第16回吃音親子サマーキャンプ~作文と感想~

 吃音親子サマーキャンプの2日目の朝は、作文教室です。どもる子ども、どもる子どもの保護者、どもる人、ことばの教室担当者や言語聴覚士、参加者全員が机に向かい、作文を書きます。ひとりで、吃音と自分に向き合う静かな時間です。そのときの作文と、終わってから送られてきた感想を紹介します。こうして読み返してみると、みんなはこのように深く悩んでいたのかと、今更ながらに思います。
 僕も、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、小学2年の秋から、21歳の夏まで、あんなに深刻に悩み、思い詰めていたことが、ウソのように思えてしまいます。吃音は、人をそこまで深刻に悩ませるものである一方、どもることを認めてさえしまえば、思いもしなかった明るい未来がみえてくるものなのです。そのことを、なんとか、多くの吃音に今悩む人に伝えたいと日々努力しているのですが、なかなかうまくいかないのが、悔しく、残念でなりません。

《作文教室で書いた作文》
  やっぱサマキャンの力はすごい
                              みほ(高校3年生)
 サマーキャンプに小4で初めて参加してから早くも卒業という時期を迎えてしまいました。今までの自分の吃音を振り返ってみると、いろいろなことがあったなあと思います。小さいときに、友達の家のインターホンを押したときに、自分の名前が言えなくて泣いて家まで帰ったこと。小4で代表委員に立候補し、全校生徒の前で自分の名前がなかなか言えなくて泣いたこと。小学校の音読で最初の音がなかなか出せなくてすぐ終わるような文章を何分もかかってしまい、その場から逃げ出したかったこと。他にもここに書ききれないくらい吃音で嫌だったこと、苦しかったこと、泣いたことはいっぱいありました。そのたびに吃音のことを憎んでたし、「吃音じゃなかったらこんなに苦しい思いはしなかったのに」と、何度も思っていました。でもそのたびに吃音サマーキャンプのことを思い出して、「自分だけじゃない。みんなもがんばってるんだ」と思って、サマーキャンプに早く行きたい気持ちでいつもいっぱいでした。
 サマーキャンプに参加してからも中学くらいまでは、吃音の原因がどうとか、治したいという気持ちが全くなかったわけではなかったけど、今は原因とかどうでもいいし、治したいとは思いません。それでも日常では無意識に言いやすいことばに換えて喋っちゃってるんですけどね。
 それでも吃音に対して前と考えが変わったのは、サマーキャンプのおかげだと思っています。これから吃音で嫌なことは、いっっっっぱいあると思います。人前でも堂々とどもれるのにはまだ勇気がいるし、吃音から逃げることができないけれど、今までどうにかなってきたんだから、これからだって失敗はいっぱいするだろうけど、やっていけると思っています。そう、信じています。

《サマーキャンプ感想》
  吃音が生みだす「出会い」~第16回吃音親子サマーキャンプに参加して~
                         原田大介(広島大学大学院生)
 滋賀県でおこなわれた「第16回吃音親子サマーキャンプ」に参加した。はじめての参加だった。
 キャンプの名前の中にもある「吃音」。このことばの意味を完全に理解している人は、今回のキャンプの参加者だけでなく、地球上のすべての人の中にも存在しないのかもしれない。私もまた、吃音を理解することができない人間のひとりである。キャンプを終えた今も、それが何なのかが、さっぱりわからない。吃音とは、何だろう?
 私の生年月日は、1977年5月24日である。母が残してくれた「母子健康手帳」には、5歳の欄にある「発音が正確にできますか?」の項目に「いいえ」とチェックされている。6歳の欄には、「保健所の人に相談する」と記されてある。
 私自身、6歳のときには吃音であることを自覚していた。吃音をコンプレックスに感じ始めたのは、小学校2年生のときである。
 現在の私は28歳。計算してみると、私は吃音に、約20年間以上苦しめられてきたことになる。私にとって吃音とは、「嫌い」で「憎いもの」でしかない対象である。忘れるはずのない自分の名前が言えない瞬間は、身がちぎれるほど悲しくて、苦しい。実際、日常生活のなかでは、電話を使うなどの事務的な作業も多く求められる。
 多くの人があたりまえにできること。それが、あたりまえにできない存在であるということ。その事実を突きつけられる瞬間は、ただただ、みじめな気分になる。自分がちっぽけな存在であることを自覚する。吃音であることの「痛み」を笑って受けながすことができるほど、私は、強くはなれない。
 最初の問いにもどりたい。吃音とは何か。あえて定義すれば、吃音とは、「その存在すら忘れていたいのに、ことばを口にしたとたんに、「私」であることを突きつけてくるもの」である。吃音に対する私の否定的な気持ちは、今でも変わらない。
 しかし、少しずつ、ほんの少しずつだけれど、目には見えない静かな変化が、私のなかで起こりはじめている。その感情の変化にとまどい、揺れ動いている私がいる。
 「第16回吃音親子サマーキャンプ」に参加した数は、140名にのぼる。私はたくさんの人と話し、笑い、泣き、考えを深めることができた。すべての人と直接に話すことはできなくても、「時間を共有する」という大切な時間を私は過ごすことができた。
 吃音に関係する多くの人が気づいていることでもあるが、吃音について考えることは、吃音だけの問題に限定しない。吃音は、一人ひとりが抱えている「痛み」を投影している。ここで言う「痛み」とは、「生きづらさ」や「生き苦しさ」と言い換えてもよいだろう。それは、「隠しておきたいもの」であり、できることならば、「思い起こしたくないもの」である。避け続けていたい「私」の「痛み」と向き合うことの大切さを学ぶこと。そして、少しでも前にすすむための可能性を探ること。このキャンプは、吃音を通して、「痛み」について学ぶところでもあったのである。
 「人」の「痛み」について敏感な人は、「私」の「痛み」にも敏感な人である。「私」の「痛み」ときちんと向き合った人でなければ、「人」の「痛み」と向き合うことなどできるはずもない。吃音である人も吃音でない人も、キャンプにかかわり続けている人の多くは、そのことを直感的に見抜いている。
 おそらく、私が吃音でなかったら、キャンプに参加したメンバーと出会うことは一生なかっただろう。また、「私」という存在のありかたについて、ここまで考えることもなかっただろう。「吃音」という存在が、「人」とのつながりを生み出す「場」を提供しているだけでなく、「私」について考える場も提供しているのである。
 嫌いで、憎くて、その存在すら忘れていたいものが(私の場合、吃音)、人の「出会い」を生み出すことがある。そして、「私」という存在について考える機会を生み出すことがある。
 世の中には、こんな不思議な現象があるようだ。逆に考えれば、嫌いで、憎くて、その存在すら忘れていたいものにしか生み出すことができない「出会い」も(つまり、吃音という特別な条件でしか生み出すことができなかった「出会い」も)、この世の中にはあるということだ。キャンプに参加したメンバーとの出会いは、まさに、そんな奇跡を感じさせる「出会い」だったように思う。
 私のなかには、「意味のないもの」や「無駄なもの」など、ひとつもない。それが、どんなに世間で言われるところの「欠点」であるとしても、人とのつながりを生みだし、「私」について考えるものになりうる。繰り返すが、吃音に対する私の否定的な気持ちに変わりはない。きれいごとだけではすまされない現実が、そこにあるからである。
 けれど、このキャンプに参加したことで、少しずつ、吃音に対する私のとらえかたが変わりつつある。そして、少しだけ、私という存在を、あるがままに受けとめようとしている私がいるのである。
 このキャンプに参加できたことを、私は心から感謝したいと思う。

《サマーキャンプ感想》
  心から認め、応援したい
                   秋原圭子(小学3年生の母親)
 キャンプに参加して肩の荷が降りたような、気が楽にもてるようになりました。本人には、この吃音が治らないかもしれないということは前から伝えてありました。私もそれを受け入れていこうと思っていましたが、やはり気になるものです。完全に治らなくても、ましにはなるのでは、という気持ちは残っていました。でも、このキャンプで親との語り合いの中で、自分よりもはるかに深い悩みや、高学年の子を持つ方の体験話、また親本人もどもる人の経験や気持ちの持ち方、考え方などを聞かせてもらい、体から余計な力が抜けていったように感じました。自分の子も、どもりがあってもなんとかやっていくだろうと思えるようになりました。
 「あなたはあなたのままでいい。あなたには力がある」ということばを素直に受け入れることができました。親の学習会では、子どもを信じ、悩んでも大丈夫と思うこと、子どもは悩みの中からいろんな力をつけていくものなので、先回りして解決してはいけないと聞きました。また、私は子どもがどもることがハンディだと思い、自信を持たせるために何かをやらせたいと思っていましたが、親から何かをさせるのはよくないことで、本人から進んでするまで待つ方がよいと聞きました。子どもを信じて待つということは、忍耐のいることだと思いますが、子どもが吃音とちゃんと向き合い、本当の自信を持つことができるように、私も努力をしたいと思います。本人もきっとがんばっているのだと思います。朝の健康観察のときの「はい、元気です」がどもって言いにくいと言っている子ども。それでも朝、元気に「行ってきます」と言って出かけていきます。私から見れば些細なことでも、本人にとっては重大事項なのでしょう。心から認め、応援してあげたいと思っています。
 本人もキャンプはとても楽しかったと言っています。同じ学年のどもる子どもたちとの話し合いで、どんなふうに感じたのか知りたいところですが、本人は何も言ってくれません。でも、キャンプ後は、自分からどもることを話題にしたり、友達から言われて嫌だったときのことを聞かせてくれました。初めて聞きました。少し明るくなったように感じます。
 これから先、人生の節目節目で、困難なことに出くわすことになると思うけれど、勇気をもって強い心で乗り越えていってくれることを願っています。私もそのときどきに力になれるように勉強し続けていきたいと思います。(「スタタリング・ナウ」2005.10.22 NO.134)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/06/24

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