どっちでもいい
「どっちでもいい」、このことばを僕は結構よく使います。相談会などで、質問されて、「どっちでもいいですよ」と本心から伝える。質問する人は、真剣に悩み、迷い、質問していることが多いから、僕のそのこたえに、拍子抜けしたような、意外な答えが返ってきたよう、な不思議な気がするようですが、ふっと笑い顔になり、「そうですね」と納得されることが多いように思います。世の中、どっちでもいいことは案外たくさんあるのではないでしょうか。正解はひつではないから、生きていくことはおもしろいのかもしれません。
「スタタリング・ナウ」2013.11.20 NO.231 より、巻頭言を紹介します。
どっちでもいい
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二
どもっても、どもらなくても、どっちでもいい。弱くても、強くても、どっちでもいい。悩んでも、悩まなくても、どっちでもいい。隠しても、隠さなくても、どっちでもいい。治っても、治らなくても、どっちでもいい。
今年で16回目となる《ことば文学賞》の3つの受賞作を読んだとき、共通するある感覚を覚えた。3人には、吃音と共に生きることに、かつての私のような気負いがない。嶺本さんは、こうしめくくっている。
「あるがまま、くるがままに現実として受け取っていればよかったんだ。そして今、私は思う。自分の夢見ていた世界ではないけれど、すばらしい世界ではないけれど、「少し良い」と「悪い」の中間にある世界で私は生きている。そして私はそんな世界が結構好きだ」
中間の世界にいるとの表現がおもしろい。「吃音が治る。改善する」が、吃音に悩む人なら誰もが願う〈正解〉だと、吃音の研究者・臨床家は考えているのだろうか。その〈正解〉を求めて、かつての私たちは「吃音を治す努力」を続けてきた。がんばって、もっと努力すれば治るかもしれないと、治ることへの夢が捨てきれなかった。
〈正解〉はひとつではない。吃音を治すことに一所懸命になる人、それを支える人は多いが、「治る、治らない」に価値を置かないで、「どっちでもいい」と〈別解〉を見出していく人たちが、私たちの周りにはたくさんいる。
その人たちが、その人なりの別解を得るまでにたどる道は「神の力」「腹筋を鍛える」「海外留学」と、驚くほどに違っているが、実に豊かだ。そして、同じような境地にたどり着くのがおもしろい。「吃音を治す」ことだけに向かっていたのでは得られないような、思いがけない副産物もある。「吃音を治す」ことにこだわる生き方はとても窮屈だが、「こっちの道もあったんだ」と、別の道を探すのは、楽しい。
吃音について書き綴っていこうと始まった、ことば文学賞の授賞式が、10月12・13・14日に開かれた第19回吃音ショートコースの場で行われた。吃音ショートコースの参加動機を、この授賞式を含めた、発表の時間が好きだからという人は少なくない。どもる子どもと真剣に、しかしユーモアをもって向き合うことばの教室の担当者の実践、ひとり悩んできた苦悩の人生などを聞き、最後の、ことば文学賞でしめくくる「発表の広場」は、私にとって、吃音の豊かな世界を常に新鮮に味わえる、幸せな時間だ。今年も、13編の応募があった。16回も続けていると、常連の投稿者は、そろそろ書くことがなくなってくる。しかし、応募しようという意識をもつと、今まで忘れていた過去の物語が鮮やかに思い出されることがある。そして、それを文章にしていくことで、毎回10編以上の応募作が集まることが素晴らしい。書く文化を、大阪スタタリングプロジェクト、日本吃音臨床研究会が今後も大切に守り、育てていきたい。
こう書いていて、ふと、今日の新聞の11月14日号の『週刊文春』の新聞広告が目にとまった。 「近藤誠先生、あなたの犠牲者が出ています」と近藤医師を批判する記事が掲載されたようだ。過剰な治療に警鐘を鳴らし続け、『患者よ、がんと闘うな』から、最近の『医者に殺されない47の心得』が100万部をこえるベストセラーとなり、多くの人に注目されるようになったためか、これまで、医療の世界やがん専門医から徹底的に黙殺、無視されていたのが、医師からの反論、批判が始まったようだ。私への批判に似ていると思った。
日本の吃音研究、臨床が欧米に比べて遅れているのは、「吃音を治す努力の否定を言い始めたからだ。吃音が治せる時代が来たとき、どう責任をとるのか」と、言語障害の研究者らから批判をされもした。さすがに、「亡くなった人(犠牲者)が出ています」とは言われないものの、「伊藤さん、あなたのおかげで、治るはずのものも治らない人が出ていますよ」と言われそうだ。治っても、治らなくても、どっちでもいいんだけどなあ。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/12/01

