプに連れていったことで、親の責任は果たせたのかもしれません。後は、君が成長していったのです。
 消防学校に入っての苦労は、人の命にかかわる仕事なので、当然のことかもしれませんが、予想以上に厳しいものでした。周りの吃音への理解は全くありません。指導教官の部屋に入るとき、名前が言えずに、何度も練習をさせられて、それでも、どもって言えないと「どもりを治せ。インターネットには、どもりを治す方法がたくさん出ている。教材を買ってやるから、消防学校にいる間に治せ」と言われ、君は悩んでいました。
 最後には、「そんなにどもっていて、東京都民の命が守れるのか」と言われた時は、さすがにこたえたことでしょう。ここが一番の踏ん張りどころでした。親としては、伊藤伸二さんに相談すればとしか言えませんでした。さっそくメールや電話で相談し、吃音親子サマーキャンプの芝居の稽古合宿に参加させてもらい、大勢の人に話を聞いてもらい、アドバイスを受けました。
 あの辛さ、苦しさを乗り越えられたのは、「これが、自分の本当にしたい仕事」だったことと、大阪のいいどもる先輩たちが、その都度、しっかり話を聞いて、支えて下さったからです。
 8月末の消防学校の卒業式に両親で出席できた時、「よくやった」と心の底から叫んでいました。誇らしい気持ちになりました。
 周りは、「どもっても大丈夫」と簡単に言うことができるけれど、本人にとっては、どんなに大変なことだったろうと、君が、学童期・思春期、悩んでいたことを知っているので想像できます。
 消防学校の後半は、兼務職員として半年間、よく乗り切れたと思います。ことばにハンディがある分、他のことでは人一倍がんばることで、消防士として成長させてくれました。
 この一年、耐えることができたのだから、これからも、いろいろとあるだろうけれど、乗り越えていけると確信しています。つらいことも、へこむこともあるでしょう。強気でがんばらないといけないことは基本としてあるものの、弱音を吐くことも大切です。君には、困ったときはいつでも、愚痴を聞き、適切にアドバイスしてくれる、大阪スタタリングプロジェクトの先輩がいます。親としての私たちの役割は、その人たちへの橋渡しをしたことでしょう。これからも、ひとりで悩まないで、大阪の先輩、仲間に相談して下さい。私たちはいっも君の味方です。

【兵頭雅貴さんと、苦労を一緒に考えることができたことは、私たちにも大きな勇気を与えてくれた。彼からの、報告のメールを紹介する】

 伊藤さん、お久しぶりです。おかげさまで明日、消防学校を卒業することになりました。10月から、消防学校学生兼消防署職員として、消防署に勤めたのですが、明日でようやく兼務から外れるかたちになりました。
 10月からの半年間は正直、学校とは違った意味でのつらさが多々ありました。
 電話がなると若手が積極的に出るのが当たり前なのですが、電話の一声目がどうしても出ません。でもそれが仕事なので甘えることもしていません。
 自分なりに工夫し、多少一声目が出やすい方法を見つけるのですが、それに慣れてきたころ、その方法でも言葉が出なくなります。そしてまた新しく何か方法を考え、またそれでも出なくなる。そのいたちごっこで、大変です。
 今現在吃音が激しい時期で、今日は1人ずつ名前を呼ばれて、「はい」、と答えるのにも、言葉が出ませんでした。まわりから特にとがめられることはないのですが、自分自身これらのことを気にしない程のメンタルはまだないようです。
 しかし、消防活動技術の試験ではほめられることもありました。正直、電話応対や、コミュニケーションの部分で人より時間がかかってしまったり、聞き取りづらかったり、迷惑をかけてしまっているところが多々あるとは思いますが、これなら負けない、というものを見つけ、がんばっていきたいと思います。
 これまでは出張所で勤務だったので多少緩いところもありましたが、4月からは本署で勤めることになりました。また環境もかわり、吃音の調子も変化していきしんどいことも増えてくるとは思いますが、がんばります。とりあえず、今は明日の卒業式で、はい、と言えるかが不安です(笑)
 報告が遅くなってしまい申し訳ありません。また、伊藤さんや、大阪のみなさんに力を借りることもあると思いますが、その際はよろしくお願いいたします。
  2014年3月28日

  吃音の大きな波を乗り越えた娘
                               伊藤康子(55歳)
娘の由貴が、大学2年生になって突然、ひどくどもり始めた時は、本当にびっくりしました。子どものころもあんなにどもったことはありません。
 小学4年生から吃音親子サマーキャンプに参加し、高校3年生の卒業式で、堂々と挨拶する由貴をみて、たくましくなったし、吃音そのものも、ほとんどみられなくなっていただけに、突然の変化に、私はおろおろするばかりでした。
 伊藤伸二さんに電話で相談にのってもらい、その年の秋の日本吃音臨床研究会の吃音ショートコースの「竹内敏晴・ことばのレッスン」で、竹内さんにも相談しました。伊藤さんも、竹内さんも、「何もできない。言語訓練は意味がない。そのうち変わるから大丈夫」と言って下さったのですが、大学2~4年生の吃音がひどくなったときは、辛い時期でした。精神的な問題もあり、心療内科でお薬をいただいたこともありました。私も不安で少しでもことばが楽に出ないかと、言語聴覚士さんの所や地元の言友会に行くことを勧めていました。由貴は、結局それらの所に一度は行ってもその後通うことはありませんでした。
 最終的には、伊藤さんの「放っておけ」のことばのとおりで、放っておいたら、いつの間にかことばはよくなっていました。「吃音は人それぞれ違う」「日常生活の中で変化する」自分の吃音体験と娘の吃音の変化から学ぶことがたくさんありました。今から思うと、勉強、バイト、サークルと忙し過ぎたことと留年したことによる友だち関係の変化、学費を気にする私からのことばのプレッシャー等が、吃音をひどくさせたのではないかと思います。
 吃音がひどくてもバイトをやめなかったのは、「しゃべらないとよけいにしゃべれなくなる気がするから」と言っていました。4年生になり、実習前に受ける共用試験の頃はまだよくどもっていて、コミュニケーションのテストでは再試になりましたが、家でも学校でも練習してなんとかクリアしました。
 今にいたるまでには、多くの人にお世話になりました。大学を途中でやめるつもりだったのを引き留めてくれた友人、チェロのトップになったとき、ことばか出なくても待っててくれたサークルの仲間、共用試験で力になって下さった大学の教授、ことばがひどくなっても雇い続けて下さったコーヒーショップの店長等、そして何よりも吃音がひどくなっても、しゃべり、自分のやり方を通すことができたのは、9年間の吃音親子サマーキャンプのおかげだと思っています。吃音のあるたくさんの人たちに会い、仲間と話し、吃音を自分のものとして生きる強さを育ててもらっていたからだと感謝しています。ありがとうございました。今は少しでも恩返しができたらと思っています。
 それから私事ですが、昨年、古巣の言友会に久しぶりに参加して、吃音改善が前面に出ている様子に驚きました。その後、私は今、女性が集まって話せる場所を作っています。吃音改善とは違った場所にしたいと思っています。先日、その会の中で、伊藤さんの、吃音と正しくつきあう吃音講座の中から、「吃音の予期不安、場面恐怖の克服」のページをコピーして配りました。
 吃音に悩んでいた頃、吃音は「治す」しか選択肢がなく、私は自分の名前も言えず、練習してもよくならない自分に将来の夢が描けませんでした。私は25歳のとき、お金を貯めて職場に「どもりを治しに行く」と言って、3ヶ月休みをもらい、東京正生学院に行きました。梅田英彦先生のカウンセリングで、どもりは治らないと教えられ、「自分を変えようとしなくてもそのままでいいんだよ」と、ありのままの自分を認めてもらったのが私のゼロの地点です。それから「どもって話そう」と決めました。その後言友会に入り「吃音者宣言」に出会い、その内容は私の気持ちを表現しているようで、とても感動して勇気づけられました。
 この時出会った、伊藤伸二さんの考えは、「スタタリング・ナウ」を通して理解し、いつも身近に感じています。迷いの多い私ですが、伊藤さんの考え方や提案を学ぶことは、吃音を持って生きていく上でとても助けになります。自分を成長させてくれるものだと思っています。
 おかげさまで、由貴は薬剤師として無事第一希望の病院に就職することができました。自宅からも近く、救急医療体制のある地域の中核病院です。私は無事に仕事をやっていけるか心配でしたが、8月から夜勤もできるようになり、やっと最近安心しています。

【吃音は変化するものだが、由貴さんのような、これほどの激しい変化は初めてだ。吃音は変化しても、吃音と向き合い、自らのものとした「吃音と共に生きる覚悟」は、揺るがなかった】

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2026/02/01

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