2003年 第9回吃音ショートコース【発表の広場】3   なぜ、ここに? ここだからこそ!

 2003年に開催した第9回吃音ショートコースでの【発表の広場】で発表されたものを紹介してきました。今日で最後です。最後は、巻頭言で紹介した、「どもらない人」である掛谷吉孝さんの発表です。
 掛谷さんは、僕たちが事務局をしていた、竹内敏晴さんの大阪での定例レッスンに、毎月、広島から参加していました。そこで出会い、吃音ショートコースや吃音親子サマーキャンプにも参加するようになりました。竹内さんが亡くなってからは、自然と離れてしまったのですが、先日、久しぶりに連絡をもらいました。
 NHK EテレのハートネットTV「フクチッチ」を見て、連絡してくれたのです。「フクチッチ」のテーマが吃音というので、もしかしたら僕が出るかもしれないと思ってテレビを見たら僕が登場したというのです。イベントには参加できないと思うけれど、「スタタリング・ナウ」を購読したいとのことでした。3時間半以上カメラが回り、取材を受けたが、流れた映像はとても短いもので残念だったなあと思っていたのですが、こんなうれしい、おまけのような、掛谷さんとの再会を作ってくれました。

なぜ、ここに? ここだからこそ!
                   三原高校教諭・掛谷吉孝(広島県)

 緊張しますね、やっぱり。発表の広場で話をしてみないかと2,3週間前ですか、伊藤さんに急に言われて、どうしようかなと思ったんですけど、割と安請け合いをしちゃうタイプなので、引き受けてしまいました。僕は吃音でもないし、臨床家でもないのに、なんでここに来てるのとよく言われるのですが、どっちでもない人がここに来てどんなことを思ってるかを話してくれないかと言われたので、まとまったことは言えないのですが、思っていることを話したいなあと思います。
 もし、お聞きになって、それはちょっと違うかなということがありましたら、後でいろいろ聞かせてもらえたらと思います。足りないことは伊藤さんがつっこみを入れてくれるということなので、それに任せたいと思います。
 なぜここに来るようになったかというのは、5年前に、掛田さんが話をされた竹内敏晴さんのレッスンでたまたま伊藤伸二さんに会ったことがきっかけなんです。僕、最初、伊藤さんが何をしている人か知らなかったんです。2回か3回くらいレッスンに通って話をしたりしているときに、伊藤さんがこんなのがあるのだけどと、この吃音ショートコースのことを教えてくれました。そのときは、《表現としてのことば》というテーマで、谷川俊太郎さんと竹内敏晴さんをゲストに呼ぶということだったので、そこだけ聞いて、行ってみたいなあと思って、「いいですね」と言ったら、伊藤さんが「じゃあ、案内を送るから」と言われて、それから何日かして送ってきてくれたんです。いいなあと思ったんですが、正直、案内を読んだときに、さあ、ほんとに行っていいのかなと思ったんです。
 僕は、吃音でもなくて、吃音の人にかかわっている仕事をしているわけでもない、それで行っていいのかなという迷いがちょっとあったんです。そのときに同封されていた、『スタタリング・ナウ』に、読売新聞に伊藤さんの半生記が載っているのを読んで、伊藤さんがいろいろ紆余曲折というか辿ってきた道を書いてあるのを読んでいて、ますます僕が行っていいのという気持ちがあったんです。あったんだけど、伊藤さんの方から声をかけてもらったということがあったし、これも何かの縁かなということと、参加対象という中に吃音の人、臨床家、コミュニケーションに関心のある人という項目があったので、これは自分をここに当てはめていけばいいだろうと半ばこじつけて来ることにしました。
 吃音ショートコースは研修もおもしろかったんですけど、驚いたことが二つありまして、一つは吃音の人ってこんなにいるのか、ということでした。僕は吃音ということで、思い出したのは、小学校の同級生でどもっていた子がいたんです。その子のこと、だいぶ忘れていたんですが、吃音ショートコースがあるよと聞いて吃音という文字を見たときに、その子のことを久しぶりに思い出しました。
 そういえば、あいつはどうしてるのかなあということを思い出しました。僕が吃音ということで知っている人ってそのくらいだったんですけど、ここに来たら仰山、こんなにいるのかなと、先ず一つ目はそれが驚きでした。
 それともう一つ、昨日もコミュニティアワーがありましたけど、どもる人って、こんなにしゃべるの? みんな悩んでるのとちがうの? と思ったんです。正直、部屋の中にいっぱい人がいて、みんなしゃべってる、それにすごく圧倒されました。そのときは、端の方にちょこんとすわっていただけだったと思うんですけど、何なんだろうということをしばらく思ってたことがあります。
 何回かここに来ていて、思うのは、吃音のことで悩んでいるといっても、話したいこととか思っていることはいっぱいあって、それを受け止めるということが、日常でなかなかないのかなと思います。
 僕は、高校で英語を教えているんですけど、一応そういう意味ではことばが専門ではあるのですが、ここに来て分かったことは、ことばにとって必要なのは、内容が明確であるとか、滑舌がいいとか、そういうことじゃなくて、それを受け止める相手が必要なんだということが僕はすごく大きいということです。だから、いかに筋が通っていようが、それを受け止める人がいなかったら、ことばは成り立たないということですね。僕は、ここに来てすごく身に浸みる思いで分かりました。
 それと、ここでコミュニティアワーもそうですが、話してるのを見ていて思うのは、聞き手と話し手というのが役割が固定していないんですよね。この人が聞き役をする、この人が話すというわけじゃない。この人が話してたら今度は後でこの人が聞き手になってるとかね。それがお互いにできてるというのが、僕はここが場としていい所だなあと思います。それは、ここが持っているひとつの場の力かなあという気もするんですけど、お互いが平場でいるというのは、そういうところがあるからかなあと思っています。
 さっき、ビデオであった吃音親子サマーキャンプには、僕も何回か参加をしているのですが、そこで思ったこともいくつかあって、子どもが話し合う時間があるんですね。多分配慮だと思うのですが、僕が高校の教員だから、高校生とかそれに近い中学生の所へ入れてくれてると思うんですが、そこで去年、話し合いをしているときに、普段これが言いたいけど、ここでつまるから困るってことはないか、みたいな話題になって、そのときに、僕の中ですごく印象的なことがあったんです。
 そういうときは早口で言うという子がいたんですね。早口でも分かってもらえなかったらどうするのと聞いたら、いや3回くらい言ったら大体分かってくれると言うんですね。僕は、その3回言えば分かってくれるというのは、すごいと思ったんです。僕だったら絶対3回は言わないと思うんです。2回言ってだめだったらもういいやと思うんですが、その子は3回言ってでも伝えるということをしっかりやろうとしている、これがすごいなあと思ったんです。それを聞いて思ったのは、それくらい真剣さがいるんじゃないかということです。すらすらとことばが出たら伝わるものだというふうに、多分どもらない人はなんとなく思っているんですけど、そんな甘いものじゃないなあと思います。むしろ、その人がどんな気持ちでこの人を相手に伝えようとしているか、そこがないとことばはやっぱり成り立たないんじゃないかと思います。僕は、そんなにことばに対して真剣になっていなかったんじゃないかなあということを考えさせられました。
 伝えることに真剣だということと、その子は早口ででも3回言うということをやってるわけですけど、その子が身につけたというか、自分なりに試行錯誤をしてこれだと思ったやり方だと思うんですね。それは、人によって多分違うと思うんです。どもり方もその子によっていろいろつまることばとか違うと思うし、そうなると、どうやったらうまく伝わるかということをその子は必死で考えて、自分なりに身につけると思うんです。3回言うというのを聞いて分かったのは、真剣さと、もう一つは、自分なりの伝え方をみつけるものだということですね。なんかうまい方法があって、それをやれば伝わるということじゃなくて、自分がこれなら確かだということをみつけてそのスタイルでやるということだと、これが大事だなということが僕の発見でした。
 何年か前に、論理療法がテーマだったことがありますけど、あのときに、唯一のベストじゃなくて、マイベストをみつけたらいいんだという話がありましたけど、僕はそれとつながるなあと思います。マイスタイルが大事だなあと思います。マイスタイルをみつけるということと真剣であるということが大事なんですが、それをみつけるというのはそう簡単にはいかないんですね。
 昨日、夕方の吃音臨床講座で、僕は成人吃音の方に混ぜてもらってました。そこで自己受容とか他者信頼ということで、話し合いをされたんですが、話し合いでこんなことが出てきたということを聞いていて、受容、受け入れるっていうのは、しようと思ってできるものじゃないと思いました。がんばったら自己受容できますとかいう、そういう話じゃないと思うんです。なぜかというと、自分を受け入れるというのは、ひとりじゃできないと思うんです。何かそれを聞いている人がいて、ふっと何か言ったはずみで自分が、(あっ、自分ってこういうことなのか)とか、(あっ、こんなふうに見てくれてるのか)というのが分かったときに、初めて受け入れるということが出てくるんだろうなあと思います。
 ひとつだけ僕の例で言いますと、僕は自他共に認める男前で、それは半分冗談ですが、自他共に認めるマイペースな人間なんですね。去年、僕が職員室ですわっているときに、生徒がこんなことを言ってたんですね。「なんか先生の周りだけ時間がゆっくり流れてそうな感じ」僕はそう言われたときに、ああ、僕はそういう雰囲気を持ってるのかと、それはマイペースというのとは違うと思うんですね。その表現でしかできない言い方があって、なんか僕は妙に納得しちゃったというか、ああそういう雰囲気なんだけど、それがもしかしたら合う子だっているかもしれないなということを思った。それが逆に人をイライラさせることがあるかもしれませんが。そういうときに初めて受け入れるというか、あっ、自分はこうなんだということが分かることがあると思うんですね。それは、人に出会っている中でしか分からないので、僕はここに来てそういうことが感じられたことが自分にとってはすごくいいことで、だからここに来続けてるのかなあと思っています。
 というところで、何かつっこみを入れて下さい。

伊藤 「やればできるじゃないか、ゴーシュ君」(『セロ弾きのゴーシュ』の楽長のせりふ)。 つっこみを入れてもらわなきゃしゃべれないと言ってたのに。
 僕は誰かれなしに誘うことはしなくて、どもりのにおいがするなあという人を誘うので、もちろん掛谷さんは吃音じゃないけど、なんかどもり的なものというか、そういう雰囲気がある。最近、どもり始めたでしょ。
掛谷 そう。こないだ、伊藤さんにも言ったんですが、最近たまにどもるんです。これが不思議なことに。長年どもっている人からみれば、ひよっこですけれども。僕はどもっているなあと気づいたときに、思ったのは、どもってるときって言いたいことは、ここまでいってるんだけど、ことばが追いついてないという感じがしたんです。もしかしたらこういうのがどもっている人が持っている悩みに近いのかなあと思って、それは自分でも不思議な体験でしたね。まあ、治そうとは思いませんが。
伊藤 僕、どもる人のセルフヘルプグループって何だろうと思ったときに、どもる人だけが集まってはだめだと思うんです。吃音の場合は聞き手がいてこそ成り立つものだから、できれば理想的にはどもる人半分、どもらない人半分がいて、その中で生きるということとか、コミュニケーションを一緒に考え合うのが僕の考える理想的なセルフヘルプグループのミーティングなんです。そういう意味では掛谷さんは、大変ありがたい存在です。

 どもる人本人でもなく、ことばの教室の担当者でもない掛谷さんの存在は、掛谷さんグループという名前がついて、少しずつ広がってきています。(「スタタリング・ナウ」2004.1.24 NO.113)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/03/25

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