デヴィッド・ミッチェルさんからのメッセージ~吃音に振り回されない生き方~
2013年、第10回どもる人の世界大会オランダ大会で、基調講演の要約を読んで、僕に声をかけてきてくれた世界的に有名な作家、デイヴィッド・ミッチェルさんの、もうひとつの文章を紹介します。どこを読んでも、共感し、うなずくことばかりです。
最後の「あなたの吃音がどのようなものであれ、それを理解して吃音から学ぶとよい。そして、吃音と良き友となることだ」のことばに、僕は、吃音からたくさんのことを学んできたこれまでのことと、僕と切っても切り離せない吃音という友のことを思います。
吃音のおかげで、僕は今、幸せに生きています。
吃音に振り回されない生き方
デヴィッド・ミッチェル
”n”という文字で始まる言葉を言おうとして、あなたの口が突然凍って、動かなくなったと想像してほしい。きちんとした言葉にならない、文が途中で切れてしまうのだ。その様子に戸惑った聞き手は顔をしかめる。話し言葉では、フレーズとフレーズの間にしかるべき長さの間を置いて話すものだが、その決まりを破っているのである。
ひとつの言葉を発するためにあなたは全身の力をふりしぼる。しかし出てくるのは「n-n-n」と喘ぐような音だけ。頭には血が上り、まるで車のアクセルを思い切り踏んだような事態に、目は大きく見開き、苦しみで顔はゆがんでいる。
ただならぬ様子を相手に気づかれたと知るや、頭の中ではけたたましい爆音が轟きわたる。聞き手の方はと言えば、何事もなかったかのようにわざと落ち着いた素振りを見せる。あるいは、どうしたものかと戸惑いを隠せない人もいる。ただ、あなたと違って、その人にはどもって出てこない言葉の意味がわからないのだ。その他にも、笑いを隠そうとしてか、その場面から顔を背ける人もいる。極めつきは、どもって言えない言葉をあなたに代わって言う人だ。しかも人助けをしたかのように誇らしげである。
このようなことが、何ヶ月かに一回、数週間に一度起こるのならまだしも、一つの文を話す間に二回も三回も起こるとは誰が想像できるだろう。目の前にいる人たちが、揃って寛大であるとは限らない。
自分の話し方がおかしいと気づいたのは、7歳か8歳の頃だった。確か、干ばつのあった1976年、空が抜けそうに青い夏の午後の出来事だった。
ハイド先生が、授業である質問をした。それは僕たちの年齢からすると難しい質問で、その答えは「Napoleon」だった。先生にほめてもらおうとすぐさま手を挙げた。ところが次に起こったことは初めに書いた通りの屈辱に満ちたものだった。女の子たちはクスクスと笑い出した。それよりも私自身わけのわからない病に突然襲われたようで恐ろしかった。一体どうなっているのか皆目わからず、どう言い表していいのかもわからなかった。
この地球上でどうして自分だけがこのような病に苦しまなくてはならないのだろうか。
私は3、4歳になるまで言葉を話せなかったので、サウスポートにあるクリニックへ連れて行かれた。そこでの経験は取るに足らないものだったが、どちらかと言うと楽しいものだった。どうして”n”で始まる単語にだけどもるのか、そのルールがまったくわからなかった。
もうすぐ9歳になろうとする頃、歳を尋ねられたらどうしようと不安だった。
言語療法士はレスターという名前の女性で、見かけは魔女のようだったが、やさしい人だった。私はセラピーを受けに行くことを幾分恥じていた。火曜日は隔週ごとにいつもより早く学校を出てレスター先生のところに行った。友達はなぜ早退するのかそのわけを知りたがったが、私はそのわけを言わずにうそをついた。セッションでは、メトロノームに合わせて話をしたり、絵本を読んだり、どもった時のことやその時にどう感じたかを日誌のように書かされた。これは短期的には効果はあったが、長期的な効果は何もなかった。
セッションでは、私はほとんどどもらなかった。数回のセッションの後、先生は私の母に、そのうちに治るから心配することはないと言った。この安易とも言える診断に私の家族は皆安堵した。しかし、私のどもりは、セラピーの安全地帯から一歩出ると、またもや息を吹き返すのだった。
やがて、私はこれはピリトンという薬を飲めば治る花粉症みたいなものではない、との結論を出した。再びレスター先生のところへ行くことは、私が問題を抱えた子どもであるという周りのイメージを固定化することになっただろうし、それは、社会に受け入れられて生き残るためには、ノーマルでなければならないという人生のこの時期においては、まずい事態であった。
13歳の頃は、どもりが治っては再発するというパターンを何度も繰り返していた。その時に受けた数回のセッションを除けば、どもりはひとりで格闘しなければならない問題となった。
子どもというのは、語彙の不足を直喩や隠喩で補うものだが、私は自分の舌の根元には、ゴラム(映画「指輪物語」に出てくる)のような、いたずら好きのこびとが棲んでいるのだとイメージしていた。こびとと私は、NATOとワルシャワ条約機構のように、終わりのない戦争に巻き込まれていた。こびとはどもりそうだと予測のつくパターンは避けるようだ。私が警戒心を保っている間は、スムーズに話させてくれる。そして油断すると襲撃してくる。会話のなかでは、どもりそうになる単語にスポットを当ててくれる。そして私の不安が高じてどもり始めると、キャッキャッと喜ぶのだ。まったく人を馬鹿にしている。このようなストレス状態では、どもりはさらにひどくなると思われるのだが、必ずしもそうはならなかった。
私が作家としてデビューをした頃、ブッカー賞の受賞者であるA.S.バイアットとロンドンで初めて朗読をすることになった。それは私の人生のなかで最も緊張した時間だった。それなのに、私のどもりは私の許可も得ずにどこかへ雲隠れしてしまった。そうかと思えば、友人や家族とゆったりと幸せな時間を過ごしている時に、突然前触れもなくこれでもかと襲ってくることがある。
まったく予測ができない。歌を歌ったり、独り言を言ったり、他のどもる人と一緒にいたり、夢のなかで話しているときはどもらない。しかし電話は、私の人生において厄介な問題であり続けた。留守番電話はまだましだった。そして自分よりひどくどもる人と話す時もそれほど問題はなかった。
どもる人の中には、父や母との関係がうまくいっていなくて親の家を訪ねるとどもりが戻ってくるという人がいる。私はそうではないが、悪くなったとも良くなったとも気づいたことはない。ただ長年の間にわかったことは、春になるとひどくなり、秋にはおさまるということだ。一体どういうきまりがあるのだろうか。このどもりという気ままな敵を打ち負かすには一体どうすればよいのだろうか。成長していく過程でもその手がかりはまったくつかめなかった。
ただわかっていたことは、手加減せずに攻撃をかけてくる子どもの非情な世界では、この問題は決定的に不利だということだった。言い争いになると相手は、面白そうにどもるのを真似てみせ、傍観している他の子どもたちはそれを見て笑い、勝利を収める。さらに彼らにとって幸運だったことは、私には彼らをぶちのめすほどのたくましさもなく、彼らをやっつけている姿を想像するしかなかったことだ。唯一、被害を最小限に留めるためには、どもりそうなアルファベットを避けることだった。話す文の中からどもりそうな単語を前もって拾い上げ、それらの単語を使わなくてもいいように文章をナビゲートするのである。
フランスの作家ジョルジュ・ペレックは、『Avoid』という小説をアルファベットの「e」をまったく使わずに書いている。私の親しい友人は、パキスタンで育ち、子どもの頃どもっていた。大人になり作家になったが、彼は、何年もの間まったく話すことをせず、ペンと紙でコミュニケーションをとっていた。
私も同じ方法でどもりを半ば隠すことはできたのだが、そのために大きな代償を払わなければならなかった。いつか見破られるのではないか、人目にさらされ、悪評が立ち、面目を失うのではないかという恐怖にいつも苛まれていた。さらに、「危ない単語」を避けるやり方では、授業中に進んで答えを言えない。先生に質問をされても、無知を装うことで、その場を凌いでいた。しかし、クリスマスの劇や収穫祭などで、大きな声でセリフを言わなければならない時は、体が凍ってしまい、まるで生き地獄のようだった。
何年もの間、私は中等教育の最終学年(16-18歳)の監督生に選ばれることを恐れていた。監督生に選ばれると集会で自分の選んだ文章を読まなければならない。果たして私はその監督生に選ばれ、悩み抜いた末に副校長に寛大な措置を嘆願した。彼女は直ちに執行猶予を認めてくれた。ブラッセット先生は、退職されて悠々自適の生活を過ごされているだろうが、もしこの私の文章をお読みになれば、先生の判断は正しかった。
同じく、シェイクスピア劇の役が振り当てられたとき、私はいつも家来か、走り去るだけのメッセンジャーの端役を願っていた。どもりが悪くなる季節には、英語の先生たちにこっそりとセリフのある役から外してもらうように頼み込まなければならなかった。「僕はどもるので」と言うことは、自分のどもりが先生たちに既に知られているのでないかという不安と同じぐらい恐ろしいことだった。「がんばらないとだめだよ」という意味合いも含めて先生たちは私の願いに応じてくれた。私は素直にそれを聞くしかなかった。
やがて就職が心配になり始めた。イギリスの就職難の対策として学校が就職面接のテクニックを教える、サッチャーの政策があまたで実施されている時だった。しかし、自分の名前さえまともに言えないのにどうして面接官に自分の優れた点を印象づけることができるだろうか。就職できても、いずれ本当のことがわかった時に首になっても仕方がないと思った。沈黙の戒律を守る僧侶か灯台守になるしかないのだろうか。努力をすること自体はすばらしいことだが、吃音に関しては、その方法を教えてくれる人は誰もいなかった。
私の一番の慰めであり情報源であったテレビは、この件についてはまったく役に立たなかった。テレビに出てくる数少ないどもる人の役と言えば、コメディばかりで、ただきまり悪い思いをさせられた。衛星放送のコメディ、Open All Hours(「24時間営業」)では、ローニー・バーカーが雑貨店の気難しいどもる店主を演じていた。おもしろおかしく描かれた店主に、事前に録音された観客の大きな笑い声が響き渡る。私はその番組が放映されていると知るだけで冷や汗が出て、学校で隠していたどもりがばれるのではないかと不安になるのだった。
コメディアンのマイケル・ペイリンがA Fish Called Wanda(邦題:「ワンダとダイヤと優しい奴ら」)で演じていた吃音の登場人物は、少し同情的に描かれていたが、それでも私は自分のことのように恥ずかしくて足の指が縮むのだった。この映画は、Shakespeare in Love(邦題:「恋に落ちたシェイクスピア」)に出てくる劇場のオーナーと描き方が同じで、どもらない人が私のどもりについて抱いていた神話を再現していた。私はこれを究極の治療神話と呼んでいる。つまり、どもる人をジョージ・オウエルの小説「1984年」に出てくる101号の拷問室に入れれば、どもりは魔法のように消えるというのだ。歴史の中には、そのような、でたらめな、一時しのぎの治療法が逸話として残っている。
パブリック・スピーキングの授業で、私が発表の辞退を願い出たときに、それを認めるのに躊躇した私の先生にも、やはりどもりを克服するには「意志の強さがなければならない」という神話があった。アメリカのある心温まる映画に出てくる車椅子の患者と通じるものがある。医師たちは患者に再び歩けることはないだろうと言う。しかし強い意志力によって彼は再び歩けるようになり、医師たちが間違っていたことを証明する。
この神話によって、私はどもりを治すための努力が足りないから治らないのだと、長いあいだ自分を責めることになった。私のいたずら好きのこびとが強い意志を巧みに食い物にする。吃音に立ち向かう意志が強ければ強いほど、あの雑貨屋の主人アークライトのように顔をゆがめながらでも、早口でしゃべれるようになるのだと。
今思えば、私の言語療法士のメトロノームにもこの神話は潜んでいた。言語のソフトウエアを再起動させることはできないし、いくら練習しても吃音は治らない。練習すれば改善するゴルフのスイングとは違うのである。
私は吃音を面白おかしく扱うコメディを、地獄の釜に放り込むことはやぶさかではないが、一方で、吃音にまつわる神話がいつまでも消えないことも理解できる。それは、吃音が人には語れない障害だからだ。人は、目の見えない人達と盲目について話したり、耳の聴こえない人たちと難聴について話すことにあまりためらいはない。ところが、吃音の場合は、恥の気持ちがいつまでも消えない。吃音について知らない人は、全身の力を振り絞ってどもっている人を前にした時のきまりの悪さをできれば避けたいと思っている。つい最近まで、私の友人や家族は、吃音を話題にすることすら、どもる行為と同じような苦しみを引き起こすのだと感じていた。
文学作品の中には、吃音について書かれているものがたくさんあるが、唯一真実味があるものは、ジョン・アップダイクによるエッセイで、その他にはほとんどない。小説の中の吃音の登場人物が、実際の経験を基に描かれているのかどうかは、すぐにわかる。偽物の吃音はアルファベットの文字を手当たり次第にどもるが、本物の吃音は、どもるアルファベットの数はごくわずかで、そのアルファベットで始まる単語しかどもらない。このように本物の吃音を描いたものがないことから、私はこの記事や、『Black Swan Green』という吃音についての小説を書くことになったのだ。どもらない人たちに、吃音と共に生きることがどういうことなのかを知ってもらいたいというのが私のささやかな願いだ。
そして大きな願いは、私が子どものころに吃音にどう対処したらいいのかを誰かに教えてほしかったことを伝えることである。そうすれば学校や職場の針のムシロに座っているような殺伐とした環境を生き抜く知恵を得られる。吃音と言っても様々で、その多様性を考えると、次に挙げる私の提案が、すべてのどもる人に役立つとは限らないが、私にとっては、これまでも、そして今も役に立っていることだ。
どもりを敵だと思っていると、言いたいことを機関銃のようなスピードで話したくなる。しかしCNNニュースのアナウンサーのように話せる人はほどんどいない。時間をかければよい。あなたは自分の考えを話しているのだから、もし聞き手があなたのペースで話すことをさせてくれないのであれば、それは相手の問題である。このことは、間をとるふりをすることで解消できる。どもりそうなときには少し間を置くとよい。次につなげるための最適な言葉を探しているふりをすればよい。もし聞き手がこれがあなたの普通の話し方だと思ってくれれば、例のいたずら好きのこびとがおとなしくするのを待っているのだとは思わないだろう。あまり突き詰めて考えない方が、自然と言葉が出てくることがよくある。そうはいかないときは、そのことばや文をあきらめて、他の良い表現を考えていたふりをすることだ。そうすれば、どもる言葉を使わずに文を変えても大事なポイントは伝えることができる。これは最終手段ではあるが、壊れたダレック(イギリスのテレビのSF番組に出てくるエイリアン)よりはずっとましだ。
次は、心の持ちようについてだ。吃音は、聞き手に対する我々の感じ方と関係がある。だからひとりでいるときにはあまりどもらない。どもっているところを人に見られることで不安になりどもるのだと私は考えている。吃音そのものが攻撃されても、何の影響もないのであれば、これは私自身の経験から言えることだが、その不安をやっつければよい。どもったとして、聞き手がどう思おうと動じない態度を身につけることだ。大丈夫、次の言葉を発するまでにもう少し時間がほしいだけなのだと考えればよい。
確かに、私のような30代も後半のフリーの小説家であれば、どもっても動じないでいられるのだろう。しかし、北ロンドンのいろいろな国の子ども達が通う荒れた環境の中にいる10代の学童にとっても、これは役に立つはずだ。自尊心を高める努力だけでなく、この動じず無関心を装うという態度を保つことができれば、それによってどもることも少なくなるはずだ。
できることならば、私は13歳の頃の自分に電話をかけて、「どもりを治す魔法の杖などない」と伝えたい。最初はがっかりするかもしれないが、そのことは彼がずっと知りたがっていたことだ。私が少し言葉をかければ、きっと元気になるはずだ。
「君ならこれらの作戦はうまくできるはずだ。あのヘッド・アンド・ショルダーというシャンプーの、一昔前の広告に出てくる、小生意気な子ども達のように、どもりに苦しんでいる人という烙印を君に押す人もいなくなるだろう」と。
私の小説『Black Swan Green』の草稿を読んだ人は皆、口を揃えてどうやって私が吃音について調べたのかとたずねた。彼らは、私がどもることを知らないふりをして、私に自信を与えようとしているわけではない。誰でも言葉に詰まることがある。でも、それを吃音だとは呼ばれない。それは地面が揺れていても、ある基準の振動に達するまでは地震とは呼ばないのと似ている。少しどもっただけであまり騒がないことだ。
ある有名な元サッカー選手が、自分のアルコール中毒について、「治らない」と言っていたことがある。その代わりに彼は完全な禁酒を誓った。我々も、どもっていても、どもりに振り回されない人間を目指した方が現実的で健康的であると思う。
私の壮大な考えは、自分のどもりを殺そうとしないことである。どもりをいたずら好きのこびとであるとか、しつけの良くない犬だとか、どのような比喩であれ、問題解決の助けとはならない。
吃音に対する見方を変えるべきだ。征服すべき敵として見ることはやめて、吃音のことをどう考えるか、他者をどうとらえるか、そして言語をどう処理するか、吃音はそのプロセスの一部であると考えるとよい。
あなたの一部である吃音を憎み、招かれざる客のごとく疎んじても何の益にもならない。あなたが語彙や構文をもう少し自由に使いこなしたいと思うならば、あなたの吃音から、あなたと言語との関係について情報を得ることができる。そしてその関係を豊かにしてくれる。
吃音は人を内在化する。しかしあなたが話し出す前に考える時間は十分にある。もし私が密かに羨んでいた級友のように楽々と言葉を発することが出来たのであれば、言葉を紙に書き留めたり、作家になる必要性など感じることはなかったかも知れない。人はどこかで生きて行かねばならないし、何がしかの人にならなくてはならない。
そしてあなたの吃音や障害が友達を遠ざけたりしているのでなければ、それがあなたらしさやあなたの職業を決める妨げにはならないはずだ。いや、妨げになってはならないのだ。
私は、ただただ自尊心を奪われるばかりの、吃音との終わりのない戦いを頭の中で延々と続けてきた。私の「心のチキンスープ(心の糧)」を他のどもる人たちと分かち合いたいと思う。
あなたの吃音がどのようなものであれ、それを理解して吃音から学ぶとよい。そして、吃音と良き友となることだ。(訳:進士和恵)
◇デイヴィッド・ミッチェル(英国)略歴◇
デイヴィッド・ミッチェル(1969~)は、今世界で最も注目されている小説家のひとり。代表作『クラウド・アトラス』(2004年)は、ブッカー賞にノミネートされ、ミリオンセラーとなった。1993年から8年間、広島に住み、英語を教えるかたわら、『Ghostwritten』(1999年)や『ナンバー9ドリーム』(2001)を執筆。その後、アイルランドに移り住み、2006年に『Black Swan Green』が出版された。これはミッチェルの自叙伝的な作品であり、自らのどもりを主人公である13歳の少年に託している。イギリスの言語療法の教育課程で教材として広く使われている。上記の記事は、イギリスのオブザーバー紙とオランダ人文科学・社会科学研究所の機関紙36号に同時掲載されたものである。ミッチェルがいかにどもりと向き合い、折り合いをつけて行ったかが克明に書き記されている。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/11/28



