我の世界と我々の世界

 島根で、2004年に開催した第4回臨床家のための吃音講習会での梶田叡一さんのお話を紹介してきました。間がずいぶんあいてしまったのですが、続きを紹介します。
 このときの吃音講習会のテーマは、《どもる子どもの自己概念教育》でした。吃音と向き合い、どもる自分をみつめるには、自己概念教育こそが大切だと考えていた僕たちは、長年、子どもの自己概念教育、自己意識の研究と実践を続けてこられた梶田叡一学長を講師としてお迎えしたのでした。
 前夜から来て下さった梶田さんと参加者は、車座になって、夜遅くまで気さくに語り合いました。基調講演としてのお話は、ご自身の体験を交え、分かりやすいものでした。大事なことは、何度も繰り返していただき、印象に残りました。

第4回臨床家のための吃音講習会・島根 2004.8.7

  我の世界と我々の世界
                梶田叡一(現・兵鰍育大学学長)特別講演

第一段階 我々の世界と我の世界に気づく
 ほとんどの場合、どちらの世界のことも考えないところから出発します。自分の欲求、欲望のままに動いていいと思っている人は、いっぱいいます。言いたいから言う、これは無自覚です。それに対して、ある時期、世の中というものがあることに気がつく。好きなことを好きなときに好きなようにしていると、みんなが嫌う、冷たい目で見られる、したがってみんなから相手にされなくなって、人と一緒にできなくなる。これに気づくのが第一段階です。
 世の中が分かってくると、世の中の決まりやしきたりに関心を持って学ぶようになります。これは、我々の世界で生きる力を身につけることです。ただ、このとき気をつけないといけないのは、こればかりが肥大化してくると、落とし穴、罠にはまります。
 世の中のしきたりばかりにうるさい人がいます。京都なんかとてもうるさい。香典にピン札が入っていたら、ピン札を用意して、死ぬのを待っていたのかと言われます。結婚式のお祝いに、折り目が入っているお札が入っていたら、前からピン札をそろえて準備するくらいは当然だと言われます。
 世の中の決まりも大事にしないといけないが、あんまり杓子定規になったら、どうにもならん。それが、罠ですよ。私は、あんまりうるさい人が嫌いです。
 私が京都ノートルダム女子大学の学長として行ったとき、秘書室長さんに「先生は、この学校を代表して、外に出るんですからね」とものの言い方から服装までいろいろと言われました。でも、言われてもすぐ忘れる。我々の世界、世の中をみつけ、目覚め、約束事は大事にしないといけないが、それだけにとらわれ金科玉条のようにしてしまうと、次の段階に行けなくなってしまいます。

我々の世界を大事にすることとゆとりをもつこと
 次の段階は、我々の世界を大事にすることが分かった上で、世の中のしきたりを大事にする。しかし、世の中はそういうものだから、「泣く子と地頭には勝てない」から、とにかく頭を下げなくてはいかんと、本気で思ってはいけない。それはそれ、上手にそういうことにしておく。これが我々の世界を大事に生きるということです。世間のこだわりのある人とも、大事につきあいをしなかったら、生きていけないことがあります。だから、無自覚ではダメですが、肩書きのある人はえらい、と本気で思ったらダメです。
 我々の世界を大事に生きるということは、我々の世界の習わしや習慣を大事にしながら、そこにゆとりがなきゃいけない。ゆとりというか、遊びというか、「まあいいか」ということです。そうして、第二段階につながるのです。

第二段階 自分の発見
 私は他の人と置き換えできない命を生きている。
 ヨーロッパの教育で、メメントモリと言われることですが、死ぬということを忘れないようにしようというのです。何が確実かというと、ここにいる人はみんな死ぬということです。ローマの賢人セネガが、人間は自分だけは死なないようなつもりで生きている、と書いているが、これは幻想です。私という人間は、ずっと生きて、ある日突然パッと消える。そう思えば、自分のせっかくの命を、どう完全燃焼していくかが最大の課題になります。別の考え方をすると、いろんなことがあるけれど、結局、死ぬんだから、「まあいいか」です。でも、私は与えられた命を最後のぎりぎりまで完全燃焼することは自分の課題だと思っています。
 私もある日突然脳溢血や心筋梗塞で死ぬかもしれない。また寝たきりになるかもしれない。そうなって、「まだ死ねない。まだお迎えがこない」と言ったら終わりです。寝たきりになってからが勝負です。目をぎらぎらさせて、「わくわくさせてもらった今日一日が持てた」と思わないといけません。それをやるには修行がいるだろうと思っています。そのためには、たとえば「自分にピンとくる本」などが分かってないといけない。ノーベル文学賞をもらっただけでその人の本がいいなんて、たったひとりの世界になったとき絶対ダメです。音楽でも、べ一トーベンやモーツァルトやバッハもいいが、ほんとに、モーツァルトやワーグナーに自分がわくわくするかは確かめておかないと、ひとりになったときに困る。
 私も小さいときからピアノを弾いていたので、クラシックの世界は詳しいですが、やっぱり自分でピンとくるものは、石川さゆりなんですよ。吉幾三もいい、坂本冬美もいい。世の中のネットワークから解放されてたったひとりになったときに、我の世界がちゃんとできているかどうかが勝負です。自分にピンとくるものがあるかどうか、です。
 私は、壺が好きで、若いときから集め、この年になると、人に見せる壺や焼き物があります。でも今一番好きなのは20年以上も前に買った、名前も忘れてるし、箱もない壺です。自分にピンとくるものは、10年、20年経っても飽きない。たったひとりになったときに、自分の気持ちを和ませてくれるものをみつけて大事にする。そういう中で自分をどうやったらわくわく、どきどきさせることができるか、自分とのおつきあいの仕方をマスターしていかないといけない。自分がしんどいときには自分を支えないといけない。調子にのってるときは、自分を抑えないといけない。そういう中で、私はどうやったら今日一日本当にわくわくしていけるか、です。
これも我の世界なんです。これが第二段階です。
 ただし、これもまた落とし穴がある。これに目覚めると、自分さえよかったら、になる。自分で気が済むかどうかばかりを考え、人の目を顧みなくなる。これも恐い罠なんです。私しかいない、独我論的世界が、私は私の命にしか責任を持てないんだから、私がわくわくドキドキしながら生きりゃいい。他の人なんか知るか。他の人は私がそう生きるための手段、道具だという考えになってしまいがちです。
 これは非常に困ったことだと思うんです。そうではなくて、私の独自固有の世界をみつけ、それを深め大事にして、それを土台にして生きるが、同時に我々の世界に生きている。人と人とのネットワークの中にちゃんと身を置きながら、人のためにもなる、人にも喜んでもらう。あるいは人との手のつなぎ合いが自分にとっても心地いい。自分の世界を土台として大事にする。両方を大事にする、これは修行がいりますので、一生かけて考えていいことだと私は思います。

第三段階 こだわりからの解放
 第三段階は、悟りを開くというか、基本的に言うと、もうこだわるのをやめるということです。道元の話に、鐘の音がゴーンと鳴っていると、一体鳴っているのは何だろうというのがある。鐘が震えているから、その前に誰かがそれをついたから、空気が震えているから、私の耳が聞いてるから、ゴーンなんです。まあ、なんでもいいんです。結局、主語を何に置いたかです。道元は、鐘がゴーンと鳴っている、だけでもない。空気がゴーンという震え方をしているだけでもない。私の耳がゴーンというのを聞いているだけでもない。ゴーンがゴーンしてるというんです。何のこっちゃ、よく分からない。
 全てを包括したものがひとつの現象だと言うんです。これを頭に置いて、みなさん、自分が生きていることを考えて下さい。
 今、梶田がしゃべっている現象は、そうです。私は、次に、何をしゃべろうかなんてほとんど考えてない。中味だって、これまで学んだことや聞いたことや見たことを、今、ことばに紡ぎ出している。でも、どう紡ぎ出すか、声帯をどう動かすか、なんて考えていません。自動的にしている。私の頭がいろんな考えを紡ぎ出し、それをことばに翻訳して、それを声帯の動きで、ということでしょ。梶田がしゃべってると言っても、それは間違いじゃないけれども、それは考えてみると、その間にも私の心臓は動いているし、血液も流れてる。梶田において、梶田というひとつの場所において、何事かが起こっているわけです。つまり、梶田という主人公は、本当はどこにもいないわけです。
 我々の世界で、ひとりひとりが主人公だという約束事をしないと、お互いのネットワークができない。けれども、本当は、我々の世界で考えていくのは、主語の置き方です。我の世界で考えてごらんなさい。私がというのがほとんどなくなり、どこかへすっとんでしまう。

大きな力に任せる
 浄土真宗の親鶯は、法然が「南無阿弥陀仏と言えば救われる」と言ってきたのを、「南無阿弥陀仏と言って救われるかどうか、分からん」と言った。ではなんで、南無阿弥陀仏と言うのか、「阿弥陀様、全部お任せしますよ」と言うのが、南無阿弥陀仏なんです。阿弥陀様という大きな存在に、自分のことを全部お任せしますという気持ちが起こって、そういうことばが自分から出てきて、うれしいから、南無阿弥陀仏だ、という。感謝の念仏なんです。私を離れて、阿弥陀様かなんか知らんけれども、大きな力に任せて、自分だけで生きるということをお休みしようという気持ちになったこと自体がうれしいじゃないの、というんです。「南無阿弥陀仏と言ったら極楽浄土に行きますか」と問われれば、そんなこと知るか、です。ただ、自分の先生である法然が言っているから、やってるだけだと言うんです。これが他力というんですね。これが悟りということです。
 私が生きているんじゃなくて、私において大きな力が生きている。自分で生まれてきたいと思って、生まれてきた人はいない。大きな力の中で生まれてきて、大きな力の中で生きてきて、今がある。そして、大きな力の中で消える。命は、そういうものです。
 私はいろんな機会に、妊娠中絶絶対反対を書いてきました。私が子どもを作るとか、私が子どもを産むか決めるとか、そういう考え方がどれだけ思い上がったものか。命は、自分の命だって自分のものじゃない。自分は与えられた命を、いわば仮の主人公として、どう生きていこうかを考えて生きているのです。私が私をしてるわけです。仮の主人公なんですよ。仮の主語のつけかたなんです。そうすれば、私の判断で、なんてことを言うのがどれだけ思い上がりか。もちろん、いろんな事情があるわけだから、私は個々のことについて各める気持ちは全くない。
でも、よく、女には産む権利があるとか、産まない権利があるとか、いう主張を聞くと、何を言ってるんか、と思うんです。何様のつもりか、と思います。

目覚め
 そこまでいくと、「吃音?そんなもの」ということになるんです。みんなそれぞれいろんな意味で限界をもった形の装置を与えられている。この装置の主人公は、私であるやらないやら分からないけれど、仮の主人公として私がやってるとしても、いろんな障害がある。私はこういう条件で生きていくようにと、この命をもらったということです。
 私は小さいとき、本当にお金持ちの家に生まれたらよかったなと思いました。20歳前後まで思ってました。学校に行かないで、アルバイトばっかりやってて疲れます。夏の暑い日に、アルバイトしなくてすむ家に生まれたら、楽に毎日毎日、古典なんか読んで、えらい人と対話したりして、豊かな自然にふれて。そんな暇なしで今まできました。でも、これが私の与えられた条件です。それぞれ自分に与えられた条件があります。隣の人はこういう条件で生きているといっても、それは隣の人の話で、私は私の条件を与えられています。姪のようにダウン症で生まれたら、それも与えられた条件です。私もすごく頭のいい人と出会うと、あっ、すごいなと思うことがある。でも、そんなこと言ってもしょうがない。あの人はあの人なんですから。私はそうじゃないんです。私が私の責任で生きていくと、そんな思いから解放される、これが第三段階です。(つづく)

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