2003年 第9回吃音ショートコース【発表の広場】2   吃音と私

 吃音ショートコースには、本当にいろいろな人が参加してくださったなあと改めて思います。
それぞれがいろんなきっかけで僕たちと出会い、直接このようなワークショップに参加してくださいました。体験を聞かせていただく中で、ぐっと距離が縮まります。人との距離を遠ざけた吃音が、今は人との距離を縮めてくれる大切なものになっていることを実感します。ご自分がお書きになった本を送ってくださったことで参加され、発表された田中さんの体験を紹介します。

  吃音と私
                     永野病院・田中保彦(千葉県)

 ただいま御紹介いただきました田中です。現在、千葉県市原市で60床の小さな病院の雇われ院長をしております。私も自分の名前が言いにくくて、最近はうまくごまかして言ってしまうのですけれども、ひと頃はきちっと言わなくてはいけないというような固定観念にとらわれていまして、それが一層言いにくさを増した時期もありました。今、順番を待つ間も非常にどきどきしていまして、トイレにも行きたくなるし、早く順番が来ないかなあと思って順番を待っていました。随所にどもるところがありますので、いくつどもるか数えてみて下さい。
 今、順番を待つ間にどきどきしているというふうにお話しましたけれど、私がどもり始めたといいますか、それを恐怖に感じ始めたのは中学校の2年生のときです。いわゆる思春期、異性を意識し始めたりする時期だと思いますが、国語の朗読のときに最初の一語目からことばが出なくなったのです。それまでも幾度かどもっていましたが、それを恐怖に感じたことはありませんでした。初めての経験でした。さきほどお話された掛田さんと同じように、話をしていて友だちから発語の際に目を細める癖を指摘され、そのときから意識するようになったのかもしれません。得体の知れない嫌な感じというのは、常々持っていましたけれども、そういう形で自分が進退窮まるというような状況は初めての経験でした。それ以後、おきまりのコースだとは思うのですが、どうやって解決していいか分からずひたすら逃げてしまいました。
 中学3年生の1学期、自己紹介がありますね。さきほど言いましたように、自分の名前が言えない。これはごまかせないですから、もうどうにもならなくなって、自己紹介が始まってから、その途中で、先生に手を挙げて、トイレに行かせてもらいました。そのときのことばは、なぜかすらすらと出たんです。多くの吃音者の方が経験していらっしゃると思いますけれども、とっさのとき、意識しないときは、割とことばが出やすいですね。トイレに行き、自分の番が過ぎたかなと思って、そろそろ戻ろうかなと思っていましたら、手洗いを出たところで、向こうの方から数人の同級生たちがやってくるんです。あわてて、またトイレに隠れました。それからドアを閉めてずっと身を潜めていました。しかし、トイレの中までみんなで入ってきて、心配してドアを全部たたいて回るのです。さらに返事がない所を開けて確認までしている。もうこりゃダメだと思いまして、諦めてじっと身を潜めていました。ドアの上には壁がありませんので、そのままジャンプすれば中が見えるわけです。それで、ジャンプした一人に見つけられてしまいました。決まり悪く自ら外へ出て、体の具合が悪いんだなどと言いわけをして、担任の先生に付き添われて保健室まで行ったというような、そんな惨めな経験があります。
 その後、学校へ行くふりをして、実は学校には行かずに、近くの物置のような所に隠れていて、またこっそり家に戻ってくるというようなことをして学校をさぼりました。母親は、私が小学6年生のときに亡くなっていましたので、親父と兄が仕事にでかければ家の中にはもう誰もいません。そのうちたまたま途中で戻ってきた兄に見つかって、すごく叱責を受けました。それでも学校に行かず、1学期の大部分を不登校で過ごしました。幸運もあって、あるいは先生方の配慮もあって、2学期、3学期とどうにか学校に行くようになりました。3学期には同級生たちが私のがんばりを認めてくれて学級委員に選んでくれたりしましたが、自分の中では何も変わっていないという気持ちが強く、全然自信にはなりませんでした。ですから、高校に行ってから先は本当に逃げまくりの人生でした。どうにもならなければその場で「自分はことばがつかえます」とか、「うまく読めません」などと言って逃げる。一々それを言うのも面倒なので、初対面の人の集まりや、自己紹介をしなければいけない場面はもうなるべく出ないように避けておりました。
 そんなふうに吃音とつきあいながら生活は同時進行していくわけですけれど、それがどんなことで転機を迎えたかというと、別に劇的なことではないのです。結局、吃音を嫌だな嫌だなと思いながら仕方なく、不愉快な気分をずっと抱えて普通に生活をしていて、ごくありふれた日常生活での小さな感動といいますか、そういったものも経験しながら、30歳くらいまで変わり映えのしない生活をしていました。私は21歳で学生結婚しましたが、別に自分がもてたからではなくて、なりゆきで結婚しだらだらと生活をしていました。就職もせずに、自分で塾をやっていました。それが発展していって、学生を雇って、生徒数は全部で5、60人くらいでしょうか、その程度の塾をやっておりました。
 29歳のとき子どもが生まれて、直接のきっかけというと、その辺ではないかと思いますが、やはり、これではダメではないかと思い、大学の医学部を受け直しました。それまでは、1対1で話をしてもそれほど恐怖感はないのですが、電話は怖くて普通にできるようになったのは28歳のときです。子どもができたころまで電話は恐怖でしたね。自分でかけることができないのです。かかってきても、うまく最初の返事ができないこともありました。そうすると、電話の向こうで相手の誘しげな雰囲気が電話口に伝わってきます。それで自分から受話器を置いて逃げる、そんなすごく情けない思いをしました。その後もずっと頭にひっかかっていたのは、おおぜいの人の前で話をすることです。社会に出ると、結婚式などでスピーチをしなければいけない。それなのに自分は社会人としての宿題を果たせられないのではないかという不安がずっとありました。それでも一方では子どもができたし、なんとかがんばらなければいけないという思いで医学部に入りました。医学部に入っても、それまでずっと逃げ続けた学校生活を送ってきましたので、非常に苦痛でした。今度は出席の返事すらまともにできなくなりました。
「ハイ」ということばがなかなか出ないのです。
 13歳の時に朗読で立ち往生してから37年間、今50歳ですが、現在でもさきほどもお話したように、相変わらず強い予期不安を感じます。しかし、いつの間にかそれでもなんとかやるんだという気持ちに今ではなっています。これも、一口では言えませんが、その中には森田療法との出会いがあり、またごく最近ですが、インターネットで伊藤伸二さんの存在を知り、その本を読ませていただいて再確認をしましたが、やはり共通して言えることは、普通に生活をしながら、その中で吃音とつきあっていく。強引にねじ伏せるとか、逃げるとかではなくて、たとえどもっても自然にやれることをやっていく、ということです。
 私自身の性格というのは、あまり明るい性格ではないので、人の中に入って話をしていますと、自分だけが暗くて雰囲気を落としているのではないかという気持ちを抱くことがあります。さきほどの掛田さんのお話を聞いていると、私にはただただまぶしく感じられました。自分の性格ですから、それをもちろん変えるわけにはいかない。また、私は今こういう仕事をしていますけれど、びくびくするとか、どきどきするとか、これは要するに自律神経の問題で、自律神経の中の交感神経が興奮するとどきどきする、これは当たり前なんです。これをいけないことだ、お前は弱いんだというふうに私はずっと思い込んでいたのです。自然な生理現象ですから、自然のままにして、今やらなければいけない、たとえば結婚式のスピーチなら、仕方がない、友人や同僚を祝うためにとにかくどもってもなんとかやる、それに尽きるのではないかと思います。

 ご自分の吃音のことを書かれた本をお送りいただいたことがきっかけで、お誘いしたところ、急な話にもかかわらず、田中さんは遠く千葉県から参加されました。
(「スタタリング・ナウ」2004.1.24 NO.113)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/03/2

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