2013年第24回吃音親子サマーキャンプ報告

 昨日は、「スタタリング・ナウ」2014.1.20 NO.233 に掲載の第24回吃音親子サマーキャンプの報告を紹介しました。その中に、Sさんという名前で紹介されていた子の、前年の作文教室で書いた作文とこの年の参加しての感想、そして、Sさんの父親の参加しての感想を紹介します。あわせて、スタッフの感想も紹介します。
 Sさんとは、このブログでも紹介したことがある、僕に結婚の証人になってほしいと頼んでくれた鈴木葵さんです。普通は、双方の両親に署名してもらうことがほとんどらしいのですが、葵さんは、結婚するときは僕に証人になってもらおうと決めていたとのことでした。そんなことは全然知らなかったので、僕は驚きとうれしさでいっぱいでした。来年2月、出産の予定だと聞いています。孫の誕生を待つ気持ちです。
 
 彼女は、今日紹介する作文の中で、次のような文章を書いています。
 『「英国王のスピーチ」という映画を観てどもりを治してがんばっても結果は同じだったけれど、ジョージ六世は、自分は自分やし、どもってもいいやという気持ちがあったから最後に話せたのだと思いました。一番最後は感動して泣きました。』
 僕は、これまで、たくさんの言語聴覚士養成の専門学校や大学で、学生に「英国王のスピーチ」を観てレポートを書くという課題を出してきました。数多くのレポートを読んできましたが、彼女のような内容は一編もありませんでした。
 彼女は、ジョージ六世の吃音は治っていない、しかし、どもるときはどもってもいいと覚悟を決めたから国民の心に届くスピーチができたのだというとらえ方をしています。そのことに僕は驚きました。そして、吃音について小さいときから深く考えてきた彼女らしいと思いました。

  どもりと向き合う
                            鈴木葵(小学5年生)
 一年生のとき、入学式で先生が名前を言っていくのですが、わたしは返事がどうしても言えなくてくやしい思いをしました。その次に自己紹介をするのですが、そのときに、「早くして」と言われたので、あせって言えませんでした。そのとき、わたしは明るく積極的にしゃべっていたけれど、二年生のころからどもりがきつくなってどもってからかわれたりするのがこわくてはずかしいから発言できないときめつけました。
 そして、二年生三学期のお楽しみ会で、わたしのグループの出し物は読み聞かせになりました。だれがどこのページを読むか話し合って決めて一人ずつ読んでいきました。どもりながら読んで読み終わったとき、友だちが私がどもっているところをまねしました。みんなが笑って、わたしは泣きたくなりました。言い返すとまた言われるので何も言いませんでした。
 四年生でことばの教室に通ってそこで初めてどもりの子に二人会いました。わたしの学校にもいたんだなあと思ってうれしかったです。
 あるとき、作文を書いて一人で読むことになりましたが、どもるのがはずかしくてなかなか言えませんでした。くりかえしてあることばでつまってしまって先生が「みんな、どう思う?」とクラスの子たちに聞いたら「早くしてほしい」と口々に言われてとてもいやでした。「お前のせいで時間がむだになった」と言われて教室を早く出たいと思いました。
 「英国王のスピーチ」という映画を観てどもりを治してがんばっても結果は同じだったけれど、ジョージ六世は、自分は自分やし、どもってもいいやという気持ちがあったから最後に話せたのだと思いました。一番最後は感動して泣きました。

  どもりの友だち
                          鈴木葵(小学6年生)
 私はキャンプへ行って二回目になりますが、一回目より変わったところがあります。
 一回目は友だちができなくて、同級生の子が一人もいなくてすごさびしかったです。でも今年は同級生が二人もいて、すごく仲良しになりました。今までは心をひらける友だちというか、どもりの友だちがいなくて五年生までずっとこどくだったのでうれしかったです。
 私はどもりのことをずっとはずかしいと思っていて、すごく深くなやみました。話し合いのときに内海君が「神様がいて、その神様は百分の一の人にどもりをプレゼントして、ぼくたちは、そのプレゼントに当選した人だと思ったらいいよ」と言ってくれてすごく心にひびきました。
 げきは、わき役になりたかったけれど、目立つ役でもいいかなと思って、女王役に立こうほしました。でも、初めからすごくどもってなかなかげきがすすまないのでいやになって、当日もすごくきんちょう感をもっていどみました。私は話すのにせいいっぱいで、全く役になりきれていなかったけど、達成感がものすごく感じられました。
 卒業式では、思わず泣いてしまって、私もいつかこういう日がくるのかなと思うと、とてもわくわくします。来年もよろしくお願いします。そして、ありがとうございました。

  スタートラインに戻った
                                  鈴木幸泰
 今回、私たち親子は2回目の参加ですが、実は最初に参加したときよりも不安でした。昨年の参加後、娘は人が変わったように笑顔が戻ってきて、クラスメートやそのお母さんたち、学校内にあることば・きこえの先生、祖母からも、「表情がいきいきしてるね。顔を上げてしゃべってるね」と言われました。また、自分から積極的に、どもることを怖れないで全くどもることなどなかったように過ごしています。
 今回のサマキャンの最終日も、「去年と全然違うね」と来ていた子どものお母さんに言われました。たまたま同世代の女の子が来てくれたのも大きいですが、以前の娘でしたら自分からしゃべりかけるということはなかった思いますし、友だちの大切さや、いざとなったら助けてもらえるといった安心感もあったと思います。
 私が不安に感じたことは、去年までの娘に戻ってしまわないかと不安に感じていました。以前は家でも人をうらやましがったり妬んだりため息をついたり暴れたり物に八つ当たりしたり学校でトラブルを起こしたりと、週に2~3回は家から携帯電話にかかってきました。また担任の先生ともしっくりいかず、吃音についても理解してもらえませんでした。私も会社から学校に電話をするぐらいでした。先生も替わり、今の先生は理解があり非常に気安くしゃべりかけられるということです。周りの環境が変わり、安心感が得られる居心地のいい雰囲気は、自分の少しの勇気で変わっていく、それがサマキャンで分かったように思います。
 最終日の子どもの劇の演技の後、自分から手を挙げて、演技でセリフがつっかえてうまくできなかったことを言ったとき、自分の不安が思い過ごしだったとほっとしました。そのときは、(自分から言うなよ。失敗のシーンをみんなも思い出すだろう)と瞬間に感じましたが、娘は予想以上、変に感情をコントロールせず、ありのままストレートにその場で表現していました。今までなら人が見ているから悲しい表情はこらえてましたが、みんなにアピールするかのように泣き崩れていました。みんなは受け入れてくれるから無理に我慢しなくてもいいという安心感から出た行動だと思います。
 2年前、所属している地元の劇団の公演があり、京都府立文化会館のステージ上でセリフが言えなかったとき、終わって家に帰るまでカチカチに固まってメイクも落とさず着替えもせず怒りも落ち込みもせず、ただ耐えていたのを覚えています。全く違います。
 今も態度が大きく、生意気ですが、吃音を意識してない2歳ぐらいの頃に戻ったようです。何かスタートラインに戻ったみたいです。自分の方が世間体を気にして過去を引きずって、少しの勇気が出せないときがあります。
 最後になりましたが、忘れ物の水筒を届けて下さってありがとうございました。家に帰って気づきましたが、娘が自分から宿舎に電話してました。その姿にびっくりしました。家族みんなで感謝しております。ありがとうございました。

  エネルギー源
                    藤岡千恵(大阪吃音教室)
 今年もサマキャンの三日間を過ごし、帰りの電車で「今年もサマキャンに参加できて本当に良かったな」としみじみ思った。最終日に、親のパフォーマンスと子どものお芝居、卒業式を見た時、これまで自分が体験したことがない気持ちを味わった。大きく豊かなサマキャンファミリーの空気に包まれてなんとも幸せな気持ちになった。吃音を持っていたからこそ、この世界に出会えたこと、それが何より幸せだった。
 私が去年、サマキャンのお芝居で感動したことのひとつが、子どもたちが作り出すユーモラスな世界だった。関西弁やオーバーなアクション、奇想天外なあのユーモアがどんなふうに生まれるのかとても興味があった。サマキャンのお芝居では、台詞をきちんと言うこと、見せるために完成させることを目標としていない。根底に流れているものは「自分のことばを相手に届ける。そのことばやしぐさを受け取り反応する。そのやり取りがどんどん展開していき、物語の世界がそこに開ける」というもの。それが根本に流れているサマキャンのお芝居だからこそ、思いもつかなかった場面が生まれる。
 「楽しい」も「面白い」も「やったね」も、戸惑う気持ちも達成感も、たくさんのことを子どもたちと共有できることがうれしい。
 最終日の卒業式は今年も涙が止まらなかった。一体感。包まれている感じ。あたたかい感じ。勇気、共感、信頼。あの卒業式の空気の中、自分は何に心を大きく動かされたのか、かたまりとしてイメージはあるが、それらの感情や気持ちをことばで表現するのが難しい。それでも「私はあの場で、何に一番心を動かされたのだろう」と考えてみると、もしかしたら「大きな時間の流れの中で、一人の人が変わっていく」ということかもしれない。それは「自分を変えたい。変わりたい」という積極的な思いから生まれるものとは少し違う気がする。吃音を持ち、人間関係の問題に直面して戸惑い、悩み、苦しみ、孤独を味わいながらも毎日精一杯生きてきた子どもや親たちが、このサマキャンの場で仲間に出会う。「ひとりじゃない」と世界が広がり、ほんの少しの勇気を持って生活に戻っていく。傷ついてもまたあの場所で仲間に会える。それまでなんとかやってみよう。そうして一年二年と人生を重ねていった結果、サマキャンに参加した当初とは少し違う自分がいる。
 今年卒業した4人の高校生は、小学生や中学生の頃から参加をしているという。スタッフや親の中には、彼らが初めて参加した時から知っている人たちもたくさんいるのだろう。彼らがゆるやかに変化していく様子を見つめてきた人たち。年齢別の話し合いの時に子どもたちがポツリポツリと話してくれたエピソードには、胸をぎゅっと掴まれる思いをするものもあった。クラスで吃音を真似された経験、からかわれてつらい思いをしたこと、大切な人にわかってもらえなかった悔しさ、一人ぼっちだと思っていた頃。
 そんな中、サマキャンを「エネルギー源」だと表現した子がいた。そのことばにサマキャンのたくさんの要素がぎゅっと濃縮されている気がする。
 卒業式を迎えた4人の思いを聞きながら、私は自分が高校生だった頃のことをふと振り返った。あの頃の私は、人前で自分を語ることなんて考えもつかなかった。吃音から逃げて、なるべく考えないようにしていた。そのくせ何か問題に直面すると吃音のせいにしていた。私は成人するまでに、自分について、人生について、人間関係について誰かと真剣に語り合ったことがあるか? 少なくともここに参加している子どもたちは、吃音という共通のテーマを通じて、生きることを真剣に考える機会を持っている。それは生きていく上でとても強みだと思う。
 話し合いの時、私はふと「自分は吃音を持っているからこれを持っている」というものがあるか、聞いてみたくなった。その時、最初に口火を切った男の子が「僕は吃音を持っているから、人の弱さ、痛みがわかる」と言った。「からかわれた時の気持ちは経験をしないとわからない。その気持ちがわかるから、僕は人をからかうことはしたくない」と言った。
 帰りの電車で今年初参加をした女性とその話をした。その時彼女は「どもる子どもたちは優しい」と言った。「優しいから悩む」という彼女のことばにサマキャンで出会った子どもたちの顔が思い浮かんだ。
 サマキャンに参加している子たちは、年下の子たちからは時には憧れや目標になり、どもる子どもがこの先通る道を示してくれる存在でもある。キャンプで出会う彼らがまぶしいのは、ゆるやかにたくましく変化をしてきた姿を垣間みるからだと思う。すっかり大人になった私ももれなくサマキャンで成長させてもらっている。来年の夏、また彼らに会えることが今から楽しみだ。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/12/26

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